2018年11月23日金曜日

主が教えてくださったこと(上)

二紀会出展作品 吉岡賢一画
愛は結びの帯として完全なものです。(コロサイ3・14)

 久しぶりにブログを更新している。それは火曜日に経験したことがきっかけである。中々自分自身の性格は変わらないが、少し違ったステージに踏み込みそうな気がすると思うからである。

 学生時代、森有正のファンだった。彼の書く文章に触れるのが新鮮であった。その中で確か『バビロンの流れのほとりにて』だったか、彼の日本での生活を哲学的に回想し、東京の屋敷を振り返る場面だったと思うが、そこに「娘を愛さない。娘が自分なしに生きられないとなると大変だから。」というような意味の文章が突然のごとく差し込まれていて、痛く感銘を受けた。一方、私は当時、マックス・ウエーバーの学問に心酔しようとしていた。そこでは「客観的自己認識」というテーマを求め、それが私にとっての最大のテーマであった。ところが今週の火曜日に、キリスト者になっても、長年、その彼らの虜として行動していたことがわかり、悔い改めさせられたからである。

 それはどういうことかと言うと、一人の方の過去が許せず、その過去がどうであったかの事実認識を自他ともに課して、そのような客観的認識を前提としてその方を愛そうとしている自己の姿を知ったからである。それは決して愛に値しない、やはり律法学者の愛と何ら変わらない愛であることに気づかされたからである。

 そのことをはっきり気づかしてくれたのが、昨日のスタンレー・ジョンズの一文である。彼はパウロが、イエス・キリストにより救い出されて、新しいいのちを主からいただき、その新しいいのちをもって同胞のところに遣わされて行った、その時には、かつての人々の人間観、価値判断から離れて、愛のかたまりとして恐れずして、人々に福音を伝えることができたと述べていたからである。ポイントは新しいいのちをいただき、そのいのちでもって初めて私たちは人を愛することができる存在であるということである。

 もちろん、そのようなことを意識せず、私は火曜日その方に謝らねばならないと、上から示されて、その方に謝った。先方の方はかえって恐縮された。でも、そのことは私にとって革命的な出来事であった。私のうちにはその方を愛している自覚があったが、その方の過去に拘泥している姿は、決してその方を愛していないことがわかり、それを悔い改めたからである。

 ところが、このようにして私の身の上に起こったことは、それが終わりではなかった。そのことについては明日書くことにする。
 

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