2016年12月24日土曜日

単純な信頼と無限の慰め

His name shall be called...The Mighty God
王さまのことばは私の慰めとなろう。(2サムエル14:17)

 ここにはそもそもの初めから終りにいたるまでの慰めの全秘訣があります。私たちの王なる方のおことばは私たちが持ち、深く絶対的な心の慰めのために必要とするすべてです。その慰めはこの骨の折れる世の表面的ないかなる波も妨害することができないものです。

 私たちが救いと平安を望んだ時、先ず最初に何が「あなたの痛み、あなたへの激しい怒りを除き、あなたをいこわせ(イザヤ14:3)」たでしょうか。私たちのところに来たのはばくぜんとした喜びの印象、表現できない静寂ではなく(それとも、もしそうだったら、慰めの虚構性はすぐに証明されたでしょう)私たちが全部受け入れる価値があると見た私たちの王なる方のいくつかのことばでした。

 まさしく同じもの以外に広範囲にわたる慰めのいかなる他の方法もありません。私たちが単純に王なる方のいかなることばも信ずるなら、その瞬間私たちはそれが依拠する点に関して真に「慰め」であることを知ります。そして、もしどんな端的な事柄にあっても王なる方のことばを受け取り続ける以外にはしたくないのなら、私たちはつねにみことばにその場ですぐに「慰め」を見出すはずです。

主はそうおっしゃった
このことを喜び
いかなるしるしも求めません
主のおことばは 私たちが確信を持つのに
十分です
「聖書は廃棄されるものではありません」
(ヨハネ10:35)

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-24-simple-trust-for-infinite-rest/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97523です。

※Godhold Beck(124)

『聖書とは何か』第三部[完]

 預言者は神の啓示を直接見たり聞いたりします。主なる神は行動するお方であり、みことばを与えて下さるお方です。これに対して預言者は単に受身的に参加し見たり聞いたりするのです。神のみことばは言わば預言者たちを襲ったのです。決して預言者たちが自分勝手に作り上げたものではありません。そのことによって本当の預言者と偽りの預言者とが区別されます。ほんとうの預言者は神のみことばを受け取る時に全く受身的に預かります。ところが、偽りの預言者は神の啓示を自分の意思で作り替えてしまおうとします。偽りの預言者は心に偽りのことばを抱きます。イザヤ書59章の13節に
私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。
と、あります。主なる神のもっとも嫌われることは神から直接に受け取ったみことばをではなく、自分勝手なことばを神のことばとして言いふらす偽りの預言者のことばです。エレミヤ記14章14節に
主は私に仰せられた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。

と、あります。主なる神は偽りの預言者のことばを「わら」に過ぎないとおっしゃり、まことの預言者のことばを「麦」と呼んでいます。同じくエレミヤ記23章28節に
夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。――主の御告げ。――わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。――主の御告げ。――

と、あります。 私たちが神のみことばを判断する時、ほんとうの預言者と偽預言者との間の明確な区別をするよう、注意しましょう。神のことばは人間のことばとして説明するならばそれは大変な債務となります。神のみことばの霊感はただ単に人間の意志とは無関係であるのみならず、人間の理解力とも関係がありません。霊感と啓蒙とは全く異なったものであり、聖霊の働きの結果という点でも両者は全く異なったものです。

 神が語る時に、用いられた人間たちは、神のみことばをごく一部分しか理解できないことがしばしばありました。みことばは多くの場合、人間の理解力をはるかに越えていたのです。したがって、みことばを極めて小さな基準でしか理解できなかったのです。啓蒙と霊感は本質的に違ったものです。すべての信ずる者はある程度啓蒙されています。しかしながら、極めて少ない信者だけが霊感を受けた神のみことばを宣べ伝えるように召し出されました。啓蒙は段階的であり、啓蒙はしたがって信者の認識には成長があります。しかし、霊感は段階的ではなく、つねに全体的です。ことばは神のことばであるか、他のどちらかです。その中間はありません。啓蒙は持続的で、霊感はある時だけ与えられるものです。

 主のことばが私に臨んだと、預言者たちは言いました。そうして彼らの語ったことばを「直接上から聞いたことば」と言います。すべての預言者たちは自分がまことの預言者であるということに大きな価値を置いています。そのために多くの預言者たちは自分たちの召された歴史をくわしく私たちに語り、他の預言者たちは彼らが宣べ伝えていることばを直接主から受け取ったことをはっきりと私たちに証しています。

 最後にイザヤは自分の召しについて次のように述べていることを読んで終わりたいと思います。イザヤ書6章1節からお読み致します。
ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

 私は主を見た、私は災いなるかなと言った。私は主の声を聞いた。すなわちイザヤは主を見、そして聞きました。イザヤは大いなる任命に直面し、いかに無価値な者かと思い、主の前に汚れた者として立ちました。しかし、彼は聖められ、彼の唇は火の炭で触られ、聖められました。このことを通して彼は主に用いられる器となったのです。

引用者註:「啓蒙」はドイツ聖書批評主義の象徴なることばでないか。ドイツ人であるベック兄はこの「啓蒙」がいかに「霊感」と異なるものかを根底から批判して述べておられる。一読価値のある箇所である。そしてクリスマス・イヴのこの日、ハヴァガルの黙想は余りにも素っ気ないと思われるだろうか。いやいやどうしてハヴァガルは詩の最後のことばに万感を込めている。これぞ贖い主の誕生を待ち望むすべての人の確信に違いない!)

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