2016年12月20日火曜日

「後になると」(その時だけでなく常に)

ハヴァガルの詩と親しい友の絵の組み合わせ

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:11)

 私たちが大きな出来事のために備え、その結果絶えず繰り返される慰めを失くしがちである幾つかの約束がここにはあります。恐らく私たちはこのみことばをため息をもって読み、言うでしょう。「主によってほんとうに懲らしめられる人にとって、これはどんなに美しいことでしょうか。もしそのような約束がその時私のものとなるなら、そのことを嫌だと思ってはいけないと危うく思いそうになります。しかし、私を試す事柄は毎日思い煩い、意気消沈するように仕向ける小さなことばかりなのです。」

 よろしい、それでは主は悩みがどの程度か、あるいは悩みがどんな種類かが、約束が与えられるに当たっては全く必要だと明確に述べておられますか。主が述べておられないのなら、なぜあなたがそうしなければならないのですか。主はただ単にそれを「喜ばしいものではなくかえって悲しみ」だと明確に言っておられるに過ぎません。

 おそらく今日もあなたにとって「喜ばしいものではなくかえって悲しみ」であった様々なことがあったことでしょう。そしてそれらを大きなことと感じたことに恥を感じ、ほとんどそれらが大変な試みであったと告白することを好まず、それらが「懲らしめ」だともったいつけて考えたくないとしても、もしそれらを主の説明にまかせるなら、主はそれらについてすべてを知られるだけでなく、それらがすべて主の御手からの懲らしめであったことは明らかです。

 その間ずっとそれらがあなたを悲しませた時、「何でもない」と軽蔑されたり呼ばれることもなく、退屈させられることもないのです。なぜなら、それらはあなたにとって祝福をもたらし、主に対しては栄光をもたらすからです。それらのすべては主のあなたに対する愛と関心の見分けられないしるしでありました。なぜなら「主はその愛する者を懲らしめ(ヘブル12:6)」られるからです。

「わたしにとって地上にあって
『後になると』ということはない」

愛されし者よ 私たちには そんなものではない

神ご自身の「後になると」は 
あなたに約束されているのだということを
あなたの生活は 示すことでしょう


けれども 主に向かって義の生ける実を
主の懲らしめは 生み出すのです
繰り返される「後になると」は もはやかすむことなく
あらわにされるのです

あなたの心に 主の愛が広く 流れ込むのは

「後になると」ではないのですか
さらに 主の御霊が 神の平安を 吹き込むことも 

"There is no 'afterward' on earth for me!”
Beloved, 'Us not so!
That God's own "afterward" are pledged to thee,
Thy life shall show.
But living fruit of righteousness to
Him His chastening shall yield,
And constant "afterward," no longer dim,
Shall be revealed.
Is it no "afterward" that in thy heart
His love is shed abroad?
And that His Spirit breathes, while called apart,
The peace of God?

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-20-afterward-now-and-always/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97519です。今日の箇所も実に難解でやっかいな文章の連続だ。やむを得ず詩の部分は英文も併記した。

※Godhold Beck(120)

『聖書とは何か』第三部[3]

 日本語の表現では必ずしも明確ではないかも知れませんが、神に与えられている名前は600以上にも上ります。ところが、注意すべきことに贖い主とか、救い主という名称が数多く出てくることです。この贖い主は聖書の第一頁から行動しておられる方、臨在しておられる方です。黙示録1章8節に
神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方

と、書いてありますが、この方は永遠から永遠に至るまで、救い主であられ、贖い主であられます。「世の罪を取り除く神の子羊」として召し出された救い主は、出エジプト記12章に描かれている「過越の子羊」という形をとおして素晴らしくはっきりと描き出され、生き生きと描写されています。債務を負うために流される血潮の力はレビ記をとおして極めて明確にされています。殺された罪なく子羊の血を携えて至聖所に入って行った大祭司はご自身の流された血潮によって全人類の罪を赦してくださったまことの大祭司である御子イエス・キリストを象徴する役割を果たしています。ヘブル書9章12節に
また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

と、あります。イエス・キリストの偉大さは旧約時代における幕屋とか、礼拝とか、ささげる生けにえとかをとおして明らかにされています。聖書の中心はほふられた小羊であるイエス・キリストなのです。

 旧約時代の預言の中心なるものはイスラエルのまことの王とはいかなるものなのか、ということです。その王は先ずダビデの子孫であると書き記されています。サムエル下7章12、13節に次のように書いています。
あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

と、書いてあります。そして、この方はダビデの故郷であるベツレヘムに生まれると預言されています。ミカ書5章2節に
ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。

と、預言されています。その王はソロモンより偉大で平和の君と呼ばれるお方です。イザヤ書9章6節に
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

と、あります。しかし、その王は多くの場合、主のみこころに反することを行ったユダの王やイスラエルの王たちとは、ちがったものであると預言されたのであります。イザヤはこの王は処女から生まれることを預言したのです。イザヤ書7章14節に
それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

と、書いてあります。平和の王として支配するお方であり、すべての諸国民は仕えるようになる、と預言したのです。しかし、イザヤはまたその王を神のしもべとしてほふり場に引かれて行く小羊のように、世の罪を荷なうお方であるとも、主にイザヤ53章を通して預言したのであります。

 預言書や詩篇においてはイエス・キリストの姿は偉大なる王として描かれている反面、ご自分を空しくして、打たれ、欺かれる羊飼い、また迫害された者、死に追いやられた者、罪なき者としてご自身のいのちをささげてくださった方として描かれ、そして最後に世界史を完成するために、世界の裁き主、またイスラエルの王としてあらわれてくるというふうに描かれています。来たるべき方イエス・キリストは旧約聖書の中では明けの明星のように上って来るお方として表現されています。それに対して新約聖書においては主イエスは真昼に輝く太陽のように現われたのです。そしてしばらくの間その輝きを隠し、すなわち昇天されたのですから、今私たちは主の輝きと栄光を見ることは出来ません。しかし、新約聖書の希望は天の栄光のうちに再び来られるお方に対して私たちの目を開けて下さいます。

 聖書の最後の書はイエス・キリストの啓示と言われ、ほふられてから神の右の座に着かれ、天と地において測り知れない権力と力とを持った小羊として紹介されています。永遠にわたって次のような歌が繰り返し歌われることでしょう。黙示録5章12節に
ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

引用者註:折しも今週はクリスマスを目前に控えている週である。聖書で主イエスがどのように旧約で預言され、新約でその預言を成就するお方として来られたかを、ベック兄の「聖書とは何か」のメッセージで語られた箇所をともに見ることは感謝である。広範囲にわたる厳密な聖書の説明は何とも感謝にたえない。)

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