美しき言葉をいだすなり。(創世記49:21 文語訳)
サタンは謙遜を悪用して妨害することさえして、私たちを説得して、当然のように私たちが知っているよりも私たちの友が神様のことについてもっと知っており、私たちがイエス様のうちに発見したことを話すのは、私たち自身について語っているだけかもしれないと納得させます。しかし、おそらく私たちがたくさんの良き知らせや救いを宣べ伝えることを差し控えている間、その間ずっとその友人は飢え渇き、悩まされているでしょう。
私たちのもっとも輝いている者は、もっとも謙遜なキリスト者からイエス様についてもっとも単純なことばをいただき、もっとも感謝した日々をすごしたのではなかったでしょうか 。「主の名前を語り告げること」でさえ食べ物となり自由であった日々であったのです。
キリスト者の家族の各員はその恵まれた立場のゆえに、そのような「良き知らせ」を何ら必要としないということは全然フォローにはなりません。誰も彼らに当たって見て助けることが必要だと思わないから、彼らはなおのこと必要なのです。それではいつなのでしょうか。つねに思い浮かぶことばですが、再び「今だ」と言って、そのことばは私たちを待っています。
やさしいことばの思い出が長い間とどまり 朽ちていく花の香りがやさしく送られ
突然の笑み 突然の涙が ちらりとあらわれ さらに暖かな手のぬくもり 歓呼の響き
突然の笑み 突然の涙が ちらりとあらわれ さらに暖かな手のぬくもり 歓呼の響き
「私は話すことは出来ない。だが、私は聞いたのだ」というその静寂
神ご自身のみことばから一節を生み出すにすぎない覚え書き
私たちがほとんど宣教とはみなさないそのような小さな事柄
与えた人たちはかすかな同情をあらわしたと思っている
けれども 心が高ぶっている時おお 誰が話すことができようか 良くするそのような小さな事柄の力を
昔 聴いた 優しいことば
枯れ行く花の愛しい香り
思いがけぬ微笑みと 涙の 輝き
握られた手 励ましの声の ぬくもり
云えないけど 分かってるよと伝える沈黙
主のみことば だけが 書かれたメモ
すべて ご奉仕とは 言い難い小さきこと
特別に深い憐み・同情心も 伴わなかったかも
でも このような小さい事に 秘められた力
それは 疲弊し渇いた心を 潤してくれないと
だれが 言えるでしょう
神ご自身のみことばから一節を生み出すにすぎない覚え書き
私たちがほとんど宣教とはみなさないそのような小さな事柄
与えた人たちはかすかな同情をあらわしたと思っている
けれども 心が高ぶっている時おお 誰が話すことができようか 良くするそのような小さな事柄の力を
昔 聴いた 優しいことば
枯れ行く花の愛しい香り
思いがけぬ微笑みと 涙の 輝き
握られた手 励ましの声の ぬくもり
云えないけど 分かってるよと伝える沈黙
主のみことば だけが 書かれたメモ
すべて ご奉仕とは 言い難い小さきこと
特別に深い憐み・同情心も 伴わなかったかも
でも このような小さい事に 秘められた力
それは 疲弊し渇いた心を 潤してくれないと
だれが 言えるでしょう
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-12-speak-just-a-word/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97481です。青字の詩の部分は何ともおさまりのつかない文章になってしまいました。最後のフレーズThe power of such tiny things to make It wellはitが大文字でItです。wellは果たして「良い」でいいのでしょうか。それともここは「泉」と理解し「みことばを泉にするそのような小さな事柄の力」と訳すのがいいのでしょうか。 追記 読者より素晴らしい訳をいただいた。ブログ氏の愚劣な訳を小さくして併記して載せます。ご鑑賞ください。
※Godhold Beck(82)
[3]
さて、若者の集いで語られた第二の引用は、次の文章です。
「神様は、ご自身の目標を達成するために、私たちをも参加させられるのです。あらゆる国家、部族、民族、言語の人々が集まって主を礼拝します。」(シドニー・ウイトブーイ)
私たちの使命は、イエス様を宣べ伝えることです。私たちの望みは、まだ救われていない人々がイエス様を知って救われることです。主への愛、そして失われている人々への愛ゆえに、私たちは「真理」の問題に関して、異説を聞き入れてはなりません。人々を地獄に行かせたくないからです。この世にある、いわゆる宗教というものは、人間を生ける神のもとにではなく滅びに導きます。ただひとり主イエス様だけが、ご自身が生ける神への唯一の道であると明言しておられます。
今の時代はほんとうに深刻です。イエス様を信じる者は、協力しあうべきです。しかし、その協力とは、すべてを犠牲にし、すべてを妥協して協力しあうことでは決してありません。聖書の真理を犠牲にした誤った超教派的な動きは、解決策にはなりません。ただ主イエス様を信頼し、信じ切ることだけが問題を真の解決に導きます。
たとえば、私たち主を信じる者は、次のような人々と交わることはあり得ません。
・聖書を絶対的なものと考えない人々
・マリヤや聖人、死者に向かって祈る人々
・聖書に基づいた相談でなく、心理学的なカウンセリングを求める人々
・この世的な方法で、教会を繁栄させようとする人々
・ローマ法皇を、すべてのキリスト者の代表として認める人々
・聖書の神とイスラム教のアラーを同等に位置付ける人々
・集会の規律を時代遅れとして、受け入れない人々
・罪や地獄について、もはや語らなくなった人々
・神はすべての宗教の中にいる、と言う人々
・人々の賛同を得られないので、神をもはや主とは呼ばない人々
(この項はフリーゲ氏によるドイツの教会の大会における発言)
・神は、父でもあり母でもあるので、もはや主とは呼ばない人々
・イスラム教徒とともに祈ろうとする人々
・洗礼を罪の赦しとして認識する人々
今の世の中は、神を認めようとしない社会になっています。不信仰と愛の欠如が蔓延しています。ヨーロッパの国々の憲法において、もはや「神」の理念はなくなってしまいました。罪を罪と呼べず、異端を異端と呼べなくなると、宣教も福音伝道も不可能になります。過ちと罪があって初めて神様の真理、義とあわれみが宣べ伝えられるからです。
引用者註:イエス様を宣べ伝えることの素晴らしさをハヴァガルは今日のところで親族に伝えることの奮起を促すかのように語っていました。一方、ベック兄は20世紀からあらわれ、21世紀に支配的になっている、宣教の危機について語っておられます。このようなベック兄の考えはこの時に始まったものではありません。すでに1994年発行の『絶えず祈れ』の下巻の「はじめ」の11頁から27頁にかけて極めて根本的なことが語られています。)
※Godhold Beck(82)
[3]
さて、若者の集いで語られた第二の引用は、次の文章です。
「神様は、ご自身の目標を達成するために、私たちをも参加させられるのです。あらゆる国家、部族、民族、言語の人々が集まって主を礼拝します。」(シドニー・ウイトブーイ)
私たちの使命は、イエス様を宣べ伝えることです。私たちの望みは、まだ救われていない人々がイエス様を知って救われることです。主への愛、そして失われている人々への愛ゆえに、私たちは「真理」の問題に関して、異説を聞き入れてはなりません。人々を地獄に行かせたくないからです。この世にある、いわゆる宗教というものは、人間を生ける神のもとにではなく滅びに導きます。ただひとり主イエス様だけが、ご自身が生ける神への唯一の道であると明言しておられます。
今の時代はほんとうに深刻です。イエス様を信じる者は、協力しあうべきです。しかし、その協力とは、すべてを犠牲にし、すべてを妥協して協力しあうことでは決してありません。聖書の真理を犠牲にした誤った超教派的な動きは、解決策にはなりません。ただ主イエス様を信頼し、信じ切ることだけが問題を真の解決に導きます。
たとえば、私たち主を信じる者は、次のような人々と交わることはあり得ません。
・聖書を絶対的なものと考えない人々
・マリヤや聖人、死者に向かって祈る人々
・聖書に基づいた相談でなく、心理学的なカウンセリングを求める人々
・この世的な方法で、教会を繁栄させようとする人々
・ローマ法皇を、すべてのキリスト者の代表として認める人々
・聖書の神とイスラム教のアラーを同等に位置付ける人々
・集会の規律を時代遅れとして、受け入れない人々
・罪や地獄について、もはや語らなくなった人々
・神はすべての宗教の中にいる、と言う人々
・人々の賛同を得られないので、神をもはや主とは呼ばない人々
(この項はフリーゲ氏によるドイツの教会の大会における発言)
・神は、父でもあり母でもあるので、もはや主とは呼ばない人々
・イスラム教徒とともに祈ろうとする人々
・洗礼を罪の赦しとして認識する人々
今の世の中は、神を認めようとしない社会になっています。不信仰と愛の欠如が蔓延しています。ヨーロッパの国々の憲法において、もはや「神」の理念はなくなってしまいました。罪を罪と呼べず、異端を異端と呼べなくなると、宣教も福音伝道も不可能になります。過ちと罪があって初めて神様の真理、義とあわれみが宣べ伝えられるからです。
引用者註:イエス様を宣べ伝えることの素晴らしさをハヴァガルは今日のところで親族に伝えることの奮起を促すかのように語っていました。一方、ベック兄は20世紀からあらわれ、21世紀に支配的になっている、宣教の危機について語っておられます。このようなベック兄の考えはこの時に始まったものではありません。すでに1994年発行の『絶えず祈れ』の下巻の「はじめ」の11頁から27頁にかけて極めて根本的なことが語られています。)
0 件のコメント:
コメントを投稿