2016年12月23日金曜日

やさしさ

His name shall be called...the Prince of Peace
王は・・・命じて言った。「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。」(2サムエル18:5)
 
 アブシャロムか! 冷酷で、計画的な裏切り者の叛逆者なのに。私たちははっきりとダビデがどんな男であったか、あわれみようのない時に荒削りな戦争の将軍たちにそのような命令を出す美しいやさしさを認め、思い起こさねばならない。ダビデは民とその王国のために、彼に刃向かう前面に将軍たちを派遣しなければならなかったが、その深い愛が「私に免じてゆるやかに扱ってくれ」という命令となってほとばしり出た。

 それは一時的な衝動でなかった。アムノンが殺された時、大変ひどく嘆き、毎日我が息子のために喪に服した。しかし、兄弟殺しが逃げた時、ダビデ王の心は彼のところへと出発することを念願し、王の心はアブシャロムに向かって行った。そして神様ご自身の復讐が悪い息子に下った時、ダビデの息子に対する哀歌はおそらく人のやさしさの記録のうちにあっても感情の強さにおいて並ぶところがないものであろう。

 目を転じて私たちの王なる方の神のやさしさを味わえ。何度も何度もそのやさしさは光り輝いている。主はご自身のために嘆かれただろうか、主は「泣かなくてもよい(ルカ7:13)。」と言われたかどうか。やさしい顔つき、やさしいことば、それとももっともやさしいあわれみの触れ合いだったろうか。

 キリストのやさしさの例をたどる責任はもちろんのことここにおける命令を私たちはよく知っていないのではないだろうか。おそらく、この次に罪を犯したり感情を損う人に対して少し不快感やイライラする誘惑に駆られる時、ささやきが聞こえてくるだろう。「私に免じて、ゆるやかに扱ってくれ。」と。

帰って来なさい
罪を犯したけれど 愛された人よ
わたしは あなたの血の出た足に
包帯するのを待っている
あなたのいたところには
鋭い恨みが 刺となっているから
わたしは あなたに 赦し 愛 安息を
与えようと待っている
あなたが 安全で 祝福を受けるのを
見るのが わたしの喜びでないか

帰って来なさい
わたしは もう一度 あなたの声を 聞きたい 
新しくされたあなたを 迎え
あなたの心に 喜びを告げるために 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-23-tenderness/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97522です。

※Godhold Beck(123)

『聖書とは何か』第三部[6]

 今から次の三つの事柄を見てみたいと思います。先ず第一にみことばを宣べ伝える者としての預言者たち、第二にみことばを宣べ伝えるお方としての主イエス、そして第三にみことばを宣べ伝える者としての使徒たち、この三つに分けて考えてみたいと思います。

 先ほど、例として挙げましたように、神は人間以外の動物をとおして私たちに語ってくださることもありますが、普通は人間をとおして語られます。主なる神は用いようとする人々をお選びになります。神によって選ばれた人たち、すなわち預言者たちに対して主なる神は直接語ってくださり、したがって預言者たちは神の声を聞き、みことばを受け取るわけです。すなわち、預言者たちは神のみことばを宣べ伝える者となるのです。このようにして特別に神によって召し出された人たちのことを聖書は預言者、すなわち宣べ伝える者と呼んでいます。したがって、預言者とは言わば神の通りよき管のようなものです。すなわち、預言者はみことばを直接主なる神から受け取り、それをさらに人間に伝えるわけです。つまり預言者の特別の使命は主なる神から受け取ったみことばを私たちに伝えることに他なりません。

 このように聞いたことをそのままの形で伝えることを聖書は「霊感」と読んでいます。一つの実例を挙げますと、それにやや近い形を旧約聖書の中に見ることができます。たとえばモーセがアロンの口を通して語った時、アロンは言わばモーセのことばの預言者、すなわち宣べ伝える者になったわけです。宣べ伝えられたものはモーセのことばですが、それをアロンは宣べ伝えたわけです。出エジプト記4章16節に
彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。

と、書いてありますし、出エジプト記7章1節と2節に
主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。あなたの兄アロンはパロに、イスラエル人をその国から出て行かせるようにと告げなければならない。

と、書いてあります。それと同じように主なる神はその口を通して、神が語りたいと思う人たちを選び出し、直接その人たちに語られます。このようにして主なる神はモーセとともに顔と顔とを合わせて、人が友と語るように語られました。出エジプト記の33章の11節に、
主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。

と、あります。しばしば、主なる神はみことばを、ただ単に聞かせるだけでなく、見させることもなさいます。神は人間のことばで表現することの出来ない事柄を預言者たちに見させるのです。したがって、預言者たちは主なる神の啓示を聞く者でもあり見る者でもあるのです。サムエル上9章の9節
今の預言者は、昔は予見者と呼ばれていたからである。

預言者の一人は神のみことばを受け取ったときの様子を私たちに正確に書き記しています。民数記の24章の3節と4節です。
彼は彼のことわざを唱えて言った。「ベオルの子バラムの告げたことば。目のひらけた者の告げたことば。神の御告げを聞く者、全能者の幻を見る者、ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の告げたことば。

と、書いてあります。

引用者註:明日は第三部の最終章です。でも『聖書とは何か』のシリーズはまだまだ続きます。同じようなことが繰り返されているように見えますが、神のみことばの真理はますます深まって行きます。)

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