2018年11月30日金曜日

クリスチャンの希望(5)


時がついに満ちて、その時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。(エペソ1・10)

 主はなおマタイによる福音書第25章31節以下にあるように、万国民をその栄光のくらいの前にあつめてさばきなさるのです。しかし、この万国民の審判と、黙示録第20章11節以下の最後の大審判とをあわせて、「天地の終わりのときに、キリストの再臨があって死人はすべてよみがえらされ、そして総審判がある」ようにいう人がありますが、これはまったくの間違いであります。

 主の再臨のときによみがえるのは、ただ主にあるものだけです。不信者が「さばきを受けるためによみがえる」のは、千年時代ののちで、この黙示録第20章11節以下の死者の大審判で罰せられて、火の池(第二の死)に投げ込まれるのであります。ところがこのマタイによる福音書第25章は生きている万国民の審判です。千年時代の前にこの審判が地上で行われるのです。そして千年時代ののち、天地がうせ去ってのちに不信者の審判があります。

 信者は千年時代の前に、もっとはっきり言えば「きたるべき怒り」、大患難の前に、主が空中までおいでになって、取りあげて下さって、「いつまでも主と共にいる」のです。信者はいずれの審判にもあうことがありません。(すでにキリストは十字架上でわたしたちの罪のために審判をうけて下さったのです。)さてこの生ける諸国民の審判ですが、「王はその右にいる人に言うであろう。・・・御国を受けなさい」、すなわちこれからはじまる王国(千年王国)に入るのです。この王国は信者の心を支配する霊の国ではなく、この地上にキリストご自身が政権をにぎり、直接政治をなさる地上王国であります。(ダニエル書2・34〜45などを見てください。)

 さてこのキリストの王国でありますが、その人民は、イスラエルの十二支族(部族)であります。イスラエル全体の将来の回復についてはかず多く預言がありますが、その中の一つ、エレミヤ書第30章3〜22節をよくお読みください。異邦人はエルサレムに服し、エルサレムは世界の中央政府となり(マタイ5・35、詩篇48・2、エレミヤ3・17)、政治、宗教の中心となって、万国はみな政令をうけるためにあつまり、仮庵のいわいを守るためにのぼってきます。全世界はみな、真の神にしたがい、偶像はまったくあとをたち、また世に戦争というものがなくなり、武器はみな農具にかわります。地の産物はきわめて豊かになり、動物の性質などもかわってしまいます。(イザヤ2章、11章、35章、60〜62章など)まことに王なるキリストの栄光のあらわれる時であります。

 しかしクリスチャンは王の王、主の主であるキリストとともに現われて、この地上を支配するのです。ローマ人への手紙第8章17節に「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって・・・キリストと共同の相続人なのである」とあり、黙示録第5章10節に「彼らは地上を支配するに至るでしょう」とあり、同じく第21章9節以下には「小羊の妻なる花嫁」として千年時代における教会の特別な栄光(キリストと共なる)がしるされています。

 これはわたしたちの幸福だけではなく、何より神の栄光のあらわれることであります。神のご計画の大目的は、キリストにあってご自身をあらわしなさることです。千年時代にイスラエルが地上で最高の祝福をうけることによって、神がいかに約束をなしとげるに誠実なお方であるかがあきらかにされ、また教会が天のところにキリストとともにあることによって神のめぐみの栄光があらわれます。エペソ人への手紙第1章10節に「それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの、地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである」と書かれてあるとおりです。キリストは、はじめてこの世においでになったとき、十字架の死をもってその土台をおき、ふたたびきて力をもってそれをなしとげなさるのです。

 さて千年王国がおわって、とじこめられていたサタンはしばらくの間解き放され、そのために地の四方の国々はサタンにまどわされ、エルサレムに攻めよせます。しかし天から火がくだって彼らは焼きつくされ、サタンは火と硫黄との池に投げこまれます。(黙示20・7〜10)それから今の天地はやけくずれ(第二ペテロ3・12)世のはじめよりの不信者ーーかれらの霊はいま黄泉にいますがーーはさばきを受けるためによみがえり、「大きな白い御座」によびだされて審判をうけます。(黙示20・11〜15)そしてキリストは国を父なる神にわたし、すべてあがなわれた者は新天新地で永遠かぎりなく、救い主と共にたのしむのです。(黙示21・1〜4)コリント人への第一の手紙第15章23、24節に「それぞれの順序」が書かれています。すなわち「最初はキリスト」(キリストが死人の中からよみがえりなさったこと)「次に主の来臨に際してキリストに属する者たち」(キリスト者がよみがえらされて主のみ許にいくこと)「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである」と記されてあるのです。

(『キリスト者の希望』山中為三著22〜27頁より引用)

2018年11月29日木曜日

クリスチャンの希望(4)


私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。(コロサイ3・4)

 さてここですこしばかりユダヤ人と教会との区別を書いてみましょう。この区別はキリストの再臨を学ぶ上にきわめて大切であります。ユダヤ人はキリストの人民で、教会はキリストのからだであり新婦です。ユダヤ人は地につける者ですが、教会は天につける者であります。ユダヤ人はキリストので地上のめぐみをうけるものですが、教会はキリストにあって天上のめぐみをこうむるものです。(これについては申命記第28章とエペソ人への手紙第1章とを対照してお学びください。)神はアブラハムを偶像につかえている諸国民の中からお召しになり、その子孫をめぐむとのお約束をお与えになりました。(このお約束は決して変わりません、どんなに彼らが不信仰であっても。)

 いまイスラエルの歴史をくわしく記しませんが、アブラハムから約二千年主イエスがこの世にお生まれになった当時は、ユダヤの国はローマの属国となっていたのです。もちろんこれは彼らが神に従わなかった結果であります。しかし神がおちぶれたユダヤ人を救い、世界第一の国となさることは、旧約聖書にしばしば預言されています。主イエスはそのお約束によってかれらの救い主、メシヤ、王としてあらわれなさいました。しかし悲しいことには、ユダヤ人は、この自分たちの王をにくんで殺してしまったのです。しかし神はこのイエスをよみがえらせて天にあげ、その右に座らせられたのです。主は天において教会のかしらとなり、天のキリストのからだ(教会)を全世界(ユダヤ人、異邦人の区別なく)のなかから呼びあつめるお働きがはじまったのです。これがめぐみの時代であります。そこでわたしたちのような「希望もなく神もない者」(エペソ2・12)が、お救いにあずかったばかりでなく、キリストのからだの肢とされたというのは、なんという大きなめぐみではありませんか。

 キリストを殺したユダヤ人は、また神にすてられることになり、神殿はこわされ、民はちらされて今日のありさまになってしまいました。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言っておく『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」との主イエスの御言葉どおりです。(マタイ23・37〜39)主が今にも空中までくだって、教会を取りあげなさるとき、教会を集めるお働きはおわり、ふたたびユダヤ人についてのお働きがはじまります。ダニエル書にある70週、すなわち490年のうち、69週はキリストの死までにおわり、ただ最後の一週、7年がのこっています。(この70週は「あなたの民ーーユダヤ人と、あなたの聖なる町ーーエルサレムについて」定められているのです。)

 さてキリストの死と最後の一週とのあいだに、今のめぐみの時代(教会時代)がはさまっています。(教会は奥義であって、預言の問題でなく、旧約には示されてはいません。どうかこのことについて、エペソ人への手紙の第3章2〜11節によってお学び下さい。)教会が天にとりあげられて、めぐみの時代がおわれば、この最後の一週(7年)がはじまります。このときユダヤにいる一般のユダヤ人たちは、ローマの君(ローマ帝国は、今日西ヨーロッパ諸国に分裂していますが、そのうちに一つとなって、ふたたびローマ帝国をかたち造ります)と7年間の契約をとりむすび、その保護のもとにたち、宗教の自由をえて一時好都合のように見えますが、その後半(7年のなかば)になって、ローマの君は契約を無視し、犠牲と供え物を禁止して、偶像を神殿に立てることになります。この3年半のあいだユダヤ人にとって「世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難」(マタイ24・21)のときです。主が、ダニエル書の聖句をひいて「荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば」といましめなさったのはこの時のことです。(マタイ24・15)一般は神にそむき、にせキリストに従いますが、神に選ばれた少数のユダヤ人(のこりの人)は、非常な困難のなかに神に忠実につかえます。

 ついにエルサレムが万国の軍隊にかこまれ、どうすることもできなくなった時に、突然、キリストは聖徒たちをひきつれて、天から現われ、彼らに敵する悪人をたおして、救いなさいます。このことは前に記したゼカリヤ書第14章2〜4節に記されています。そして5節に「あなたがたの神、主はこられる、もろもろの聖者(聖徒)と共にこられる」とありますが、さきに取りあげられた聖徒たちは「キリストと共に栄光のうちに現われる」(コロサイ3・4)のであります。黙示録第19章を見ますと、新郎のキリストと新婦の教会との婚姻すなわち「小羊の婚姻」が天でおこなわれます。(教会はいまはキリストと婚約している処女です。)さらに天が開いて、キリストは天からあらわれて戦い、さばきなさるのです。そのとき、すべての聖徒たちはそのあとにしたがって現われます。そしてローマの君(けもの)、偽預言者、および地の諸王とその軍勢とはたちまちほろぼされるのです。このようにキリストが王国をお建てになるのは、そのしもべたちを用い、キリスト教の伝道によるのではなく、ご自身があらわれて、みずからお建てになるのです。権威とちからとをもって悪人を罰してお建てになるのであります。

(『クリスチャンの希望』山中為三著17〜22頁より引用)

2018年11月28日水曜日

クリスチャンの希望(3)

今日の散歩道から
こうして、あなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望んでいる。主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。(1コリント1・7〜8口語訳)

 さて、このめぐみの時代に、聖霊は、この地上でこの世から教会を集めていられますが、すべての真の信者は取り出され、教会がととのったとき、主はふたたびきて、それをみ許にに迎えて下さるのです。ーー(主のご昇天ののちペンテコステの日に聖霊は天からおくだりになって、真のクリスチャンのうちに宿り、一つのキリストのからだになさったのですが、これが教会です。栄光のキリストが教会のかしらであり、教会がキリストのからだであります。(第一コリント12・12〜13、コロサイ1・18)またキリストは新郎であり、教会は新婦であります(黙示21・9、同22・17)ーー

 いまに、主ご自身が父の御座を立ちあがって空中までくだりなさいます。今にラッパがなりひびきます。そのとき死んでいる信者はよみがえり(もちろん、この人たちのたましいはすでに主と共にいるのです)生きて残っているわたしたちも、またたくまに、この卑しいからだが、主イエスご自身の栄光のからだと同じかたちに変えられて、一同雲の上にたずさえられ、空中で主にお目にかかるのです。

 コリント人への第一の手紙第15章51〜52節には「ここであなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパのひびきと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパがひびいて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである」とあります。申すまでもなく、聖徒たちの復活のからだは、くちない、栄光の、強いからだ、霊のちからによって生きるからだであります。(第一コリント15・42〜44)キリストを死人の中からよみがえらせた神は、信じる者のうちに宿っている御霊によって、死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

 これがわたしたちの待つからだの救い、すなわちからだのあがないであります。(ローマ8・11、23)そしてこのキリストの再臨(信者のための)は今かもしれません。実に「祝福にみちた望み」であり、なんという「大きな救い」ではありませんか。

 もちろん、心からキリストを信じ、その御血で罪をゆるされ、聖霊で印された者でなければ(エペソ1・7、13、14)天にゆくことはできません。いわゆるキリスト教信者で、宗教儀式を守り、表面上のりっぱな行ないがある人でも、まことの信者でなければのこされます。そしてのこされた名のみの信者は、キリストが雲に乗ってこの世に現われなさるときに、たいへんな目にあいます。それは実におごそかなことです。

 さて教会を天に取りあげなさることは、キリストの再臨の第一段階です。第二段階はさきにお取りあげになった聖徒たちを引きつれて、世にあらわれなさることであります。この世は救い主として来られた神の御子を受けずに、かえって十字架につけてしまいました。その結果、神の刑罰をうけねばなりません。主が「今はこの世がさばかれる時である」(ヨハネ12・31)とおっしゃったとおり、すでに世は罪に定められています。それで教会がこの世から天にとりあげられたのちには、世に神の刑罰がくだり、ついにキリストご自身が世のさばき主として現われなさるのです。

 黙示録を見ましょう。第4、5章には教会が地上からとりあげられて、天で礼拝感謝しているさまが記されてあります。ところが第6章以下には、ききん、疫病、戦争、そのほかさまざまなおそろしい出来ごとが起こることが書かれてあって、第19章になると、主イエスご自身が聖徒たちを引きつれて世にあらわれ、悪人をほろぼしなさることが示されています。主イエスは無法の手をもって殺そうとする者たちにむかって「人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗ってくるのを見るであろう」(マタイ26・64)と告げられていますが、これはまことにおごそかな言葉です。また黙示録第1章7節には「見よ、彼は雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」とあります。しかもこの御方は、さきに馬槽に生まれ、十字架にすてられたイエスであるのです。
(『クリスチャンの希望』山中為三著13〜16頁より引用)

2018年11月27日火曜日

クリスチャンの希望(2)

久しぶりの散歩道で見つけた草花
 ところが「キリストの再臨は、だんだんとキリスト教が伝わり、世界にキリストの王国が実現して、そのあとであるのだ」という人たちがあります。しかしこれは人間のこしらえた説で、聖書に示された神の教えとまったく違っています。まずテサロニケ人への第二の手紙第2章3〜8節を見ましょう。「だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起こり、不法の者、すなわち、滅びの子が現われるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する・・・不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。その時になると、不法の者が現われる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう」とあります。

 キリスト教が行きわたって全世界がキリストに従うのではなく、反対に、すでに使徒時代からキリスト教のなかに、秘密に不法の主義が働いていて、ついに不法の者が公然とあらわれます。すなわち大悪人があらわれて、自分を神とするようになるのです。そして主の再臨の結果、この悪人は滅ぼされます。以上のように、主の再臨は、全世界がキリストに従ってからでなく、反対に、偽キリストが勢力をもっている時代です。

 さらに使徒行伝を開いて、使徒ペテロが宣べたところを読みましょう。「このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった」(使徒行伝3・21)。この万物更新の時とは、キリストが直接この地上をご統治なさる千年の王国時代(黙示録20・3〜7)のことです。この時代の来るまでキリストは天におられるのです。すなわちキリストの再臨によって千年王国時代がはじまります

 またルカによる福音書第17章26〜30節に、主イエスのみことばが記されてあります。「ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起こるであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。ロトの時にも同じようなことが起こった。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現われる日も、ちょうどそれと同様である。」文明は進歩しても、この世は決してよくなりません。ますます悪くなって主の再臨のときには、ノアの時の世界のように、ロトの時のソドムのようになってしまいます。そして主がふたたびおいでになって、この世は刑罰を受けるのです。神はその日を定めていられるのです。(使徒行伝17・31)

 さらにゼカリヤ書第14章を見れば、はじめのほうに主の再臨がしるされています。「その時、主は出てきて、いくさの日にみずから戦われる時のように、それらの国びとと戦われる。その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ。・・・あなたがたの神、主はこられる」(3〜5節)そしてこの主の再臨ののち、この世界は王国となります。9節に「主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる」とあるとおりです。

 もう一箇所、ローマ人への手紙第8章19〜22節を見ましょう。今の時代はすべての造られたものが、ともになげき、ともに苦しんでいて、そのほろびのなわめから解かれて、神の子たちの光栄の自由に入れられることをのぞんでいます。造られたものは、神の子たちのあらわれるのを切に慕いもとめているのです。キリストの再臨のときに、神の子たちとともに栄光のうちにあらわれ、すべての造られたものの栄光の自由にいれられて「おおかみは小羊とともにやどる」(イザヤ11・6以下)時代となるのです。この再臨の前には決してこのような幸福時代はありません。

 たしかにキリストの再臨は、この世にとって、おそろしいことです。なぜならば「主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現われる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主の御顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受ける」からであります。(第二テサロニケ1・7〜9)主イエスは「そのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」とおっしゃっています。(マタイ24・30)

 しかしほんとうに救い主を信じている者(真のクリスチャン)にはおそろしいどころか、なによりうれしいことです。主の再臨には信者のためと不信者に関することとの区別があります。すなわち主が空中までくだって信者をお取りあげくださることと、世にあらわれて世をおさばきになることとの区別(段階)があります。これがはっきりわかると、まことの信者であれば、主のおいでを、今か今かとまちのぞむようになります。それならば、主がご自身のものを迎えにおいでになるということは、どういうことでしょうか。

 主イエスがこの世をお去りになさる前に、次のように弟子たちにおおせになっています。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。・・・あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14・2〜3)信者はキリストの十字架のあがないで、その罪はまったくゆるされて、神の刑罰をまぬがれましたが、そればかりでなく、主は父の家に迎えいれられるものとしてくださったのです。そしてふたたび来て、わたしたちを取りあげ、みそばにいつまでもおいてくださるのです。

(『クリスチャンの希望』山中為三著7〜13頁より引用。山中為三氏はもちろん、故人であり、資料もなく中々その人物像はつかめないものと思っていたが、ひょんなことに手持ちの『キリスト者の勝利ーー横井憲太郎と一粒社の軌跡』という本の中に同氏が寄稿されている文章を発見した。それによると昭和7〜8年の頃、美濃ミッション聖書学校の校長であった。)

2018年11月26日月曜日

クリスチャンの希望(1)

往年の福音ポケットブック※
クリスチャンの希望なるキリストの再臨を聖書に基づいて書きますが、引用聖句は一々聖書を開いて、祈り深くお学び下さい。

 わたしたちの救い主イエス・キリストのふたたびおいでになるのは、どんなにさいわいなことでしょうか。これこそクリスチャンの「祝福に満ちた望み」(テトス2・13)です。この希望によってクリスチャン生活がいとなまれるのです。「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んで」いるのです。(ピリピ3・20)

 ヨハネの第一の手紙の第3章のはじめの「 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」とは、なんというすばらしいことではありませんか。

 初代のキリスト教会の信者たちは、「神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むように」なっていました。(第一テサロニケ1・10)

 ところが、今日多くの人は、クリスチャンが死ぬときに主がいらっしゃるように思っています。それは大きな間違いです。信者の死は「肉体を離れて主とともに住むこと」です。(第二コリント5・8)いまわたしが死ねば、この「幕屋(肉体)を脱ぎ捨て」て(第二ペテロ1・14)、主のみもとにゆき、主とともに住むのです。主イエスと共に十字架につけられた、あの救われた悪人に対して、主が「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」とおっしゃったとおりです。(ルカ23・43)死んだ信者は、たましいで主のもとにいくのであって、主がこられるのではありません。あの殉教者ステパノは、死の直前に「主イエスよ。私の霊をお受けください」と祈っています。(使徒7・59)

 さて、主イエスが天におのぼりになったとき、天をあおいで見ていた弟子たちに、天のつかいは「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様でまたおいでになります」とつげています。(使徒1・11)このとき天におのぼりになった「このイエス」は、いま栄光のからだをもって神の右にすわっていられますが、まもなく、このイエスご自身が天からおいでになるのです。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです(第一テサロニケ4・16〜17)と記されているキリストの再臨は、決して信者の死ぬときのことではありません。

 なおキリストを霊のように思うと、その再臨もわからなくなります。主は霊ではなく、いま肉と骨をそなえていられることは、ルカによる福音書24章36節以下に、はっきり示されているとおりです。すなわち、お甦りになった主イエスは、弟子たちに「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」と言われて、手と足とをお見せになり、みんなの前で食事をなさったのであります。

 もちろん主は霊において、いつも地上にいるわたしたちと共に世(時代)の終わりまでいてくださいます。(マタイ28・20)また御名によって集まるところに主はその中においでになるのです。(マタイ18・20)しかしわたしたちは「肉体を宿としている間は主から離れている。それでわたしたちは、見えるもの(現に見るところ)によらないで、信仰によって歩いている」のです。(第二コリント5・6〜7)

 「いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています」(第一ペテロ1・8)が、すぐにも「顔と顔とを合わせて見る」(第一コリント13・12)「そのまことの御姿を見る」ときをお待ちしています。それは「肉体から離れて」ではなく、わたしたちの卑しいからだが、主イエスご自身の栄光のからだと同じかたちに変えられて(ピリピ3・21)、「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会」が主ご自身に迎えられることであります。(エペソ5・27)これはどんなにすばらしい光景(事実)でしょうか。これこそクリスチャンの希望であります。

 キリストの再臨といえば、なにかむずかしい教理のように思い、わたしのような者は、ただ救い主を信じているだけでたくさんだという人もありますが、これはもっともさいわいな神の御約束であって、信者は聖書のみことばを文字通り信じ、「キリストに対する純情(無心)と貞操と」(2コリント11・3)をもって、今か今かと主のおいでをお待ちすべきです。

(※『クリスチャンの希望』山中為三著1957年刊行1〜7頁より引用。引用文のうちに著者が傍点が記されているところは青字で示した。本書は手のひらに入る小さなポケットブックだがそれでも総頁は45頁におよぶ。写真でお分かりのように、もはやボロボロになり、捨てられても同然の代物であったが、数年前に古本市で拾い上げたものである。しかし、中身は読んでいず、今日まで月日が経過した。なりは小さくとも、この文章を残された山中為三氏に関心を持ち、散逸するのを恐れて、ネット上で、同書を転写することにした。根気強くおつきあいいただきたい。著者についてもわかる範囲でご紹介していきたい。)

2018年11月24日土曜日

主が教えてくださったこと(下)

年少の友人小川洋子さんの絵
すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。(マタイ9・2)

 私は自らの内にある愛が条件付きの愛であったことをみことばを通して示されて、初めてその方に謝らねばならないと思わされ、示されてから一日は経っていたが、早速実行に及んだというわけであった。相手の方は、私のうちに起こった悔い改めの情はご存じなかったと思うが、私の思いをありがたく受け取ってくださった。これで一件落着した思いであった。ところが、主は続いて素晴らしい恵みを私にくださった。

 それはその方のダイニングで行なわれた葬儀に立ち会うことになった経緯である。もともとダイニングではカナダからの遠来のお客さんをお迎えして食事が提供されていた。ちょうどお昼時でもあり、私もその謝りが縁で、その場に急遽招かれ、お相伴にあずかったのだ。おいしいお料理に舌鼓を打ちつつ、その遠来のお客さんともお互いに旧交を温めるひと時となった。私は遠来の方は遠くからお見受けしていてその御存在は知っていたが、その方も意外や私のことを知っておられ、私に話を合わせてくださり、楽しい歓談の時を持たせていただいた。

 その時、どなたかが一枚の額入りの男性のにこやかな写真をダイニングに持ち込まれた。その後、たくさんの方が室内に入ってこられ、食事の終わった私たちは他の方と交代すべく引き下がった。その内に新たに入ってこられた方々がいずれも喪服の姿であったので、これからどこかで葬儀があり、その待合のために入ってこられたものとばかり思っていた。

 ところが、そのうちに、一人の方から、「葬儀の終わりのお祈りをしてください」と依頼を受けた。私はどなたの葬儀かも知らないし、第一、平服でいたので、それを理由にお断りしたが、その方は「いや、そのままでいいから、お願いします」と言われ、葬儀がこのダイニングで行なわれることをいつの間にか納得していた。

 葬儀の直前に喪主らしき御婦人と、葬儀の段取りや集われた親族友人の紹介が同じテーブル内でなされ、私も遠巻きではあるが自然とその輪の中に入って行った。その内に少しずつどなたの葬儀か知るように導かれて行った。そして不図、その御婦人の横顔を拝見して、びっくりした。何年か前、私どもの家庭集会にお見えになったこともあり、その後もお会いするごとに親しく声をかけられる方であったからである。

 決して健康とは言えず、心の病をかかえて苦しんでおられる御婦人を思い出し、その方のご主人が召されたことを即座に了解させられた。そして、その葬儀がこれからこのダイニングで行なわれることを完全に納得させられたのである。私は思わず、この場面はあの中風の人がイエス様の面前に引き出すために、愛する人々が屋根を剥がし、つり降ろした場面を思い出した。その場面でイエス様は何よりも「あなたの罪は赦されました」という宣言をなさった。

 そしてその葬儀は集われた方々の讃美と聖書からのメッセージ、またヴァイオリンの讃美も加えてなごやかに行なわれた。私はそのような主の恵みの場に立ち会えたのであった。もちろん、その御婦人は突然ご主人を亡くされたのだからその悲しみは大きく尽きないと思うが、ご主人が主を信じられたことを証してくださった。皆さんの祈りに支えられ、愛に支えられたこの葬儀こそ、すべての形式にとらわれない「愛」の賜物であることを、この日、主は確と私に刻印されたのであった。

2018年11月23日金曜日

主が教えてくださったこと(上)

二紀会出展作品 吉岡賢一画
愛は結びの帯として完全なものです。(コロサイ3・14)

 久しぶりにブログを更新している。それは火曜日に経験したことがきっかけである。中々自分自身の性格は変わらないが、少し違ったステージに踏み込みそうな気がすると思うからである。

 学生時代、森有正のファンだった。彼の書く文章に触れるのが新鮮であった。その中で確か『バビロンの流れのほとりにて』だったか、彼の日本での生活を哲学的に回想し、東京の屋敷を振り返る場面だったと思うが、そこに「娘を愛さない。娘が自分なしに生きられないとなると大変だから。」というような意味の文章が突然のごとく差し込まれていて、痛く感銘を受けた。一方、私は当時、マックス・ウエーバーの学問に心酔しようとしていた。そこでは「客観的自己認識」というテーマを求め、それが私にとっての最大のテーマであった。ところが今週の火曜日に、キリスト者になっても、長年、その彼らの虜として行動していたことがわかり、悔い改めさせられたからである。

 それはどういうことかと言うと、一人の方の過去が許せず、その過去がどうであったかの事実認識を自他ともに課して、そのような客観的認識を前提としてその方を愛そうとしている自己の姿を知ったからである。それは決して愛に値しない、やはり律法学者の愛と何ら変わらない愛であることに気づかされたからである。

 そのことをはっきり気づかしてくれたのが、昨日のスタンレー・ジョンズの一文である。彼はパウロが、イエス・キリストにより救い出されて、新しいいのちを主からいただき、その新しいいのちをもって同胞のところに遣わされて行った、その時には、かつての人々の人間観、価値判断から離れて、愛のかたまりとして恐れずして、人々に福音を伝えることができたと述べていたからである。ポイントは新しいいのちをいただき、そのいのちでもって初めて私たちは人を愛することができる存在であるということである。

 もちろん、そのようなことを意識せず、私は火曜日その方に謝らねばならないと、上から示されて、その方に謝った。先方の方はかえって恐縮された。でも、そのことは私にとって革命的な出来事であった。私のうちにはその方を愛している自覚があったが、その方の過去に拘泥している姿は、決してその方を愛していないことがわかり、それを悔い改めたからである。

 ところが、このようにして私の身の上に起こったことは、それが終わりではなかった。そのことについては明日書くことにする。
 

2018年11月22日木曜日

『社会的でしかも単独に』 スタンレー・ジョンズ

長野県御代田町大浅間ゴルフセンター(11月4日)

わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、あらためてあなたを彼らのところに遣わす(使徒26・17)

 (すでに今まで申してきた通り、)人間は群衆から逃れるわけにはいかない。肉体的にも精神的にも、内外ともに、またその中に止まって、これと戦うといっても、不断に守勢にあって、すべてそのもたらすところに消極的、否定的に暮らすこともできない。そうかといって、これに屈服してしまっては、全く群衆のなかに一把ひとからげの存在でしかなくなる、それもできない。結局私どもはクリスチャンとして神に捧棄してのみ群衆本能の問題は解決し得るのである。

 それではそれは世から離れて神のうちに住むことであろうか? 否、むしろ私どもはもっと深く群衆の中に入ることであるがただ解放されたものとして入るのである。私どもの衷心の魂が群衆の支配から解放され、神の支配の下に入り、神が主で、群衆が主でない。群衆から解放されると、そこで私どもは群衆を愛することができるようになる。すなわち群衆以上のものを愛する、その愛にあって群衆を愛するからである。だから一面社会的であって、一面単独で、独立独歩であって、しかも社会的になるのである。

 これがパウロに対する命令にある。「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、あらためてあなたを彼らのところに遣わす」(使徒26・17口語訳、新改訳)彼は彼らに遣わされたのであるから社会的であるが、すでに国民と異邦人から救い出されているから単独である。人々に仕えようとすれば先ず自らがその人々から解放されねばならぬ。例えば牧師が群衆の支配の下にあって彼に対する批判や、感情を恐れていたら、人々に対して何ら貢献しこれを助けることはできない。ただ彼が見えざる神の前に跪いて祈る密室から出て来てのみ人々の前にうちとけた気持ちで、しかも権威をもってこれに対することができるのである。先ず上を見上げてから、はじめて水平に他を見ることができるのである。その衷心に唯一人、至上の神の前に跪く心の宮をもってこそ人々に対して愛を注いで何らこれに支配されることなきに至るのである。自由人のみが人々を自由ならしめ得るのである。

 使徒行伝におけるキリスト者たちは衷心に自由を得ていた、群衆の支配から解放されていた。故にこそ群衆を新たにし、これに与えることができたのである。では、その方法は?

 お父様、真に単独になり切って、はじめて社会的になり得る、八方美人的存在から解放されて、私は今や本当に、自由な気持ちで与え得るものとなりました。ありがとう御礼申し上げます。アーメン。

今日の確認 世間は何というだろうかと人々は言う。何なりと言わして置けばよいさ。

(このところ、かつて、と言っても10年ほど前になろうか、古本市で二束三文で買っていた『日々の勝利』E.スタンレー・ジョンズのデボーションを読み始めた。1956年に邦訳が出、次々に版を重ねた本のようだ。このような本を人々は今や見向きもしない。しかし、読み進めてみて次々色褪せない聖書の真理が明らかにされていることに目を見開かされる思いだ。久しぶりの投稿だが、一読あられたし。同書159〜160頁より引用)