各々みな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになる(イザヤ32:2)
いかなる時も、もはやかなたの救いの可能性の黄昏もなく、恵みあるあなたの日は、失せるでしょう。そして次に木が倒れるように、あなたも葬られます。死があなたに訪れるように、裁きがあなたを訪れるでしょう。あなたが見出されるところ・・・そこで主の日はあなたを見出すでしょう。「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます(2ペテロ3:10)。」
天も地もあなたが立てる場所まで与えない時、あなたはどうしますか。しかし、イエス様のところに来なさい。主はその恐ろしい嵐からあなたを守る隠れ場所です。「私はあなたの中に、身を隠します(詩篇143:9)。」「やがて来る御怒りから(1テサロニケ1:10)」「あなたは私の隠れ場です。」
あなたは永遠のいのちのみことばを
持っておられます
あなたは戦いに勝利を下さいます
あなただけが変わることのない友です
私たちはいつまでもあなたにお頼りします
生にあっても死にあっても
私たちは世の救い主から逃れ出て
あなたのもとに急ぎます
持っておられます
あなたは戦いに勝利を下さいます
あなただけが変わることのない友です
私たちはいつまでもあなたにお頼りします
生にあっても死にあっても
私たちは世の救い主から逃れ出て
あなたのもとに急ぎます
Thou hast the words of endless life;
Thou givest victory in the strife;
Thou only art the changeless Friend,
On whom for aye we may depend:
In life, in death, alike we flee,
O Savior of the world, to Thee.
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-13-as-the-tree-falls-so-it-lies/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97512です。本文も詩も思い切って意訳した。間違いを指摘していただければ幸いである。
※Godhold Beck(113)
『聖書とは何か』第二部[2]
今まで私たちは神のみことばを宣べ伝える者としての預言者たちについて見て来ましたが、これからは第二番目になりますけれど、神のみことばを宣べ伝えるお方としてのイエス・キリストについて見てみることにしましょう。私たちは旧約聖書においてのみ、預言者を見ることができるのでしょうか。私たちは新約聖書に移って、神が新約時代の預言者を通してお語りになったかどうか訊ねてみたいと思います。新約聖書の比類なき預言者は主イエス様ご自身です。主イエス様は完全な認識を持った神の預言者でした。申命記18章18節に次のように書き記されています。
わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。
と、書いてあります。このみことばはイエス・キリストを通して成就されたのです。主イエス様はこの地上に来られた時、父なる神は自ら主イエス様を公に認めました。いかなる人間も主イエスが偉大なる預言者であることを認めることができなかったので、主なる神は天を開き、聞き取ることの出来る声でおっしゃいました。「これはわたしの愛する子、汝らは聞くべし」と。マタイ伝17章5節に
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。
と、あります。主イエス様はただ単に時間に制約されて神のことばを聞いたり、啓示を見たりしただけではなく、上から来られすべてをご存知であり、完全な認識を持った預言者だったのです。主イエスの口から出たことばは、いずれも直接神のみことばでした。主イエスは預言者として比類なき地位を占め、他の預言者と同列に置くことができません。主イエス様について次のように言われています。ヨハネ伝1章の18節です。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
と、ありますし、また3章の31節〜34節までに次のように書いてあります。
上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。
と、あります。主イエス様自ら、ご自身について上から、完全な啓示、すなわち父なる神のみことばを伝えなければならないと証なさいました。ご自身についての主の証しは何と力強いことでしょう。ヨハネ伝8章23節
それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。
28節
イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。」
12章49節50節
わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
また17章の8節に
それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。
と、あります。このようなみことばを読むとイエス様が比類なき預言者であることが分かります。主なる神は御子をとおして語られましたが、それは動かすことのできない事実です。ヘブル書1章2節に
この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
と、あります。私たちはイエス・キリストの口を通して言い表わすことの出来ない素晴らしい神の啓示を見ることができます。
引用者註:今日は火曜学び会であった。メッセージは1コリント3・1から「霊的なキリスト者を目ざして」と題して語られた。その終わりの席で、ベック兄のクリスマス・プレゼントがありますとアナウンスがあった。いずれもベック兄が生前使っておられたものがテーブルに並べられた。私も一本ネクタイを頂戴して来た。話は飛躍するがイエス様はそのようなもの、片身になるものは何一つ残されなかった。でも残されたものがある。それは「みことば」である。これぞ、類いなきものであることが、この『聖書とは何か』と題するベック兄の恐らく40年近く前のメッセージの聞き書きで分かることだ。)
※Godhold Beck(113)
『聖書とは何か』第二部[2]
今まで私たちは神のみことばを宣べ伝える者としての預言者たちについて見て来ましたが、これからは第二番目になりますけれど、神のみことばを宣べ伝えるお方としてのイエス・キリストについて見てみることにしましょう。私たちは旧約聖書においてのみ、預言者を見ることができるのでしょうか。私たちは新約聖書に移って、神が新約時代の預言者を通してお語りになったかどうか訊ねてみたいと思います。新約聖書の比類なき預言者は主イエス様ご自身です。主イエス様は完全な認識を持った神の預言者でした。申命記18章18節に次のように書き記されています。
わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。
と、書いてあります。このみことばはイエス・キリストを通して成就されたのです。主イエス様はこの地上に来られた時、父なる神は自ら主イエス様を公に認めました。いかなる人間も主イエスが偉大なる預言者であることを認めることができなかったので、主なる神は天を開き、聞き取ることの出来る声でおっしゃいました。「これはわたしの愛する子、汝らは聞くべし」と。マタイ伝17章5節に
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。
と、あります。主イエス様はただ単に時間に制約されて神のことばを聞いたり、啓示を見たりしただけではなく、上から来られすべてをご存知であり、完全な認識を持った預言者だったのです。主イエスの口から出たことばは、いずれも直接神のみことばでした。主イエスは預言者として比類なき地位を占め、他の預言者と同列に置くことができません。主イエス様について次のように言われています。ヨハネ伝1章の18節です。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
と、ありますし、また3章の31節〜34節までに次のように書いてあります。
上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。
と、あります。主イエス様自ら、ご自身について上から、完全な啓示、すなわち父なる神のみことばを伝えなければならないと証なさいました。ご自身についての主の証しは何と力強いことでしょう。ヨハネ伝8章23節
それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。
28節
イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。」
12章49節50節
わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
また17章の8節に
それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。
と、あります。このようなみことばを読むとイエス様が比類なき預言者であることが分かります。主なる神は御子をとおして語られましたが、それは動かすことのできない事実です。ヘブル書1章2節に
この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
と、あります。私たちはイエス・キリストの口を通して言い表わすことの出来ない素晴らしい神の啓示を見ることができます。
引用者註:今日は火曜学び会であった。メッセージは1コリント3・1から「霊的なキリスト者を目ざして」と題して語られた。その終わりの席で、ベック兄のクリスマス・プレゼントがありますとアナウンスがあった。いずれもベック兄が生前使っておられたものがテーブルに並べられた。私も一本ネクタイを頂戴して来た。話は飛躍するがイエス様はそのようなもの、片身になるものは何一つ残されなかった。でも残されたものがある。それは「みことば」である。これぞ、類いなきものであることが、この『聖書とは何か』と題するベック兄の恐らく40年近く前のメッセージの聞き書きで分かることだ。)
0 件のコメント:
コメントを投稿