私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように。(民数記23:10)
天の竪琴が「さあ、わたしの父に祝福された人たち(マタイ25:34)。」「よくやった。良い忠実なしもべだ。主人の喜びをともに喜んでくれ(マタイ25:23)。」と言う一つの声の響きに、あわせられるとは何という素晴らしさでしょうか。私たちの愛する先に召された人たちはその声をもう聞いたのです。そして王である方のその一つのことばは、その人たちにとこしえに最大の祝福をもたらしたに違いありません。
この瞬間にも、彼らは並外れた喜びのうちにあり、その確かさは私たちの利己的な愛の怯えをことごとく和らげてくれます。私たちの主イエス・キリストの栄光と喜びは彼らに明らかにされ、彼らはイエス様と一緒に喜びを共にし「喜びおどる者となる(1ペテロ4:13)」のです。
彼らはもはや信仰によって遠くから離れて見るのでなく、実に顔と顔を合わせて目で実際に見るとき、どのようにして主のすばらしい喜びを反映する手助けが出来るというのでしょうか。 いいや、さらに目と目とをあわせるのです。最大のやさしい交わりという、非常に緊密に近づく様は、ことばで言い表わすのは難し過ぎます。
彼らは主のありのままを見るのです。あらゆる主の美、愛、栄光のうちにあり、蔽いを通すことなく、ガラス越しでなく、涙で目がかすむこともなく、見るのです。「主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。(詩篇4:6)」という彼らにとっての祈りは全部成就され、彼らは「御顔を示して、喜びで満た(使徒2:28)。」されるのです。私たちがかつて彼らのために祈った祈りは、ことごとく私たちが求めたものに、はるかにまさってすぐれて豊かに満たされるのです。私たちはもはや彼らのために何も祈らなくて良いのです。なぜなら、神様が授けられない祝福の可能性を一つも残されなかったからです。
それゆえ 私は知っています
失われず以前過ぎ去った彼らは
私が来るまでひたすら待っているのです
死は私たちをほんのしばらく離しただけです
私たちの愛のとこしえに続く綱のうちにある
もっとも美しい細縄でさえ断ち切られなかったのです
その非常な綱はより緊密によられ
力が加えられています
こういういのちの音楽は少しも黙っていず
神様の御座のまわりに数々の歌が混ざり合っていて
私たちの貧しい耳ではもはや聞くことができないほどです
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-2-no-wanting-in-heaven/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97471です。今日のハヴァガルの黙想はもっとも彼女らしい文章である気がする。これこそ彼女の信仰の礎であったと思う。そしてそれは今も私たちを励ますものだ。私たちはベック兄もまたその世界におられることを信ずることができる。詩の部分はもう一度じっくり訳し直したいところだ。
※Godhold Beck(72)
別に偽るつもりはないのだが、今日掲載の写真は実は日曜日の写真である。だから今日、水曜日のものではないが、たまたまやむを得ず、今日は日帰りで行き来した。珍しく関ヶ原を越えた途端晴れ間が見えた。いつもは全く逆だのに・・・。だからその写真は撮るには撮ったのだが、余りいい写真でないので、日曜日の今浜の写真で代用した。
ベック兄が召されて72日経った。人のうわさも70日と言うので、それに挑戦したくなって書き始めたが、いつの間にか70日を越えた。ところが、ベック兄は遠ざかるどころか、ますます身近になっている。ましてハヴァガルの黙想を読めば何をか言わんである。引き続いて昨日の続きを写してみる。
この世は、うそ、偽り、欺瞞に満ちています。人間のもっとも内的な性質は、偽るものです。しかし、イエス様は真理そのものです。他の人が何を考え、何を言うのか、それは重要ではありません。人間の中には真理はありません。理性や意志、また、感情は真実ではありません。
サウロはかつて信者を迫害しながら、神に仕えていると確信していました。私の中におられるキリストは、私自身とまったく違うのです。私が肉的あるいは霊的にどうであれ、それはどうでもいいことであり、内住されるイエス様は、まったく違っておられるのです。
私がどういう者かではなく、主がどういうお方であられるか—
私たちの意見は簡単に変わります。しかし、内住されるイエス様はお変わりになりません。主イエス様は、私とまったく違うお方ですから。
私はイエス様の中に安らぎ、すべてをイエス様にお任せします。
主の中に留まりなさい。主の中には、休息、平安、自由、守りと安全があります。それらをキリストが私たちに与えられました。すべてを私たちは持っているのです。主が、私たちにとって、すべてとなるべきです。
信じる者は、自分自身の中には何も求めず、ただ主にすがりつくのみです。私たちの主は、いつも悲しみ、悩み、苦しみを通してのみ、ご自身を啓示されます。ですから、私たちには悩みが必要であり、主は悩みを送ってくださるのです。
引用者註:ベック兄は不幸を経験している人に、よく「全部イエス様のせいにすればいいよ」と、助言をされた。その真意はこれによると、そのことを通してイエス様ご自身を知ることができる、それこそ啓示の神様の特徴だと考えておられたのだろう。 )
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