2016年11月4日金曜日

中途半端じゃない!

すすきの穂 射し入る夕日 川面の美※ 

世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。(ヨハネ13:1)

 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる(ピリピ13:1)」それぞれの個人個人の聖霊の宮に関して、また「建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となる(エペソ2:21)」ことの双方において、この「主の愛」はどれほど真実であることでしょう。「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する(ゼカリヤ4:9)。」「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです(ヘブル3:6)。」とある通りです。

 私たちの主イエス・キリストは「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます(ヨハネ17:26)。」とご自身の偉大な祈りのそのアーメンという言葉で承認なさっています。ただ、主が私たちにお示しになり私たちに話されることを単純に受け入れ、信じられますように。そうなれば、主のところに来たすべてのナタナエルに対して主は仰られます。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります(ヨハネ1:50)。」その時、私たちは個人的に実に「祝福の雨(エゼキエル34:26)」を受けることでしょう。

主のお側にあって
あなたは 実に「ますます豊かに」 与えて下さいます 
Unto him that hath, Thou givest
Ever "more abundantly.”
 
主よ 私はあなたが生きておられるので 生きています
それゆえ 私に もっといのちを 与えてください
それゆえ 私に 競争において 走らせてください 
それゆえ 私に 恵みにおいて 成長させてください

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-4-no-half-measures/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97473です。英文を併記したところは多分訳が正しくないと思うところです。読者のご指導を仰ぎたいものです。

※Godhold Beck(74)
 昨日は久しぶりに古利根川縁を歩いた。もう晩秋である。ふと、歳を越すのもあと何年だろうという思いがよぎる。ハヴァガルは主の祝福を求めつつ42歳で召された。ベック兄は86歳で召された。倍近い年齢の開きがあるが、上のハヴァガルの文章と以下のベック兄のメッセージを読みくらべて、読者はどのようなことを感じられるであろうか。「祝福の雨〈showers of blessing〉」とは何というすばらしいことばであろうか。川面の夕日の照り返しも素晴らしいが、その数倍であろう。二人の聖徒から汲み取れるいのちの泉の尽きせぬ喜びを味わいたい。

 主は、ご自身のご栄光で満たすことのできる器を求めておられます。私たち自身が死ぬ必要があります。死んで「自分で生きる」ことを止め、「主なしで生きる」ことを止めるのです。そうすれば、開かれた天を体験できるでしょう。しかし、その前に、私たちの中には堕落しかないことを認めなければなりません。「何と哀れなもの、私は失われたもの」とイザヤは証言しました。

 自分に死ぬことが、私に起こりうる最善のことです。

 いかなる苦しみがあろうとも、すべてを御手から受け取るのです。主が、すべての苦しみや圧迫から私たちを解放されるのは、私たちにとって必ずしも良いことではありません。パウロに対してサタンの使いを送り、こぶしで殴らせたのは主でした。それはパウロが高慢にならないためでした。

 自分に死ぬことによって、イエス様のいのちが見えてきます。主にとっては、父のみこころだけが決定的でした。サタンから、また肉の兄弟から、そして弟子たちから、提言されたことがありますが、一秒たりとも耳をお傾けになりませんでした。父のみこころだけが決め手となりました。

 御霊は、私たちからすべての自主性、すべての思いを取り除きたいのです。その上で、すべての責任を負いたいと思っておられます。イエス様はご自分で何も出来ないと証言されました。「わたしの語ることばも自分から語っているのではない。私のしていることも、わたしではなく、わたしの中におられる父がそうされているのです」と。

引用者註:ナタナエルは「開かれた天」を経験しました。イザヤはイザヤ書6:5で告白しました。ベック兄は聖書をご自分のことばに置き換え、啓示の神を直截に語っておられます。) 

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