2016年12月12日月曜日

持続する喜び

薔薇ひとつ 悩める人を 励ませり

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。(ヨハネ15:11)
 
 主にある喜びの幾分かを知ったが「けれどもその喜びは持続するのですか」と訊ねたのは誰でしょうか。そして、なぜまだ終わりもしていない始まりにあたってその疑問がそんなにしばしば起こるのでしょうか。なぜなら、私たちは自分自身や他の人の喜びを訊ねたのであって、主だけの喜びについてではなかったからです。この絶えず起こって来る疑問に対する主ご自身のお答えは、主の子どもたちが非常にしばしば示す用心深く冷やかで悲しませるものとは大いに異なります。主ご自身のお答えは絶対的であり、十分であり、繰り返されるものです。 

 私たちは喜びという主の良い賜物を自分自身や他の人々に対して疑い深くそれゆえに不信仰な「もし続くなら」ということでもって満足させている時、私たちがどれほど反聖書的であるかということをほとんど認識していません。おお、おしえとあかしに尋ねなければならない(イザヤ8:20)。」幸せなキリスト者よ、そこにあなたは私たちの喜びの輝きの上にある唯一の影に対する真の豊かな答えを見出すことでしょう。あなたがそれに関して主のことばを信じている限り、喜びは非常に長く持続することでしょう。

 あなたが、別の相談者に訊ね、その代わりに彼らのことばを信ずるやいなや、すぐに喜びは駄目になるでしょう。イエス様があなたのむつかしさに対抗されるのは明らかなことでしょう。主は、なぜ最後の談話で恵みあふれることばを話されたかの理由を話すことにより、それに対抗する準備をなさったのです。「わたしの喜びがあなたがたのうちにあるように」と。


おお あらゆる不信仰の日々の後の 自由と熱情よ
おお 絶えず新しい感謝と 絶えず湧き出る賛美よ
私たちは イエス様から目を離し そそのかされるのですか
疑惑の影を 投げ捨て
「もし続くなら」というささやきにより
暗示するサタン自身の暗やみのことばを投げ捨てないのですか
 
O the freedom and the fervor after all the faithless days!
O the ever-new thanksgiving and the ever-flowing praise!
Shall we tempt the gaze from Jesus, and a doubting shadow cast,
Satan's own dark word suggesting by the whisper "If it last"?

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-12-lasting-joy/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97511です。本文の訳も苦労したが、最後の詩の部分は英文の構造がつかめず、誤訳の恐れがある。読者の適訳をお願いしたい!

※Godhold Beck(112)

『聖書とは何か』第二部[1]

 有名人の聖書観についてちょっと考えてみたいと思いますが、マルチン・ルッターは「聖書は古いものでもなければ、新しいものでもない、聖書は永遠のものである」と言いましたし、ニュートンは「いかなる世界歴史におけるよりも、聖書の中にはより確かな真理が存在する」と。ヴォルフガング・ゲーテは「私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選びます」と。ナポレオンは「聖書は単なる書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である」インドのガンジーは「私の生涯にもっとも深い影響を与えた書物は聖書である」リンカーンは「聖書は神が人間に賜わった、もっともすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて聖書の中に読まれている」ルーズベルトは「聖書を教えない単なる教育は無責任な人に鉄砲を渡すようなものである」また山室軍平は「聖書は世界中宇宙第一の書物である」と言ったのであります。

 前に始まったテーマについて、すなわち、みことばを宣べ伝える者としての預言者についてもう少し考えてみたいと思います。

 主なる神が差出人であり、人間が受取人であります。預言者たちは神の声を聞き、みことばを受け取るわけです。預言者たちは神のみことばを宣べ伝える者となります。このようにして特別に神によって召し出された人々のことを聖書は預言者、宣べ伝える者と呼んでいます。したがって、預言者は言わば、神の通りよき管のようなものであり、預言者はみことばを直接主なる神から受け取り、それをさらに人間に伝えるわけです。すなわち預言者の特別な使命は主なる神から受け取ったみことばを人間に伝えようとするならば・・・することに他なりません。そのように聞いたことをそのままの形で伝えることを聖書は「霊感」と呼んでいます。預言者は神の啓示を直接見たり聞いたりします。主なる神は行動するお方であり、みことばを与えて下さるお方です。これに対して預言者は単に受身的に参加し、見たり聞いたりするだけです。神のみことばは言わば預言者たちを襲ったのです。決して預言者たちが自分勝手に作り上げたものではありません。

 イザヤは前回学びましたように主を見たのであり、主の声を聞いたのであります。そして、彼は自分の無力さ、罪深さを知るようになっただけではなく、彼は主の恵みによって聖められ、用いられる器となったのです。エレミヤもまた同じことを経験しました。主のみことばが彼に臨んだのです。しかも、全く直接、臨んだのです。すなわち次のとおりです。エレミヤ記1章9節。
そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。

と。私たちは普通イザヤからマラキまでの預言者たちを文字どおり預言者と呼びますが、聖書は主なる神が直接お語りになられたすべての人たちを預言者と呼びます。彼らはただ単に将来起こるべきことだけではなく、現在のこと、あるいは過去のことをも宣べ伝えます。彼らは神から受け取ったことばを宣べ伝えます。ですから、モーセは自分のことを預言者と呼んだのです。申命記18章15節に
あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。

と、あります。同じようにダビデは預言者と呼ばれ、そして大部分ダビデによって書かれた詩篇は神の直接のことばと呼ばれます。使徒行伝2章30節と31節に
彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。

と、あります。

 聖書が旧約聖書全体をまとめようとすると、モーセと預言者たちということが一般に言われているわけですが、したがってまた歴史的な書物も預言者によって書かれたものであるゆえに神のみことばとなるわけです。ルカ伝16章29節に
しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』

また24章の27節に
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

とあります。神は預言者たちの口を通して語られました。これは聖書のハッキリとした証言です。使徒行伝から三ヵ所見てみたいと思います。使徒行伝1章16節
「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。

と、あります。 3章18節
しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。

4章25節
あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。

と。この証言は何と力強いものでしょうか。旧約聖書の統一された証言は神のみことばです。これはまことに神が預言者たちに語られたみことばです。預言者たちのことば、すなわち旧約聖書が神のみことばであるということが歴然とした事実であるとすると、そのみことばを聞く者が真剣に聞く耳を持つべきであり、主なる神のみことばとしてそれを絶対に肯定することが要求されます。したがって、旧約聖書全体の誤解されない要求は「聞け、従え」というものです。申命記18章19節に
わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。

とあります。また詩篇95篇7節と8節をお読み致します。
主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

そして、エレミヤ記7章23節24節に
ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。

と、あります。預言者たちが宣べ伝えた神のみことばに対して従順であるということは、旧約聖書の道徳のすべての土台です。

引用者註:有名人の聖書観を披露するに当たって最後に日本人に敬意を表するために山室軍平氏を登場させられた。残念ながら聞き書きではもう一つ意味が取れない文章になってしまった。今日また山室氏を知る人は少ないだろう。救世軍の司令官であった人。しかし、今日のこの件[くだり]は、ベック兄がいかに聖書を大切にしておられたかが、旧約聖書の預言者がどういう者であるかを紹介される中で明らかにされる。真剣に旧約聖書を神のみことばとして読み、決しておろそかにしてならないことを教えられた。)

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