2016年11月15日火曜日

報われることばの数々

主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。ヨナ2:10 ホフマン画※

エフタは自分が言ったことをみな、(ミツパで)主の前に告げた。(士師記11:11 )
主は(彼とともにおられ)、彼のことばを一つも地に落とされなかった。(1サムエル3:19)

 平均的なセンスや知性を持たない一人の農夫は「読書は総じて大層つまらなかった。けれども、私はやさしい人たちが、貧しい人々は笑い以上の良いものを求めているのだと思ってくれればいいのだがなあーと願っていました。」と述べたものです。結局のところ、神様と神のみわざとおことばについての、直接的で単刀直入で非妥協的なことば以外に本当に報われるものは何もありません。初めて、一人の貧しいアイルランド人が福音を聞いた時、「ありがとうございます。今日あなたは私たちの飢えをなくしてくださったんですね。」と言ったように、一人の人に言わしめるものは福音以外に他の何物もありませんでした。

 私たちの言葉はどうでしょうか。私たちが欲しようと、欲しまいと、言葉はすべて、ある意味で、主の前ですべてが発せられたものです。なぜなら、私の舌には一つの言葉もありませんが、見よ、あなたは、ああ、主はことごとく知っておられるからです。このことはどれほど厳粛なことと考えられているでしょうか。しかし、主の永遠にわたる臨在の光のうちを私たちが歩むように、私たちの言葉が主の前で意識的に発せられる時、それはどれほどすばらしいことでしょうか。私たちが歩くことができますように、保たれた足、保たれたくちびるとともに、信仰をもって「おお主よ、私の力、私の贖い主よ、私の心の想い、私の口から発することばがいつもあなた様から見て受け入れられますように」と祈りながら、話すことができますように。

そうです 私たちはイエス様のためにことばをいただいています
私たちにはあなたご自身の祝福の甘い言葉 
あなたのやさしい「わたしのところに来なさい」という
生き生きしたこだまが聞こえます

主よ そうなんです 私たちはあなたを愛しています
あなたの愛が明らかなことは 
あなたが今日あなたの祝福してくださった足に
あなたが開いてくださった唇の実があります 

私たちには多くの労苦が
多くの心打たれることが
多くの恐れが課せられるかも知れません
しかし あなたはご存知で 強めてくださいます
そのあなたの助けはいつも 身近にあります
私たちに不信仰の恥をなくし 
完全に従っていける恵みをお与えください
弱くともあなたの愛するお名前によって
真心からお証したいのです 
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-15-words-that-pay/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97484です。今日のハヴァガルの黙想はことばを大切にした心からなる彼女の願い・祈りのような気がする。詩の部分はまた読者からやさしい表現が投稿されるかもしれない!

※Godhold Beck(85)
[6]
 主の命令で、ヨナは「ニネベの人々が滅ぼされる」ことを、大声で叫びまわりました。それで何千人もの人々が悔い改め、主に立ち返ったので、主はニネベを滅ぼすことを思い直されました。それを見てヨナは怒りました。

「あなたが恵み深い神であられるのを、私は知っていました。だから最初に命じられたとき、私は反抗したのです。私が告げて回ったことをこんなふうに反故になさるのなら 、私のいのちなど取ってください。」そして彼がふてくされて町を見ていると、主は一本のとうごまの木を備え、彼に日陰を与えました。が、その木は枯れました。彼は再び怒りました。ヨナは不従順であり、また町の人々に対して愛の心がなく、無関心だったのです。

 しかし、主は最後にこう言われました。わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(ヨナ4:11)

 いったい、ここでは何が問題なのでしょうか。主が何を与え、どのように助けてくださり、私をどこに置かれるのか、それを主からどのように受け取るのかが問題なのです。

 ある家族に、治療が不可能と言われている病気の子どもがいました。その子が30歳になったとき、集会の人々が集まってお祝いし、この病気の子のために主に感謝が捧げられました。招かれた人々はこのような体験をしたことがなかったので、たいへん驚きました。普通なら、病気の子は隠されるべきものであり、神に感謝されることなど、考えられないことだったのです。

 ある人は次のようなことを告白しました。飼い犬が病気になり、安楽死のための注射がされたとき、この忠実な犬は最期に飼い主をもう一度じっと見つめました。飼い主は庭に出て、この一匹のために泣きました。

 ヨナは人間に対して無関心でしたが、神様はそうではありません。ヘルマン・ベツルは次のようなことを言いました。「街を見てまわると、人々は破滅に向かっているにもかかわらず、有頂天になり、歓声をあげている。その姿に私の心は痛む」。

引用者註: 戦後の日本人の特徴として1991年の彦根の短大の講演でベック兄が「無関心」「順応」「妥協」をあげておられたと、かつて書いた。ヨナの無関心と主なる神の愛がいかに深いかをここで対照的に語っておられる。)

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