2016年11月19日土曜日

Beyond Our Ken but Not Our Spirit

そこで、きょう、だれか、みずから進んでその手にあふれるほど、主にささげる者はないだろうか。(1歴代誌29:5)

 あなたはこの言い回しが盛り込むことができることを全部理解していない、それゆえにこの言い回しを明らかにする資格がありません。それゆえ、この言い回しにびっくりしたり、考えたりしないでください。あなたか私かどちらかが理解しているよりも、恐らくそれは、はるかに多くのことを包含していることでしょう。しかし、私たちはどちらにしてもその精神に参入できません。その詳細は私たちの観察が続けられる限りにおいて明らかになるでしょう。キリストは意志において心からなる献身を求めておられ、行動においてそれが含まれていることを教えて下さるでしょう。このことは完全な献身はある意味で瞬間の行動であり、別の意味では生涯続けられる働きだという逆説を明らかにします。

主の側に立つのは誰ですか 王にお仕えするのは誰ですか
他のいのちを携える 王の助け人とは誰ですか
誰が世の側に立つことから自由でいられるでしょうか
誰が敵に向き合うのでしょう
主の側に立つのは誰ですか
主のために誰が出かけていきますか
あなたの恵みの招きによって あなたの天与のやさしさによって
私たちは主の側に立つのです 救い主様 私たちはあなたのものです 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-19-beyond-our-ken-but-not-our-spirit/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97488です。

※Godhold Beck(89)
 日ごとにベック兄が召された重味が増している。昨日も申し上げたが、2010年の元旦のメッセージは迫真に迫るものであった。その同じ月の1月10日のメッセージはこれまた厳しいメッセージである。今晩聞き直してみた。題名は『キリストに対する真実と貞潔を失うことあっては』であり、2コリント11:2〜4、ガラテヤ1:6〜10であった。

 その翌日が新会堂の起工式であった。そこではまたどのようなメッセージがなされたのだろうか。それは明日見ることにするが、これらについては私の当時のブログは一切触れていない。ベック兄が「競争」「旅人・寄留者」「たたかい」「勝利者」「主の同労者」という聖書のことばに従いながら、いかに主を愛し抜くか、私たちに熱心に語っておられたのに、こちらは馬耳東風であった。

「主が、強制することを好まず、自発的に主に従いたいと言う兄弟姉妹を求めておられるということです。主は主の軍勢の勇者となることを誰にも強制なさいませんけど、ただ単に救われるだけではなく、主の器とされることは大きな特権です。2テモテ2:3〜4・・・・初代教会の特徴とはどうして彼らが用いられたか、と言いますと、その秘訣とは2コリント5:9に書いてあるでしょう。『肉体の中にあろうと離れていようと私たちの念願とするところは主に喜ばれることです。』主の存在を認めることじゃない、ただ主を信ずることだけではない、主に喜ばれることです(同32分前後)」

「集会全体の使命は暗闇を照らすことです。まことの光はイエス様御自身です。けど、イエス様はご自分の光を、ご自分のからだなる教会を通して、すなわち主イエス様を信じ受け入れた兄弟姉妹一人一人をとおしてこの世に与えようとしておられます。救われた一人一人をご自分の器として用いようと望んでおられます。私たちの内からは、まあ、当然ですけど暗闇しか出てきません。けど、イエス様の内からは光しか出てこないのです。イエス様が我々をお用いになる程度にしたがって主の光が我々の内から出て来るのです。イエス様がわれわれを救われたのはわれわれをお用いになるためであり、われわれの内からご自身の光を与えられるためです。これこそが今年の私たちの使命・課題であります。けど、イエス様に対する個人的な愛がなければいかなる熱心も奉仕も何の役にも立ちません(同38分過ぎ)」

 「 」書きの部分はいずれもベック兄の44分 余りのメッセージの聞き書きである。今日のハヴァガルの黙想はわかりにくいが、恐らくこのベック兄の一言葉「イエス様に対する個人的な愛」などにきわめて近接している考えでないかと思う。)

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