人であれ、物であれ、私たちがもっとも欲するのは、私たちがそれを最も欲するちょうどその時でないということが、大きいことであっても小さいことであっても、非常に共通する経験ではないだろうか。私たちは、主が約束されたとこしえの臨在について、そうでないと言って決して文句を言ってはいけない。なぜなら主は「わたしは苦しみのときに彼とともにいる(詩篇91:15)」とおっしゃるからである。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおる(イザヤ43:2)」ともおっしゃっているからである。
そしてすべての必要の中でもっとも深刻な時、すなわち死の陰の谷において、現在のよびかけに従って来たたましいはその時「あなたが私とともにおられます(詩篇23:4)」と言うことができるであろう。
私たちが主とともに来ることを拒む時、どれほどイエス様の愛を失望させているか、そのことを十分認識しているとは私には思えない。なぜなら、主はまことに文字通り私たちがご自身と一緒にいることを強く願っておられるからである。
もし、主がそのことについてそれほど注意を払わず、最低限のあわれみから私たちを見つけ救い出すだけであったら、主の民が主とともにいるべきご自身の安息と栄光の頂点に代表されるような偉大な祈りの最高潮となさっただろうか。
いいや、そうではないだろう。主が私たちを贖われたのは、主の憐憫であることはもちろんのこと主の愛のうちにあることだった。そして愛は身近にいることを懇願するものだ。これこそ、たとえそれらの程度や組み合わせがどんなものであろうとも、単なる同情ややさしさの小さな満足感と愛を識別するまさにそのことなのである。主イエス様はもし様々な同情ややさしさにまさるものを私たちに向かって感じられなかったとしたら、「わたしと一緒に来なさい。」とは決しておっしゃらなかったであろう。
「たしかにわたしはあなたとともにいる」
夜中の星明かりの約束だ
影のように あらゆる不確実性は
その光の前に退散する
「たしかにわたしはあなたとともにいる」
主が話されたのだ 私はこの耳で聞いた!
古からの真実 そしてこの瞬間も真実だ
私は ヤーゥエ神のみことばに信頼する
夜中の星明かりの約束だ
影のように あらゆる不確実性は
その光の前に退散する
「たしかにわたしはあなたとともにいる」
主が話されたのだ 私はこの耳で聞いた!
古からの真実 そしてこの瞬間も真実だ
私は ヤーゥエ神のみことばに信頼する
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-8-my-lord-and-i/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97477です。
※Godhold Beck(78)
色鮮やかな満天星(どうだんつつじ)である。
以下の文章は私どもの家庭集会で2014年6月25日に証してくださった方の聞き書きの一部である。この方の父上は大学時代に救われ、将来伝道者になろうとされたが病を得てその道ならず、卒業後は伝道を背後で支えようと実業界で実際に責任を負いながら活躍なさった方であるが、後年自ら教会の設立に参与された。しかし晩年にベック兄に出会われ、その信仰に共感を覚えられた方であったという。さて、その方の話だ・・・
振り返りますとベックさんと父と母の間に心に残る出会いがありました。まず最初、御代田のセンターの入口で、父や私たちを迎えて下さったベックさんとの、堅い父とベックさんの握手です。父が「私は60年信仰を守りました。」いつにない父の言葉でした。ベックさんは大ニコニコ。「私は50年伝道しています」と。で、二人の間に、そのあたりには、祝福の香りが立ちこめる思いで、私は感激致しました。
次は父が89歳。肺がんで召される10日前のホスピスのことでした。ベックさんがお見舞いに来てくださいました。それまでずーっと目を閉じていた父が大きく目を開いて、満面の笑みでベックさんを見上げました。「あなたにいのちの冠を与えよう」とのみことばを書いた色紙を姉妹がくださり、皆んなで喜びました。その時、86歳の母でしたが、ベックさんに向かって「万歳!」「万歳!」と両手を高く上げました。するとベックさんも同じように両手を上げて、母に(向かって)「万歳!」「万歳!」とおっしゃってくださいました。ホスピスで両親の幸せな一時でした。お恵みの時でした。
その後ひとり残されました母は骨折をしましたり、認知症の症状が出たりで、私は仕事をすべてやめまして、介護の生活が始まりました。多くの苦労・葛藤がありましたが、ベックさんは「お母さんはさみしいのだよ」とやさしくことばで私を慰め励ましてくださいました。
そして6年後の平成16年11月、吉祥寺集会でベックさんは母のお葬儀をしてくださいました。川崎教会の古き友人たち、また家族、京都の親戚も出席できました。主のご愛に包まれたお葬儀でした。その時私にいただいたみことばです。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」ローマ書8:38〜39)
0 件のコメント:
コメントを投稿