2016年11月30日水曜日

口は心を表わす

「お絵かき」 絵 西村茂樹

心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。(箴言22:11)
 
 誰が「私は自分の心をきよめた。私はきよめられた(箴言20:9)。」と言うことができようか。こんな状態では王との交わりに誰も絶望しなければならないであろう。しかし、王なる方ご自身との交わりを約束する、王のすばらしいへりくだりは、そのやさしく目論まれている状態においてさらにより低く屈んでいて下さるのだ。心の中の絶対的なきよさに対してでなく、おそらくそのきよさを悲しいほど求めて慕っている人に対して「王がその友となる」というやさしい言葉がやって来る。

 しかし、この愛のいくらかの証拠はあるにちがいない。それは「くちびるのやさしさ」に見出される。「心に満ちていることを口が話すのです(マタイ12:34)。」ここにおいて、再び私たちは自らの主張を引っ込め、自らに問う。なぜなら、私たちのことばは常に「やさしさが」伴っておらず、そして、多くの不親切で怠惰な言葉の記憶がそれを封ずるように上って来るからだ。その時、王はどのようにして私たちの友となり得るのだろうか。

 別の言葉が私たちを助けるためにやって来る。「あなたのくちびるからは優しさが流れ出る(詩篇45:2)。」それは、人が決して話すことが出来なかったように、やさしいことばのうちにあふれでた優しさ、完全に聖く美しい言葉だ。私たちは私たちの王を見上げ、私たちが失敗した状態をご自身で実現なさったことをほめあげる。すなわち、これが私たちのために、私たちに向かって、私たちの上に、労された義の部分である。なぜなら、私たちは王を信じているからだ。だから、王自身のくちびるの優しさのゆえに、王が私たちの友となる。

王にみことばをとおしてあなたに話してもらうように
王の声がはっきり聞かれるように見つめ
王に上るすべてのことを話してもらうために
そしてあらゆる驚きをもたらす王のところに直ちに行く
ちょうど聞き留まるために
そこはあなたが王の声を聞き逃すことができないところ
これがすべてだ
そして今日もかくして
交わりつつ あなたは喜ぶ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-30-the-mouth-betrays-the-heart/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97499です。

※Godhold Beck(100)
 この絵を京橋コパンダールで拝見したのは9月10日であった。数点あったが、そのうち二点を撮影した。一点はすでに9月14日「誰が私たちに刃向かうことができようか」で紹介してある。ハヴァガルの今日の黙想を訳するうちになぜかこの絵が思い浮かんだ。無心とも言える少年の一心不乱な姿である。またそこに着目した画家の心を私たちは知ることができる。人の心に灯をともされるイエス様の愛に浸りたい。今日は早やベック兄が召されて100日経った。引き続いて昨日からの聞き書きを掲載する。

『聖霊の人格と働き』[2]
  今日はちょっとだけ、この聖霊の人格について、また聖霊のはたらきについて、少しだけご一緒に考えてみたいと思います。なぜなら、それは非常に大切なことであるからです。すなわち、私たちが聖霊に対してどのような態度を取るかということが大切な問題であるからです。我々の人生が永遠の滅びに終わるか、それとも永遠ののちに終わるかということになります。

 前に話したことがあるのですけど、サルトルと言うフランスの哲学者がいたのです。彼は単なる哲学者であるだけでなく、無神論者だったんですし、神に対する信仰を駄目にしようと、一生懸命働いた人だったんですね。もちろん、本当の意味で無神論者はあり得ないことなんです。無神論者はみな神の存在を認めています。全然疑いません。けども、神の前に頭を下げたくないから「いない、いない」と言うんですね。いなければ、別に、「いない」と言わなくても良い。(笑い)

 この哲学者であるサルトルは色んな本を書いたのですけども、次のように告白したのです。「私の人生はもうどうすることもできないものになった。」と彼は告白したのです。すなわち、彼は望みのない、平安のない、喜びのない人間になったんです。人によってもちろん大切にされ、尊敬されたのです。けれども、彼は本当に私の人生はもうどうすることもできないものになったと告白するようになったのですね。彼はその理由をはっきり言っていたんです。面白い表現なんです。日本人だったら決してそのような表現を使わないと思うんですね。

 彼は何と書いたかと言いますと、「私は地下室で聖霊をつかまえ、それを追い出した」私は結局霊のはたらきを妨げようと思った、何があっても心を開こうとしたくなかった。結果は目的のない人生になってしまったんです。彼はもちろん福音を聞いたんです。間違いなく聖霊のはたらきを感じたのです。けど、それに対して意識的に心を頑にしてしまったのです。そのことによって彼はもっとも憐れむべき人間に成り下がってしまったのです。彼が私の人生はもう駄目になってしまったと告白せざるを得なくなったのです。彼は神を否定する書物をたくさん作ったり配ったりしたんですね。自分で印刷会社を作ったんです。その中で、もう夜昼こういうとんでもない本を作ったんですね。彼は死んでからあの印刷会社で作られたのは「聖書」だけになっちゃったのです。神の導きは本当に面白い。

  ヘミングウェイというアメリカ人だったと思うんですが、作家だったんですね。彼の書いたものを見ると、ちょっと似ているものではないかと思うんですね。彼は何と書いたかと言いますと「我が人生は暗黒の道です。この道はいったいどこに続いていくのか、全くわからん。皆目分からん。我が道は終りなく暗黒の道です。どこにも行かない道です。」彼の最後は自殺だったんです。
 
 聖霊がどうして注がれたのでありましょうか。与えられたのでありましょうか。我々の人生が目的のないものにならないためです。暗黒の道にならないように、聖霊が遣わされたのだと聖書ははっきり言っておるのです。サルトルは私は聖霊をつかまえ追い出してしまったと言っているのです。結局、聖霊のはたらきに対して彼は心を開こうとしなかったのです。 

引用者註:サルトルと言っても今の若い世代には知られていないかもしれない。ベック兄がここで「聖霊云々」と言っておられるのは、『言葉』の中にサルトルが述べているものだ。サルトル全集人文書院版29巻173頁参照。)

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