2016年11月14日月曜日

目的をもって忠誠を尽くすこと

(神の恵みを見て喜び、)みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。(使徒11:23)

 主にとどまることは、単に安全のために恐る恐るしがみつくことではありません。それは輝かしくも勇気ある決断であります。強いものであり、迷ったり裏切ったりする人の見方によって弱められるのでなく、何が起ころうとも、主が私たちの王であるから、私たちは主を愛するから、主の大義と王国は私たちにとって大変慕わしいものであるから、主の側に立つというものであります。私たちは他の関心から解放されることなしには、このようにとどまることはできないのです。しかし、これは何と大切なことでしょうか。 

 「ダビデに身をゆだね」「ダビデの王国のために強く彼を支えた」勇者たちのようにイエス様のために、気高くありましょう。。完全に「神様とともに」おられるのが私たちの主イエス様であるなら、私たちがより小さいことに狙いを定めることに十分な意味があるのでしょうか。それは結局もっとも容易で、もっとも安全な大義にすぎません。

 特別な友だちと「ダビデの勇士たち(1列王紀1:8)」は簒奪者アドニヤに組しなかっただけでなく、彼らは決して裏切るように誘惑されませんでした。「しかし、あなたのしもべのこの私(や祭司ツァドクやエホヤダの子ベナヤや、それに、あなたのしもべソロモン)は招きませんでした(1列王紀1:26)。」宿営を継ぐ者には非常に強力で危険な多くの誘惑があります。敵は護衛の一人に贈っても無駄だと知っています。私たちの父なる神様はイエス様により近づかせて、私たちを「誘惑に陥らないように(マタイ26:41)」導いてくださるのです。

キリスト者の標準を明らかにし
そして最後まで骨折りなさい
いのちの殉教者の冠を勝ち取った高貴な部隊
私たちの祖先は真理のために死ぬことができた
死ぬほどの発熱に立ち向かうことができた
それなのに私たちは標準を下げ
敵に身を任せるのですか  

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-14-cleaving-with-purpose/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97483です。

※Godhold Beck(84)
[5]
 「ワタシは誰でしょう」という宣教の印刷物に次のことが記されていて、私は今だにそれを覚えています。
 「ワタシは地上のどの軍勢よりも力強い。ワタシはどのような爆弾や大砲よりも大きな破壊力がある。ワタシはすべての戦争よりも多くの人間を殺す。ワタシは年々、多くの男女を片輪にしている。病気、長患い、そして死をもたらす。ワタシは子どもも老人も、家屋敷をも見逃さない。何も与えず、すべてを取り去る。あなたはワタシのことを十分に警戒すべきなのに、ワタシのことを忘れている。「ワタシ」とは、あなたの最大の敵、『無関心』である。」

 来て、ごらんなさい。主がいかなる救いを成し遂げられるのかを。
 日本における宣教活動について考えると、私たちは、単に主がなさったことの報告者に過ぎません。報告者は決して重要ではありませんが、「来て、ごらんなさい。主がいかなる救いを成し遂げられるのかを。」というみことばが成就するのを体験し得たことは幸せであり感謝です。

 自分が立てた貧しい計画で無駄なエネルギーを消耗することなく、ただ主が恵んでくださること、主のなさることを感嘆しながら見ているだけでいい者は、何と幸いなことでしょう。恵みの中で成長するということは、自分が衰え、主が盛んになり、ただ主がなさることをそばで見ていることに他なりません。

「私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」(2歴代誌20:12)

 イスラエルの民は、優勢なアモン人の軍勢に怯えていました。どうすればよいのか。人間的に見れば、何もできません。しかし、自分自身の無力さを知り、それを認めた上で主に従おうとするなら、すべてのことが可能なお方、万能の主を体験することができます。自分の無力さを意識し、主を仰ぎ見る者は、何と幸いなことでしょう。これは「無関心」とは全く異なります。

引用者註: 私はこのベック兄の柔和な言い方が好きだ。「来てごらんなさい。」とありますが、これはまさしくあのサマリヤの女の叫びだと思います。「私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」日本人の救いのために奉仕なさった報告は全く何も持たないで来て帰りには主の恵みを一杯いただいたあのサマリヤの女の報告と同じだと言ったら、私の独りよがりでしょうか。それにしても上のハヴァガルの黙想もベック兄のメッセージも不思議なことに地下水脈の深いところで、すなわち「常に主にとどまることの幸いを訴えている点で」つながっている思いがします。これまた当方の勝手な思いかもしれませんね。追記 今晩12日のSpeak just a Wordに掲げられているハヴァガルの詩の素晴らしい訳をいただいた。是非お読みください。) 

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