2016年12月19日月曜日

卓越と遠きまで

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。(創世記6:5)

 生まれながらの人の心にはかることがみないつも悪いことだけに傾くことを知るのは本当に慰めとなることです。なぜなら、このことは主が私たちの心の中に植えつけ守って下さった聖いものを知る時、いかに主が真実に私たちの内に働かれるかを示しているからです。私たちには神様を敬ういかなる思いも自然には湧いて来ないことは全く確かなことです。ですが、主の新しい契約は「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける(ヘブル8:10)。」であります。

 みことばは非常に卓越しており遠くまで伝わるものです。私たちはみことばが深みそのものまで届くものであると感じております。このように聖別の香りを充満させられているのが私たちの全精神存在であります。心の内の奥まったところに守られているだけでなく、そして一方ではやはり意識のうちに守られているだけでもないのです。「その心に計る思いをとこしえにお守りください(1歴代誌29:18)。」

かような内にある咎の不思議
いやしのために 何々を 
私たちがさぞかし嫌うに違いない 

主は祝福された木を考えられた
主は私たちに示された
苦い水が流れているのにその泉を 
放り込んでいやすことの出来るものを

私たちがその力を感じ
その恵みを私たちは理解しないが
知っている 神の治癒 

Such mystery of iniquity within,
That we must loathe our very the'ts, but for the cure
He hath devised the blessed Tree
The Lord hath shown us, that, cast in, can heal
The fountain whence the bitter waters flow.
Divinest remedy whose power we feel,
Whose grace we comprehend not, but we know.

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-19-remarkable-and-far/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97518です。 青字の詩の部分は読み切れないので英文を併記した。恐らく出エジプト記15:23以降がハヴァガルの念頭にあっての作品であろう。

※Godhold Beck(119)

『聖書とは何か』第三部[2]

 聖書は一冊の本です。これこそ神の奇跡です。聖書のどの頁を開いてもその一つ一つは同じ神の啓示が明らかにされています。神ご自身が聖書全体の著者であるならば、それは当然と言えましょう。「主なる神は語ってくださいました。」聖書の各巻また各部分は御子イエス・キリストをとおしてご自身を啓示して下さった生ける神を正しく知るためにどうしても必要な貢献をしてくれています。聖書は最初の一頁から最後の一頁にいたるまでイエス・キリストを明らかにしておられます。

 聖書は御子イエス・キリストのために書かれました。そしてすべてのことはイエス・キリストによって成就されました。イエス・キリストは神の啓示の内容そのものですから聖書全体の中心点となっています。イエス・キリストは聖書の一番最初、すなわち創世記において救い主として預言されており、そのあとに続く多くの預言書をとおしてはっきりと預言されています。そしてイエス様が実際に地上に来られた時、初めて神はご自身を私たちの目にも見えるような形であらわして下さいました。「私たちは主の栄光を見た」と弟子たちは証しています。ヨハネ伝1章14節に
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

これこそが弟子たちの経験だったのです。しかし、弟子たちがまだ耐える力がなかったため、イエス様はこの地上ですべてのことを解き明かすことができませんでした。ヨハネ伝16章12節に
わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。

と、あります。しかし、主がお遣わしになって下さった聖霊がこのことをしてくださり、弟子たちがまた見たり聞いたりしたことだけでなく、理解していなかったことをさらに一層明らかにして下さいました。すなわち聖霊の働きを通して、私たちは使徒たちの書かれた手紙を通して、主イエス様の偉大さを知ることができます。旧約聖書はイエス・キリストの目に見える啓示の準備でしたが、新約聖書はイエス・キリストについて以前に語られたすべての事柄をあらわして成就されたものとなっています。

 私たちは旧約聖書に書かれた事柄を通して主イエスをどのような方であられるかを正確に描写することができます。なぜなら約束された救い主については333回も預言されており、そのことによって明確な姿が描き出されており、それが具体的現実となったものが地上における主イエス様だったのです。

 今まで見て来た聖書こそ、神のみことばであることは、このようにしてはっきり致しました。そこでこれから少しばかり神の言わんとしていることが何であるかをみことばから見てみることにしましょう。

 聖書の内容は一体何なのでありましょうか。このことについて、これからご一緒に見てまいりたいと思います。堕落した人間の望みは蛇のかしらを打ち砕く人でした。創世記3章15節に、この解放者、救い主について次のように預言されています。
わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

と、あります。その方は聖書によるとアブラハムの子孫であり、ユダ族から出る者と預言されています。創世記12章の3節に
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。

と、ありますし、創世記49章10節に
王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。

と、書いてあります。

引用者註:ハヴァガルは創世記を引用して人とはいかなる者か示し、いかに人が神様によってどのように整えられる存在であるかを書いていたが、期せずして今日のベック兄の内容も聖書とは何かを述べるに当たって同様なことを指摘されている。偶然の一致だがこういうこともブログ記事の面白いところかもしれない)


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