2016年11月20日日曜日

宝物と隣り合わせにある貧困

神の愛 語らいて夕 迫るとも 心晴れやか 黄色続けり※ 

私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。(2列王紀7:9)
 
 まさしく最後の人々、彼らは良い知らせを必要としているように思われた。そして彼らに伝えるように託されているこれまた最後の人々であるように思われる人もいた。おお、しかし、その姿はどれほど真実なことか。王様自身の家にあってこれらの癩病人が持って来た良い知らせを必要としていた人がどんなに多くいることかということだ。

 というのは、彼らは大層餓えてはいたが、豊かさの近くにあり、貧しくはあったが、宝が手の届く範囲にあって、主が彼らのために敵を追い散らした時、彼らを取り囲むことができると考えていた。しばしば、それは、霊的な癩病人 、意識的なのけ者、飢餓に襲われ、持てるものが少ないたましいを指すのではないか。彼らはもっとも完全な救いを求めて最も大胆な歩みを取り、王の家のお気に入りの人々や歳を取った人々が知っているものにはるかにまさる、解放と豊かさおよび富を見出す人々だ。

 私たちが彼らに王様の家について話すことを嫌がるだけで、時々良い知らせを隠すのは、敵の策略の一つかも知れない。小さな子どもたちとか貧しい人々やあからさまに「この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません(ルカ19:14)。」と言い、決して臣下である仲間に一言も発しない人々に対してさえ、イエス様について、また祝福された発見をためらわず話すことできる人がどれだけいることだろうか。その発見とは、聖霊が彼らに主の救いを完全にさせるということ、主の力の確かさ 主のみことばという宝物 そして主の愛の満足、さらに主の約束の遠大な成就、そして主があ与えになる真の実際的な解放と自由と勝利、それに主の御名にある信仰をとおして流れる力といやしである。
 
諸国の民に主が治めておられると告げよ
異邦人に鎖を引き裂くように命令して告げよ
嘆き悲しんでいる人々にイエス様は生きておられると告げよ
悩める人々に主が与えてくださる平安がどんなものか告げよ
罪人に主が救うために来られたと告げよ
死せる者に主は墓に勝利せられたと告げよ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-20-poor-within-reach-of-treasures/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97489です。ちょっと詩の前の、後半の部分は切れ目のない長文で、訳がちがっているかもしれません。原文をお確かめの上、読者の方の適切なご教示をお願いします。

※Godhold Beck(90)
 今日の写真は、久しぶりに訪れた友の居を辞したときの風景である。何の変哲もない田舎の晩秋の景色に過ぎない。しかし主なる神様はそこに無限の黄金色という光の祝福をくださった。

 さて昨日お約束した起工式のメッセージであるが、題名は『光なるイエス様』であった。これはまた端的なイエス・キリストのご紹介であった。起工式には設計者、建設会社の方々がそれぞれ数名出席されてのものだった。工事の安全を願うのは当然であろう。しかし、ベック兄は罪と滅びからの救い主イエス様について直截に語られている。

 一部引用してみよう。

「イエス様は『わたしは光として世に来ました。』と言われました。光である救い主が来られた。イエス様は宗教家としてではなく、光としてこの地上に来てくださいました。それだからこそ望みがあります。どういう状況に置かれても、諦める必要はない。イエス様は光として、望みの神とも呼ばれたからです 。

 イエス様が光として来られたから、暗闇や罪の苦しみや孤独から脱出する道が存在します。イエス様は光として我々の中の暗闇を照らしてくださり、わがままを明らかにしてくださいます。

 けれど、それだけではない。イエス様は明るみに出されたあやまち、わがまま、砕かれた心で言い表わした罪を赦し、忘れてくださいます。人間は決して(忘れることは)できない。問題になると、人間は許そうと思えばできる。けれど、後で同じ問題になると、またじゃないかと思い出すんです。主なる神は、思い出さない。だから、聖書の中で何回も、考えられない素晴らしいことばがあります。『わたしはあなたの罪を二度と思い出さない。』すごい、素晴らしい事実です。

 あらゆる人間が、必要とする最も大切なことは、唯一のまことの光、すなわち、生けるまことの神である主イエス様とのいのちの結びつきです。けれど、このことは、ただ、自分のあやまち、わがままが赦された時にだけ可能となります。そして、罪、すなわち、人間のわがまま、また、あやまちが主の光の中で、光であるイエス様の前に告白される時にだけ赦されるのです。(同33分過ぎから)」

 ここにもベック兄が前日述べられたことが、さらにすべての人にわかるように語られていることに気づく。すなわち暗闇そのものである私たちと光である主なるイエス様とはどのようにして結びつくことができるかを敷衍して語っておられるからである。もちろんこれは罪の告白と悔い改めではあるが・・・考えてみるとハヴァガルがいみじくも描いた四人の癩病人の姿を借りて、私たちに福音を証することの意義を語ったように、ベック兄は起工式と言えども、いや起工式だからこそ、福音を直截に語られたのである。このメッセージも是非聞いていただきたい珠玉のメッセージの一つであると思う。上辺はその一部であることを諒とせられたい。) 

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