神様はその王をイスラエルとユダの支配者に任じられました。かくして主は主の民に一体としての大きな拘束をお与えになります。
なぜなら、「ひとりの王が彼ら全体の王となり(エゼキエル37:22)」その王は、「散らされている神の子たちを一つに集め(ヨハネ11:52)」られるからです。 「サタンは散らすが、イエス様は集められます。」その時、私たちは敵に道をゆずり、愛する王様も支配する人々を遠ざけるようにしむけるのでしょうか。
今日このことを思い起こし、主の他の臣下たちとのすべての私たちの交わりが実際的になるようにつとめましょう。なぜ、神様はイエス様を王とされたのでしょうか。誰が正しい答えを推し量ることができたでしょうか。「なぜなら主がご自身の民を愛されたからです」そのようにまさしくキリストが王であるという考え方は、神様のとこしえに続く愛から主の民に生じたのです。
そのすばらしい宣言を人格的な真実性をあらわす「主の民」すなわち、あなたと私の民との関係にまで下ろしなさい。神様はイエス様をあなたの王とされました。それは神様はあなたを愛され、神様がイエス様を愛されたところの愛にまさる愛は何もないからです。
より密接に さらに密接に 黄金の契約は
私たちの主を真心から愛するすべてのものを結びつける
ものとなることでしょう
さらにより広く より広くまで 円環の栄光は 輝くでしょう
もっともっとおおくの者が
神について その力ある愛を 知るように教えられることでしょう
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-3-king-of-your-life/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97472です。
※Godhold Beck(73)
いなかの庭にいつも今ごろ静かに咲き揃う「千両 」。今年は持って帰ってきた。殺風景な新建材の玄関にあでやかに映えた。さすが「千両役者」だ。ベック兄についての連載も今日から71回目に入る。福音の「役者」は何を語ろうとされたか。ただしこの「役者」は「やくしゃ」と読まず「えきしゃ」と読む。なぜなら使徒たちはみな主に仕える「えきしゃ」であったからである。
使徒たちは、教義や方法、規則などについて論じ合ったことはありません。主イエス様のことを告げ知らせ、(その結果)絶望的な状況に置かれたのです。脱出の道を見出せず、主に叫びました。すると、主は改めてご自身を現わされました。
脱出のない、どん底を経験することなしには、新しい啓示は得られません。
助けを与えてくれるのは、律法や教義ではなく、イエス様の新しい啓示なのです。主の中にのみ、光といのちがあります。
御霊で満たされていた主は、ご自分の考えを否定されました。「わたしはどうでもよい。父よ、あなた様は何を望まれますか。わたしは何を語り、何をなすべきでしょうか。わたしの思いではなく、わたしの判断ではなく、あなた様の判断、みこころがなりますように。」
イエス様の生涯は、完全に父のご支配の下にありました。イエス様は目立たない存在でいたかったのです。十字架の意味するところは、自分の意見も十字架につけることです。日々、自分の思いや感情は、十字架の下に持っていかねばなりません。主が頭〈かしら〉として決定権をお持ちです。
次のような疑問が浮上します。
・私たちに対しての「処分権」が主にあるのですか?
・主は、思いどおりに私たちを取り扱っていいのですか? )
0 件のコメント:
コメントを投稿