2016年12月4日日曜日

あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。(2サムエル1:26) 
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。(ヨハネ16:9)
 
 主の愛! 主の愛とはどんな愛でしょうか。その愛を明らかにしたり述べるには何が引用されるべきでしょうか。先ず第一に贖いの不思議と驚異を記す全聖書です。それから摂理についての書物と創造についての全巻です。それからこれらに永遠の過去の未知の記録とこれから来る永遠の未知の栄光を加えなさい。そしてそれから「天使と大天使と天のあらゆる軍勢」によって測り知れざる引用があらゆる神様の竪琴で歌われるでしょう。そしてその愛はなおも言い表わせず、依然としてその愛は「人知をはるかに越えたキリストの愛(エペソ3:19)」であることでしょう。

「あなたのために 」ある主の愛
受身の 可能な愛でなく
迸り出る そうです 真実が流れ出す
主の力あり やさしい心の 人格的な愛を 照らす
人工 性質 潜在的な力としてでなく
行動し 活動し 到達し 接触し 掌握する力としての愛
冷たく 美しく はるか遠くの星でなく
照らし 包み込む 日の光である
私たちを 暖め 喜ばせ 強くし 輝かせ 実を結ばせる

おお 主よ あなたの足に 私は 歓喜の喜びで 額づく
私の前に だんだん暗くなるガラスに いくつかの栄光ある輪郭が 過ぎる
愛について 真理について 聖さについて 力について
私は あなたに負っている おお キリスト様
この時 あなたを 祝福する
おお 真理と恵みの充満 エホバ神の御顔の笑み
言い尽くし得ない愛のもっとも優しい心
誰があなたの賛美を 広げるのだろう
あなた 救い主 主の主 王の王
愛情あるセラフが 翼を覆い 賛美するに ふさわしい  


※Godhold Beck(104)

『聖霊の人格と働き』[6]

 救いに至る信仰について、三つのことが言えます。救いに至る信仰とは、見ようとすることです。「見る」ということばは、よく聖書の中に出てきます。たとえばヨハネ伝の1章29節に「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」見て、あなたの罪をもうすでに取り除かれた神の救い主なるイエス様、ということばです。心の目でイエス様を私のようなつまらない者の代わりに死なれたと見た人は、結局信ずるようになります。信ずることとは少なくとも頭の知識を得たことじゃない、わかった、わかったということじゃない。イエス様は私のような者の代わりに死なれた、と心の眼で見ることこそがまことの信仰であります。

 第二番目は「来よう」とすることです。イエス様はいつもわたしのもとに来なさいと何回も何回も呼ばれたのであります。重荷を負うて苦労している者は、お願い、キリスト教に入れということじゃないのです。聖書研究せよ、立派な人間になれということじゃない、「わたしのところに来なさい。わたしは義と認めます。受け入れます。救います。」イエス様のみもとに行こうとするのがまことの信仰を得る秘訣であります。イエス様はわたしのもとに来る者をわたしは決して捨てません、と言われたのです。実際問題としてイエス様のところに行くこととは何なのでしょうか。

 箴言の28章13節 に「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」ということです。すなわち正直になり、頭を下げること、自分の罪を隠さないことです。告白して、それを捨てる者はあわれみを受けると約束されています。ですから、イエス様のみもとに行くということは自分の罪を認め、そしてイエス様に告白することです。また罪から離れることです。信ずるということはイエス様を受け入れようということです。ヨハネ伝1章の12節に「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と書いてあります。多くの人々は、この方の教えをよく勉強して理解するようになれば、あるいは教会員になれば、洗礼を受ければ、神の子となると考えています。ここで全く違うこと書いています。「この方」を、すなわち、提供された救い主なるイエス様を受け入れる人々は、すなわち、神の子どもです。 

 最後にちょっとだけ、聖霊の信者に対する働きについて考えて終わりたいと思います。今まで主に聖霊の、まだ救われていない人々に対する働きかけについて考えたのですけど、聖霊が信者に働くということとはいったいどういうものなのでありましょうか。前に言いましたように、イエス様を救い主として受け入れた時、何が起こったかと言いますと主なる神が聖霊を通してあなたの霊のうちに入り給うて、あなたを神の宮、聖霊の宮となったのです。

 コリント第一の手紙の3章16節です。293頁になりますが、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」このコリントの教会の信者たちは悪魔の攻撃の的になっただけではなく、悪魔の誘惑に負けてしまって、あのコリントの教会はめちゃくちゃな教会だったんです。そして、だからパウロは、あなたがたはこの大切なことを知らないのですか、忘れたの、どういうことですか。あなたがたは神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

 6章、同じくコリント第一の手紙6章19節20節で同じ事実が述べられています。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」この代価とは、もちろんイエス様のささげられたいのちであり、イエス様の流された血潮だったのであります。「あなたがたは知らないなのですか」とパウロはコリントの信者たちに尋ねたのです。

 私たちはそれをほんとうに知っているのでしょうか。確信しているのでしょうか。そのために毎日感謝するなのでありましょうか。あなたは信ずる者として聖霊があなたのうちに宿り、あなたは永遠の聖霊で、聖霊の宮であるということを本当に考えているなのでありましょうか。聖霊の宮として信ずる者は存在目的を持っています。信ずる者は神の宮であり、御霊がうちに宿っているという知識、確信は今日のキリスト者にも、どうしても必要です。御霊によって新しく生まれた人は誰でも栄光の主を担って歩いている者です。真のキリスト者とは結局生けるまことの神を運ぶものです。そうすると何もしなくても証し人となり、まわりの人々はやはり飢え渇きを感じてどうしたらいいの、と聞かれるようになります。

 自分の身に起こるあらゆる問題の解決は自分のうちに宿りたもう栄光の主です。この事実に目が開かられると私たちは一つの思い煩いも起きて来ないでしょう。パウロはよく何事も思い煩ってはならない、主は近い、と言ったのです。再臨は近いと言うよりも、主はあなたがたのうちにいるから、心配しなくてもいい、主にとって不可能なことはない。徹頭徹尾、主に頼りなさい。キリスト者は聖霊の宮であり、神の神殿であると聖書ははっきり言っているんです。)

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