2016年12月16日金曜日

仕える喜び

主人の身を守る者は誉れを得る。(箴言27:18) 
彼はいつまでも主人に仕えることができる。(出エジプト21:6)
 
 約束と脅迫とは、一つの事、すなわち愛によって異なるに過ぎません。だが、その愛こそあらゆる相違をもたらすのです。依然として心の中に敵意を抱いている人々にとって、永遠に仕えなければならない前途は楽しみどころではないでしょう。だが、憎しみが、キリストの十字架によって殺され、万事が新しくされ、キリストの愛が強いるなら、その時、憎しみは、私たちの多くの輝ける期待の最高の輝きの一つとなり、永遠に続く喜びと永遠に続くご奉仕はほとんど同義となることでしょう。

 安息は快いが、奉仕は(私たちの愛に比例して)さらにもっと快いものです。たくさん仕えた人々は、ここにおいてさらに満ち足り、完全な上なる奉仕を期待しないではいられなくなるのです。ここに立ち待つことに毛が生えたことをせざるを得ない人々は、他の人々よりも、恐らく活動的な奉仕の新しい経験において、言わば完全な喜びにただちに参入できることを喜ぶことでしょう。


彼に仕えましょう(詩篇72:11)。」
そして とこしえに
おお もっとも確かな もっとも美しい 希望 
完全な愛が ほとばしる
そこに 完全な奉仕となって

 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-16-joy-in-serving/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97515です。短い文章ではあるが、今日もご多分にもれず、あいまいな訳となっているので原文をお確かめいただきたい。 

※Godhold Beck(116)

『聖書とは何か』第二部[5]

 ですから、パウロは彼が多くの手紙の中で書いているみことばが啓示をとおして彼が受け取った神の直接のみことばであると証言しています。 パウロは非常に情熱的に自分がイエス・キリストの使徒として自分が召されたことを弁護しています。

 なぜでしょうか。自分の名誉のためでしょうか。もしも、そうだったらならば、彼は別のものを選んでいたことでしょう。コリント第一の手紙4章9節10節に
私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。

と、あります。

 いいえ、パウロは自分自身の名誉を求めたのではなく、使徒の権威を、自分の語ることばは神のことばであることを強調しました。なぜなら、彼の語ることばを誰一人軽い気持ちで、人間のことばとみなすことがないようにするためだったのです。主なる神の名誉のために、パウロはイエス・キリストの使徒と認められることを要求しています。コリント第二の手紙11章の5節に
私は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いません。

と、書いていますし、またコリント第一の手紙15章8節から10節までに次のように言っています。
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

また、パウロは彼が他の人たちによっても認められたことを強調し、全く彼らと同列に置かれることをためらいませんでした。ガラテヤ書2章6節から9節までお読み致します。
そして、おもだった者と見られていた人たちからは、――彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。――そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。

と、あります。パウロは使徒と召されました。そして神のみことばを直接聞きました。それはちょうど他の人たちや旧約時代の預言者たちと同じでした。それだけでなく、今まででは隠されていたことを主が彼に啓示して下さったことも主張しています。エペソ書3章2節から5節までお読み致します。
あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。

と。パウロは旧約聖書の啓示を継承発展させた新約聖書の預言者たちについても語っています。ロマ書16章25節26節
私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。

と、書いてあります。

引用者註: やや単調な学びが続くように見えますが、パウロがどのような思いで手紙を書いたのか、彼の思いの背後に著者としての神様、聖霊なる神様がおられたことの部分証明になる箇所です。さらにパウロを通して明らかにされた神の奥義がどんなに素晴らしいものかを伝えているメッセージです。そして、明日は一挙に、だからどうなのだという結論に至ります。) 

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