2016年12月1日木曜日

主のものとされ、守られるいのち

私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信している(2テモテ1:12)

「私のいのちを取ってください。なぜなら、私はあなたに従うことはできませんから。(cf.1列王19:4)」とすでに言いました。ですから、私たちはキリストなしにはほんとうに何も出来ないということを深く確信して、「私のいのちを守って下さい。なぜなら、私はいのちをあなたのために守ることができませんから」と言いましょう。そうです。ご自身のものとすることができ、そうするご意志のあるお方は、同様にご自身のためにいのちを守ることができ、守るご意志がおありなのです。

 私たちの率先するささげものは主が与えてくださった恵みによってなされてきたものです。そして私たちの王はこのことを喜びをもって見て来られました。このことを同じ単純な信頼をもって尋ねましょう。かなり多くの他の事柄において、その信頼に対して、主は大層気前良く、やさしく応答されました。なぜなら、このことは私たちが主にあって抱いている確信であり、すなわち、もし私たちが主の御心にしたがって何かを尋ねるなら聞いて下さる確信があるからです。

 そして、もし私たちが主は私たちが求めることはどんなことでも聞いて下さると知れば、私たちが主について望んだ訴えを持っていると知るのです。この訴えは主の御心に従っていることに違いありません。なぜなら、それは多くの約束に基づいているからです。

今 私には あなたのお約束が 
真実であることが わかります
それは 完全な平和と平安です
私はため息をつきません
あなたの御胸によりすがって
歌うことしか出来ません
万事をあなたにおまかせして
あなたのやり方こそ
常に最善ですから 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-1-lives-taken-and-kept/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97500です。

※Godhold Beck(101)

『聖霊の人格と働き』[3]

 今日、洗礼を受ける兄弟姉妹はイエス様の約束の御言葉を経験するようになったのです。ヨハネ伝8章12節にイエス様は「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」イエス様に出会った人々、今日洗礼を受ける兄弟姉妹は次のように告白することができます。「自分は失敗した。自分の力ではどうすることもできなかった。神の恵みによって、絶望から救われた。これは神の測り知れない大きな憐れみでした。自分は自分で救われようと思わなかったし、欲しいとも考えなかったけど、神が憐れんでくださった。今イエス様を信じています。どうして信ずるようになったかさっぱりわかりません。自分で理解することが出来ません。説明することができませんけど、嬉しい。今からイエス様をよりよく知りたい、という心構えを持つようになったんです。

 聖霊を持つことこそが、すなわち聖霊の宿になることこそがもっとも大切です。パウロはローマの8章9節の後半に「キリストの御霊を(すなわち聖霊を)持たない人は、キリストのものではありません」と書いています。「救い」とはキリストのものとなることです。けども、聖霊を持たない人は、その人はローマの法王であっても教会の牧師であってもキリストのものではない。すなわち、救われていないことになります。

 ここで聖書の知識を持たない人は救われないとは書いていません。「キリストの御霊を持たないはキリストのものではない」とあります。すなわち、聖霊を持たない者は失われています。聖霊を持たない人は霊的に盲目であり、神の目から見ると死んでいる者です。聖霊を持たない人は本当の喜びととの平和を知りません。もちろん生き生きとした希望も持っていません。

 聖霊のはたらきについて、ヨハネの16章の中手短に次のように書き記されています。ヨハネ伝16章の8節です。その方が(聖霊のことです。聖霊が)来ると、(一番目、)罪について、(二番目、)義について、(三番目、)さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」と書き記されています。これは一体何を意味しているのでありましょうか。「聖霊が罪について目を開かせる」と、ここで書き記されています。

 人間は誰でも罪人です。神の判断は、義人正しい人はいない、一人もいない。善を行なう人はいません。一人もいない。これはすべてを知りたもうまことの神の多くの人にとって面白くない判断です。聖書ははっきりすべての人が迷い出て皆ともに無益な者となってしまった、と言っているんです。このような罪人が聖霊の働きによって自分の本当の姿、すなわち自分の罪にまみれた姿、自分の神から離れている状態を認める以外には決して何の望みも、いかなる救いもあり得ません。自分がほんとうの逃れ道のない者であることを知るようになった人が、もちろん神を呼び求めるようになります。そして、主の御名を呼び求める者は救われると、聖書ははっきりと言っているのです。

 たとえば、ルカ伝18章に出てくる取税人は「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」と叫んだのです。結果として彼は救われました。今から聖書を読むと約束したからじゃない、今からより良い人間になろうと努力しますと言ったからじゃない。ただ真心から「あわれんでください」と叫ぶ結果は救われたです。イエス様と一緒に十字架につけられた一人の犯罪人も同じ態度を取ったのです。「主よ。私のことを思って下さい。」それだけだったんです。それからイエス様は救いの内容についていろいろなことを教えようとしなかったのです。彼は砕かれている、ほんとうの助けを求めていると、イエス様はわかったから、すぐあなたは今日わたしとともにパラダイスにいる、天国にいる、すなわち、あなたの罪は赦されているということです。主の御名を呼び求める者は皆、例外なく救われます。もちろん、もし人間はほんとうに救いを求めるようになることとは、決してその人の努力の結果ではなく、聖霊のはたらきの結果です。

引用者註:たった今一人の方からお母さんを看取っていること、その中でともに祈れたと記され、ともに祈ってほしいとメールが入った。このベック兄のメッセージによると「聖霊」が人に臨み、助けを呼び求めるように砕いてくださり、その結果、主のいのちが与えられることが証しされている。御母堂の救いは主の約束だ。) 

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