2016年11月7日月曜日

主が切望される願い

西軽井沢国際福音センター 2016.11.5 朝※

わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。(ルカ22:15)
 
 完全な意味で、ゲッセマネとカルバリとともに、主の心の願いは弟子たちと心置きなく限られた最後の数時間を過ごすことでありました。さて、もし私たちが王を主のみことばで受け入れ、このように王が願っておられることをほんとうに信じるなら、私たちは王に対して冷たい心を持ち、無関心なままでいることができるでしょうか。

 私たちは「私はあなたを愛しているか愛していないかどうかわからない」といういかなる人の心をも傷つけるような冷めた答えでもって、そのような愛と集まりを愛される主を失望させる考えを抱くことができましょうか。私たちがどれほど愛するかを正確に確かめようとする病的な見方をやめましょう。(それはまるで体温計で私たちを暖めようとすることであって、私たちが愛するかどうかを疑う結果になるだけです)そして主の愛と願いをまっすぐ見ましょう。

 もしあなたが主を主の喜びの杯を満たすほんの小さな滴りほども主を愛していないなら、あなたを求め、あなたの愛をほんとうに切望し、天使や聖徒たちすべての愛に満足なさらないイエス様について考えなさい。(あなたには)答えるときめきも、応答するほてりもないのでしょうか。

 「二階(ルカ22:12) 」のうちに 小さいけれども忠誠を誓う一団が会わせられます
深くして しかし懲らしめられる苦悩は その一団の上に その和らげる手を置かれた
彼らの間には 死すべき人間の物腰よりもっと多くを身につけているお方がおられる 
あらゆる苦難のうちに 弱き者がよりかかることのできる主がおられるのです 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-7-his-desired-desire/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97476です。やはり訳出のむつかしいところがあります。文意を取ったところがあります。疑問の向きは本文をお確かめください。

※Godhold Beck(77)
 いささか旧聞に属し、読者の方にはおなじみの文章かもしれないが、以下に紹介するのは2000年4月26日の日本経済新聞の「交友抄 」欄に掲載された、当時黒田精工社長の要職にあった古川卓氏の文章である。ご本人の了解を得て、転載させていただいた。

 これまで大勢の先輩や友人に支えられてきたが、中でもゴッドホルド・ベック宣教師との出会いは私の生き方を大きく変えた。ベック氏は約50年前に西ドイツから来日し、現在は東京・吉祥寺に布教活動の拠点を置いている。

 すでに知遇を得ていた家内から紹介され、7年前の5月に初めてお会いした。場所は西軽井沢の国際福音センターだった。当時、大学生の長男が大病を患い、親としての苦しみを打ち明けると「それは良かった。お恵みだよ」と言われた。その瞬間、不快感どころか、安らぎを覚えたから不思議だ。彼の言葉を頭で理解しようとする以前に、体からにじみ出る慈愛で包み込まれ、あっさり降参させられてしまった。

 それ以来、年に数回、説教をうかがいながら、自分なりの生きる道を探し求めている。私は生来、「我」が強く、会社でも上司らと衝突し疎んじられることも珍しくなかった。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを授ける」という聖書のことばに接し、まだまだ道半ばであることを痛感させられる。

 ベック宣教師はいつも彼を慕う人々に囲まれている。大学教授、医師や弁護士など一般に自負心の強い人たちも、彼の前では心から素直になれるようだ。私はこうした仲間たちに紛れ遠目から接することが多いのだが、向こうから見つけてくれ、ドイツ語なまりで「タカシ、元気ですか」と話しかけられるとたちまち有頂天になってしまう。

 私が人生の師と仰いでいることを知ったなら、「あなたが信頼するのは神だけだよ」とお叱りになるに違いない。

後記 このように書かれた古川氏は、大胆に神のみことばをあちこちで宣べ伝えておられる。それはベック兄が召された今も変わらない。) 

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