恐らく、私たちはこのことを全部経験し、主に探っていただき、語ってもらい、それから赦され、聖められるという、砕かれることの幸いを知っていることでしょう。それでもなお正しくないことがあるのです。私たちは、不安、不鮮明さ、ぼやっとした不安しかないということをほとんど知りません。私たちは「ほんとうに特別なことを知っていないのです」。しかし、満たされない不満足なことがあります。私たちの救い主のところにもう一度来て、主に、主のみこころに従わないで、私たちがなしたこと、今なしていることについて語っていただくように懇願する以外に何もありません。
もし、私たちが主に単に自分たちが期待していることだけでなく、主が考えておられることを話していただく目的を真剣に持とうとしなかったり、あるいは私たちが不愉快なささやきの第一声を秘密にして、「おお、それはそのことと何の関係もあり得ない」とか「私はいずれにしても全く正しいのだ」と言うなら、主のところに来ることは無用でありましょう。(そうでなく)私たちは「主よ、続けてください」とほんとうに言わねばなりません。おそらく主はその時、主がシモンになさったように、私たちが主に対して、数人の貧しい軽蔑された人々が自己をささげて真に主を愛して、仕えたようには、仕えていないことを明らかにされることでしょう。
おお 決して私たちの愛する癒し主である主の
厳密な探索に尻込みしないでください
その御手は私たちが身を預ければ預けるほどますます優しくなることでしょう
主が私たち自身の忠実な友でいらっしゃるという証拠は
ますます快くあることでしょう
この方だけが完全にいやすことのできるために傷つかれているのです
厳密な探索に尻込みしないでください
その御手は私たちが身を預ければ預けるほどますます優しくなることでしょう
主が私たち自身の忠実な友でいらっしゃるという証拠は
ますます快くあることでしょう
この方だけが完全にいやすことのできるために傷つかれているのです
それは しばしば そうではありません
私たちだけがある部分を学ぶこと
そして 主が試される期間は示すことができるのです
それは まったく「心から」のものでなかった、と
その時 主は 主の賢い寛大な優しさのうちに
その訓練は 再び 与えられるのです
同一の場所に 今もなお 置かれている 特徴を 伴って
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-21-humbling-blessedness/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97490です。今日の箇所は、恐らくヨハネ21章で示されたペテロ[シモン]に「あなたはわたしを愛しますか」と三度にわたって聞かれた主の愛が根底にあると思う。詩の部分は何と言っても後半の部分が訳しにくかった。どなたかに教えていただきたい。
※Godhold Beck(91)
写真の花は駐車場の端にあり、行き交う人が見とれていたので、近くに行って撮影した。ほんとうは青空をバックに撮りたかった。
さて、今日も昨日の続きだが、起工式は工事の安全を願うために行われる。しかし、見方を変えれば、ほんとうに人が救いを体験していなければ、これほど安全からほど遠い状況はない。いのちの安全を得ていない人に福音を語るのは工事の安全を願う以前に絶対に必要だというのがベックさんの考え方であったのでないか。そこにはやはり御霊がくださる豊かな想像力がしからしめるところがあるように思う。そのメッセージの末尾で次のようにベック兄は語っている。再び聞き書きを載せることにする。
「イエス様は『わたしを信じる者は、だれもやみの中にとどまることがない。』ということです。大切なことは、ここに記されていることが、何かある物を信ずる、ある宗教に入るのではなくて、『わたしを信じる者は、』とイエス様は言われました。つまり、信仰の内容が大切です。
その信仰の内容とは、すでに成就されたイエス・キリストのあがないの御業です。イエス・キリストは、我々の罪滅ぼしのために犠牲になり、救いの御業をなしてくだだいました。
ただ、人間一人の力では、決して暗闇から脱出することはできなかったでしょう。ただ、人間だけの力によっては、決して良心の呵責からの解放は実現しなかったでしょう。そして、また、ただ、人間だけの力によっては、決して、まことの満たされた人生を知ることができなかったでしょう。
これこそ、イエス・キリストが永遠の昔から持っていた栄光を捨てて、この地上に来てくださるため大いなる犠牲を払ってくださったことの理由であります。
そして、また、罪を知らないお方として、我々のために罪そのものとなってくださるという大変な犠牲を払ってくださったことの理由です。私たちこそ、本来ならば、聖なる神のさばきを受けるべき者でした。けど、イエス様は、我々の身代わりとなって、その神のさばきを、いわゆる天罰をご自身の上に受けてくださり、そのことを通して、贖いの道を開いてくださったのです。
イエス様を信ずる信仰とは、とりもなおさず光に来ること、すなわち、イエス様のみもとに来ることを意味します。そして、光であるイエス様のみもとに来る者は、必ず受け入れられ、その債務は赦されるようになるに違いない。」[39分ごろから42分まで] )
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