2013年12月25日水曜日

言が肉体となられた

言は肉体となられた。(ヨハネ1・14)※

キリストは、清浄、純潔なきよい誕生をされました。一方、わたしたちの誕生は、不純で、罪にみち、のろわれたものです。わたしたちは、キリストのきよい降誕によってのみ助けられます。しかし、キリストの降誕は、ケーキのように、分割して与えられることもできませんし、また、そういうことができたとしても、そのまま助けとはなりません。しかし、みことばがのべ伝えられるところでは、それは、どこでも、すべての人にむけて差し出されています。そして、これをしっかりと受けいれ、信じた人は、自分自身の罪にみちた誕生によって苦しむことがありません。

これが、みじめなアダムの誕生から、わたしたちがきよめられる方法であり、またこのゆえに、キリストは人となって生まれることをよしとされたのでした。それは、わたしたちがキリストにあって再び生まれるためです。「み旨により、彼は、真理のことばによりわたしたちを生んでくださった。それは、わたしたちが再生し、新しいものとなるためである」※。このようにして、キリストはわたしたちからわたしたちの誕生を取り去り、それをご自分の誕生の中に沈みこませ、そのかわりにご自分の誕生をわたしたちに与えてくださいました。それによって、わたしたちが新しくきよいものとされ、あたかもキリストの誕生がわたしたち自身のものであるかのようになるためです。ですから、すべてのキリスト者は、自分もマリヤから生まれたかのように、このキリストの誕生を喜び、栄光を帰さなければなりません。

これこそ、天使の語った大きな喜びです。これこそ、神の慰めであり、すばらしいめぐみです。もし信じるならば、この宝を喜び、マリヤが母となり、キリストが兄弟となり、神が父となるのです。そこで、この誕生があなた自身のものになり、キリストと交換したことを、おぼえましょう。信じるならば、あなたの誕生は捨て去られ、主の誕生を着ているのです。こうして、あなたは、たしかに、処女マリヤのひざにすわり、彼女の愛する子とされているのです。

(『ルターによる日々のみことば』鍋谷堯爾編訳12月25日から引用。の新改訳聖書の表現は「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」である。※はヤコブ1・18のルター訳であろう。さて、赤子の誕生は無条件に普通、人は「おめでとう」と言って祝う。ところが、ルターは、その誕生がのろわれたものである、と言う。なぜだろうか、それは確かに肉体の誕生は喜ばしいが、人は神を認めない罪人として生まれたままであるなら霊的には死んでいるからである。しかし、そのような人間を見るに忍びない神様は2000数年前に処女マリヤの胎をとおして御子イエスを生まれさせ、私たち人間の救いの道を開いてくださった。こうして神の御子の誕生を信ずる者が罪と死から解放され、永遠に生きる新しいいのちにあずかれる道が開かれたのだ。将来は罪の結果である「死」しかなかった人類に、新しく永遠に神のいのちに生きる道が備えられた。だから「クリスマスおめでとう!」とキリスト者は心から言うことができる。Merry Christmas!)

2013年12月24日火曜日

大きな喜び

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2・10〜11)

「あなたがたに」というひとことは、わたしたちを喜びでいっぱいにします。このことばはだれに向けて語られているのでしょうか。木にですか、石にですか。いえ、これは人に向けられて語られているのです。ひとりにですか、ふたりにですか。いえ、すべての人に向けて語られているのです。では、わたしたちはこのことばをどのように理解すべきでしょうか。なおも神のめぐみを疑って、「ペテロやパウロならば、救い主のこられたことを喜ぶことができるだろう。しかし、わたしはできない。わたしはみじめな罪人で、これはあまりにもわたしのためにはもったいない宝である」と言うでしょうか。

兄弟たちよ。もし、あなたがキリストはわたしのものでないと言うならば、では、キリストはいったいだれのものですか。あひる、が鳥、牛などを救いにおいでになったのでしょうか。ここで、キリストがどのような姿か見なければなりません。もし他の被造物を救いにこられたのだったら、たしかに、その被造物のすがたをおとりになったにちがいありません。しかし今や、キリストは人の子となられたのです。

そして、あなたは、いったいなんですか。わたしはなにでしょう。わたしたちも人の子ではありませんか。たしかにそうです。では、人を除いてだれがこの幼な子を受け入れるでしょう。天使はキリストを必要としません。悪魔はキリストを嫌悪します。しかしわたしたちはキリストを必要とし、わたしたちのために、キリストは人となられたのです。こうして、ここで天使が、「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」と告げているように、わたしたちは心からの喜びをもって主を受けいれましょう。

(『ルターによる日々のみことば』鍋谷堯爾編訳12月24日より引用)

2013年12月23日月曜日

飼葉おけのイエスさま

クリスマスものがたりから ホフマン画
ベットがないので、飼葉おけの中で、
小さいイエスさまは、かわいい顔して寝ている。
晴れた空から、お星が見下ろすと、
小さいイエスさまは、まぐさの中で寝ている。(一節)

牛がモーとないて、赤ちゃんは目を覚ますが、
小さいイエスさまは泣かない。
わたしはイエスさまが大好き!
空から見下ろして、わたしの揺りかごのそばに、朝になるまでいてください。(二節)

現在、教会学校や礼拝で普通に行なわれている会衆による賛美が、どのような変遷をたどって今日に至ったかについては興味深い物語がある。四百年余り前までは、一般会衆はいかなる礼拝でも歌うことは決してなかった。音楽は司祭と特に選ばれた聖歌隊だけが演奏した。それどころか、歌だけでなく、礼拝は始めから終わりまで、会衆の大部分には全く意味のわからないラテン語がもっぱら用いられていた。

ヨーロッパにおける宗教改革と同時に、幾つかの日常語による賛美歌が礼拝用に作られた。しかし、一般会衆の賛美を推進し、またそれに表現力を与えるためには、才能に富んだ指導者マルティン・ルターの出現を待たなければならない。宗教改革の著名な指導者となったルターは、1483年貧しい鉱夫の子として、ハルツ山脈のふもとのアイスレーベンで生まれた、彼は音楽に天賦の才能を持ち、優れた声楽家であっただけでなく、自分でもフルートやリュートを演奏した。

フランシスコ会修道院の修道院付属の学校の生徒であった時、たびたび金持ちの家の窓の下で美しい声で歌い、施しを得ては貧しい人たちに分け与えた。クリスマスの季節には、友人といっしょにキャロルを歌いながら、近くの村々を回ったこともある。ルターにとっては、音楽は神の賜物であり、恵みであり、悪魔を追い払い、すべての人に怒りを忘れさせるものであった。

したがって、後年ルターが会衆賛美の奨励に最大の関心を示したのは当然のことである。「歌によっても、人々の間に神のみことばが定着するために、私は賛美歌を作りたいと考えている」と彼は語った。人々は自国語の聖書と同じように自国語の賛美歌を持ち、「神のみことばを読み、自分たちの歌によって神に語りかける」ことができるようになった。礼拝はもはやラテン語ではなく、一般民衆のことばによるようになったのである。

最初の賛美歌集は、ウイッテンベルクで1524年に出版された。載せられたのはわずか八曲だけで、そのうち四曲はルター自身の作品であった。小冊子ではあったが、民衆の要望に答えて、華々しい売れ行きを示した。

ひとたびルターの詩的才能が開かれると、後は堰を切った水のように次々と新しい賛美歌が誕生したので、世人は彼のことを「ウイッテンベルクのナイチンゲール」と呼ぶようになった。最初の賛美歌集が出版されてから二十年も経たぬうちに、少なくとも百十七冊がルターとその仲間によって出版され、ドイツは文字どおりの「歌の海」となった。このようにして、偉大な改革者は会衆賛美の父としても知られるようになり、彼の指導の下に急速に普及していった。1529年ごろに書かれた、かの有名な賛美歌「御神は城なり」(聖歌233番、賛美歌では267番「神はわがやぐら」)は、詩篇46篇から霊感を得たもので、今なお傑作の一つとされている。

ルターはまた、子どもにも彼の心を伝えようとして、子ども用に楽しい曲と、これにあった魅力的な歌詞を作った。最も優れたものの一つは、「わたしの心よ」(聖歌666番)と題するものである。世界中の子どもが喜びをもって久しく歌ってきたあの短い子守歌「飼葉のおけですやすや」は、息子のハンスのために1530年のクリスマス祝会用に書かれたものであろうと考えられている。この歌は、飼葉おけの中の御子イエスを実にやさしく、美しく描いているではないか。そして第三節は、私たちがいっしょに学び、いっしょに祈りたいと願う、主への祈りなのである。

どうかイエスさま、わたしのそばにいてください。
いつまでもそばにいて、わたしをかわいがってください。
どうかみんなの子どもをやさしく守って
わたしたちが天国で、
あなたのそばに行けるようにしてください。(三節)

(『賛美歌物語』セシリア・M・ルーディン著安部赳夫訳7〜10頁より引用、少し訳を省かせていただいたところもある。この賛美の曲は様々な形で聞くことができるが、私個人としてはhttp://www.youtube.com/watch?v=rLTvaw7lnIg が、落ち着いていて原歌詞のイメージに忠実だと思った。)

2013年12月19日木曜日

クリスマス、そは約束の成就

芦ノ湖畔 2013.12.2 by N.Y
神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世記3・14〜15)

救いの黎明は、蛇に下された宣告のなかに最も明瞭に現われている。この章節で、福音の最初の約束が明示していることは、陰惨な怒りを貫いて流れている恩恵が、蛇に対する呪詛を人間に対する約束に一変せしめているということである。罪人[アダム]が罰の宣告を待ちながら、被告として神の御前に立っていたときに、直接に約束が与えられることはもちろん考えられないことである。にもかかわらず、宣告を待ちながらふるえているアダムにとって、自分を罪におとし入れた者に対する断罪の宣告は、希望の光たらざるを得なかった。従って「最初の福音の表面は審判であったが、裏面は人類に対する約束を意味したもので」あった。

はじめには、その預言の意味がまだ漠然としている。なぜなら、もしもサタンが蛇によって代表されるならば、蛇の「子孫」は神に敵対する「まむしのすえたち」(マタイ伝3・7、12・34、23・33)としてすべての悪魔の側に立つ悪霊的なもの、人間的なものの全体にほかならない—従って一人の個人ではなくて、多くのものを指すのである。しかしその場合には並行的な対句と対句との調和の点から言って、女の子孫もまた単なるひとりの人ではなくて、やはり多くの子孫、すなわち信仰をいだきつつ女に与えられた約束の基盤の上に立つ人々全部のことでなければならない。

女の子孫もまた、いつかは一人の個人において頂点に達するであろうという観念を、原始の人類はただ間接的にしかもつことができなかった。なぜなら、預言の終句には、女の子孫が蛇の多くの子孫を砕くばかりでなく、その頭である蛇そのものを砕く、と書いてあるからである。このことから多分、女の子孫そのものもまた何時かは一つの頭、一人の人において頂点に達するであろうと認められるからである。

今日、ふり返ってみて、それ以後の預言や成就を解釈することによって(ことにイザヤ書7・14、マタイ伝1・21〜23、ミカ書5・2、ガラテヤ書4・4)、はじめてわれわれは、神がここで初めて—絶対的にではないが暗示的に、いな、主として—御子キリストのことを話されたのであることを悟る(ロマ書16・20、ヨハネ第一書3・8)。人類の中心であるキリストは、同時に、女の子孫の中心である。このことからのみわれわれは、神がなぜ男の子孫と言いたまわず、女の子孫と言いたもうたかを、理解できる。

イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。(マタイ伝1・18)

そしてそれと同時に、その頭を踏み砕き、かかとにかみつく、という預言によって、「メシヤの受くべき苦難」(「かかとにかみつく」を参照)及び「その後の栄光」(「頭を踏み砕く」を参照)を予告している、驚くべきほど多くの神の言明が始まったのである(ペテロ前書1・11)。それゆえに、これ以後のすべての預言のもつ二重性格—すなわちキリストの初臨と再臨とを一つの画像において見ること—が、すでにここに現われている。そしてこの意味において、原始福音はメシヤ預言の根源であるばかりでなく、原型でもあるのである。

このようにその最初の約束の言葉がまた最も包括的で最も深い約束の言葉でもあった。この言葉のなかに救拯史全体と、その順序とが秘められている。「一般的で、不定で、その太古のごとく漠然と、神秘的な宮殿の残墟の前に立つ厳かなスフィンクスのように、この最初の約束の言葉は、くすしく聖く失われた楽園の入口に立つ。遠からずしてイスラエルの預言のなかで、この約束の言葉の解決が明らかになり始める。われわれすべてのために蛇の頭を砕くために、われわれすべてに代わって蛇にかかとをかまれた処女マリヤの子、かれがはじめてこのスフィンクスの謎を解いた。それは聖徒にとっても預言者にとってもときがたい謎であったのである(マタイ伝13・17、ペテロ前書1・10〜12)。かれはこの謎を成就して、これを解いたのである。約束の絶頂—インマヌエルかれ自身—のみが、約束の意味の内容を明らかにしたのである。「新約のみが旧約のこの象形文字を解く鍵である。福音のみが原始福音の解答である。」

(『世界の救いの黎明』92〜93頁より引用。引用にあたっては一部ことばを変えたところがある。たとえば「子孫」とあるところは原翻訳では「苗裔(すえ) 」とある。)

2013年12月18日水曜日

永遠者を尋ねて

京都市美術館 2013.11.29 by N.Y
「永遠者について尋ねる人が幸福なのではない、永遠者尋ねる人が幸福なのである。」

世界の創造・救い・完成、これら三つの問題はさながら三つの際立った崇高な象形文字であるかのように、人類の精神史のなかに示されている。かつてどの民族も、これらの問題の前を不注意に素通りしたことがない。それどころか、あらゆる時代の最も偉大な人々が、これらの問題を解こうと努力して来た。

しかし解答は多種多様であり、矛盾したものでもあり、しばしば全く不可解なものでもあった。あとからあとからと、思想体系が考え出され、あとからあとからと、宇宙創成論は現われた。一人の人の思想や論説が倒れ去った廃墟の上に、他の人が自分の思想構造を建設する。そして今日でも人間はまだ、その精神の全精力を挙げて、解答を得るために苦闘している。

しかも、解答はすでに、あったのである。神御自身がそれを明確に与えられたのである。神の永遠の思いは決して、地上のすべての事柄の成り行きとかけ離れて流れていく単なる「観念」ではなく、創造的な行為であって、それは同時にすべての歴史のうちに直接結合し、歴史にしっかりと深く織り込まれており、すべての歴史の「なかに、と共に、下に」よく現われている。「あらゆる時代の歴史は人類の歴史である、そして人類の進歩は—神の歴史である。」

しかし神の与えたもう解答は、彼自身である。彼の御子のペルソナにおける彼御自身の存在である。永遠の「主」として、御子は、全宇宙におけるすべての神の啓示の中心であり、太陽である。

万物は神に由来する。ここに過去の原始すなわち、世界創造の本質が顕われている(コロサイ1・16、ヨハネ伝1・3)。

万物は神によって完成される。これが現在の問題、すなわち世界の救いの過程を、説明する(ロマ書11・36)。

万物は神に帰ろうとしている。ここにすべての未来の目標、すなわち世界の完成の本質的性格が、顕われている(コリント前書15・28)。

このように、キリストにおいて啓示された主なる神は、あらゆる時代の磐であり、あらゆる存在の人格的な、生ける第一の基礎である。

しかし、永遠の言は語られた言を通して啓示され、語られた言は書かれた言となり、書かれた言は聖書となった。かくて、聖書は世界の出来事を解く鍵であり、人類の書であり、歴史の唯一の書である。

それゆえに、すべてはこの書を理解することに懸かっている。聖書なしでは、全く光のない地下牢のなかで手探りで廻っているのにすぎない。しかし聖書の光の臨む人には太陽が、天とその栄光の輝きをともなって臨むのである。その人の歩む途には光明が射し、その人の生活は光となり、時は変貌して、神のものが勝ち、こうしてその人は「今が永遠である」というあの偉大な言葉をますます理解するようになる。

(『世界の救いの黎明』エーリッヒ・ザウアー著聖書図書刊行会1955年刊行、序より引用。ペテロは言っている。「私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです」2ペテロ1・19。一方ソロモンは「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」伝道3・11と言った。ザウアーの最後の数節を読みながら、このふたつの聖書のみことばを想起した。)

2013年12月9日月曜日

東京三六会

滋賀・西明寺 2013.11.30 by N.Y
先週の土曜日は卒業した高校の同期会に二年ぶりに出席した。卒業年次昭和36年にかこつけて「東京三六(さぶろく)会」※と名づけるこの会は、丸の内の某所で毎年12月の第一土曜日に東京在住者を中心に近辺に住む者が集まることになっている。今年は通算で30回目であったが、男子25名女子6名が集まった。私自身は過去5、6回ほど参加したに過ぎないから、あまり熱心な参加者とは言えないが、それでも常連の人たちが皆暖かく迎えてくださるのでありがたい。

このような集まりがどのようにされているのか寡聞にして知らないが、多分そんなに大差はないのではないか。配膳された寿司などを一緒につまみ酒を汲み交わし、互いに旧交をあたためあうのがその要諦ではないか。古希を迎えただけに恐らく30年前と異なり、酒量も減り皆穏やかになってきているのではないだろうか。いつもは元気なM氏が病気のため欠席だからなおさらのことだった。

幹事役が二名で会費徴収と司会進行役をつとめられる。終始落ち着いた雰囲気で会は進行する。この日は幹事の願いを受けて一人の方によるレジメを使っての「道中記」(「めいぶつの くうが無筆の 道中記」)の「講義」があった。江戸時代にはこのような日記がたくさん物されたようだ。当時の各地方の町人たち(昭島、鶴岡、熊谷、安中、世田谷)がお伊勢参りなどを目的に日本国内を歩き回っての見聞記録は一つ一つ興味があった。その中でも焦点は近江路にあったので、東京くんだりに居て、ふるさとを通過された古人の足跡を想うことは、同期会でタイムトンネルをくぐり抜け青春に帰る所作に通じて不思議な感慨を覚えた。

そのあと参加者が与えられた一人二分の持ち時間を利用してこもごも互いの近況報告を皆の前でマイク片手にする時が来た。これがメインイベントであろう。二分などとっくにオーバーして司会者をひやひやさせる御仁もいるにはいるがそこは大目に見て会は進む。 ほとんどの人がリタイアしているので仕事の話はなく、病気や趣味の話が中心であったように思う。私も三、四人目に順番がまわってきて話をしたが他愛もない話になった。幸い座について落ち着いて他の方の話に耳を傾けることができた。後半の方で一人の方が、今年は初めて病気になって入院し、心細さを覚え、人生について真剣に考えるようになりました。大学はミッションでしたが、神様を「礼拝」することなどについて考えて見たい心境になりました、という意味のことを話された。

内心驚いた。私はこの同期会に出席するにあたって、「主を求める方に出会わせてください」と祈っていたからである。31人で都合三時間余りではお互いに交流を深めることは不可能だが、古希を迎えて忍び寄る死、限りない生を思うから、若いころと違ってどなたのどんな一言も傾聴するに価すると思った。しかし、私自身としては主イエス・キリストについて旧友に個人的に語る機会はついぞ与えられず、不満を残したままの帰宅となった。家に帰り、今回は病で出席することの出来なかった京都在住のいとこに早速電話で見舞いを兼ね、会の様子を少し報告できたのが、責めてもの慰めとなった。

一日経ち、果たして、私はこのような同期会に出席する意義があるのかと考えざるを得なかった。ついでながら今の話とは矛盾するが、私は来年の幹事をもうひとりの方と引き受けることになった。しかも片割れは同姓同名の方であった。入学の呼名の時、私が並んでいるクラスに来る二、三クラス前に、私の名前が呼ばれ、名前を呼ばれて立った人がいた。その人が立つまでは自分はそそっかしいから列を間違えたのかと思いもしたし、それともほんとうに合格したのだろうかと自分の呼名がなされるまでは心が落ち着かなかった記憶がある。結果は姓名のまったく同音の方がもうひとりいたのだ。高校在学中はその方とは一緒にならなかったのでどんな方か知らなかったが、まさかその方と来年の幹事をすることになるとは。だから元々意義があるやなしやの次元の話ではないのだが・・・。

しかし、昨日の日曜日の福音集会で一人の方のメッセージをお聞きするうちに、私が同期会を軽視しようとしている考え方が間違っていることに気づかされたのである。諄々と語られるメッセンジャーはもちろん私の土曜日の同期会出席のことなど皆目ご存じないのは言うまでもない。しかし、まるで私が心の中で同期会出席の是非を求めて煩悶していることを諭すかのように静かに語られたのであった。その方のメッセージの中で「人は人として知らなければならない大切なものを知らなければ真の心の安息を得られない」という意味のことをしきりと語られていたからである。

人は同期会になぜ集まるのだろうか。それは少しでも互いが生きていることを励まし合いたいのではないだろうか。そしてその心の希求するところは真の生き甲斐を求めてのことではないだろうか。だとすれば、私はそれらの方々に直接主イエス様のことを伝えられないからと言ってどうして忌避する理由があるのだろうかと思わされたからである。

そのメッセンジャーの方は臨終を迎えた一人の若い女性のことを紹介してくださった。彼女は死を前にした全くの孤独の中で、病室の窓外にたたずむ裸木ではあるが生きているマロニエの木を見つけ、「わたしはここにいるよ」という声、「永遠のいのち」の語りかけを聞いたと言うことだった。「こんなひどい運命に会わせた運命に感謝しています」とも彼女は語ったということであった。同期会のつぶやきこそ、主イエス様ご自身が一番聞いておられる人間の悲痛な叫びでないだろうか。だとしたら、私のような罪赦された罪人がどうして忌避する理由があるのだろうか。来年は幹事として備えたい。そう言えば、現幹事の一人は別れ際、私への引き継ぎを念頭においてであろう、「キリストの精神でやってくれるんだろうな。ちゃんとやってよ!」と言い置き、足早に立ち去って行った。

最後に昨日のメッセンジャーがメッセージの中で引用された聖句の一つを以下に掲げておこう。

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119・71)

(※どこかで書いたように思ったら、このブログですでに書いていた。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2010/12/blog-post_08.html

2013年12月7日土曜日

備えあれば憂いなし(下)

イエス様の「再臨」の日のカーテンの後ろにわれわれの信仰の現われがあります。イエス様はわれわれに見えるようになるのです。私たちはイエス様はすべてのもののすべてであるという目標を持っています。

イエス様のこの「再臨」の日は、われわれの生活におけるもっとも大きなたいせつな日です。ですから、私たちの生活にとって、この日が力強い原動力となるべきです。イエス様の「再臨」はわれわれに道を示してくれます。この目標の偉大さが考えられないほど重要なのであります。私たちがあらゆる認識を信仰の中にはっきりと自分のものとすれば、その認識がわれわれの生活に意味を持ち、役に立ちます。すなわちイエス様の将来、私たちのイエスと会う日(が)、信仰によって自分のものとならなければならない。「再臨」の日が自分にとって事実とならなければなりません。そして、この事実がわれわれの日ごとの生活に役割を演ずるのです。もしもイエス様と会うことに向かって急ぎたいならば、私たちはイエス様のものとならなければならない。なぜなら、イエスに属する者だけがその日に空で主と会うようになるからです。

パウロはロマ書の中で、8章9節

キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

ですから、キリスト教に入ることによって、ある教会の会員によって救われるのではない。キリストの御霊を持たない者はキリストのものではない。結局、聖霊の宿になることがまことの救いそのものである。パウロは書いたのであります。同じく5章5節

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

「私たちに与えられた聖霊 」これこそもっともたいせつなのではないでしょうか。コリント第一の手紙の12章、主な内容とは結局、教会とは人間の造ったものではなく、イエス様のからだのものです。イエス様はかしらであり、このかしらとつながっている者は本当の教会です、12章の13節。

私たちはみな、・・・一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

と、あります。イエス様の「再臨」は、イエス様の死と復活と五旬節と実に密接なつながりがあります。私たちがこれらすべての救いのための事実を自分のものとすれば、私たちは「再臨」の日に燃えることのない金や銀となって耐え通すことができます。イエス様の十字架においてイエス様とともに変えられた者がイエス様に属するのです。私たちはイエス様に、われわれ自身より、われわれの持てるものすべてを、われわれの罪、悩み、病、困難などすべてをささげるのです。するとイエス様はそれらすべてを受け取り、われわれの罪の結果を担ってくださるのです。すなわち、その現われは十字架の死です。けども私たちがイエス様を、主のいのちを、そしてイエス様が持っておられるすべてのものを、すなわち、罪の赦し、イエス様の義、また主のいのちを受け取るのです。いのちのやりとり、それは完全にお互いに与え合うことです。イエス様はわれわれの罪の罰を十字架で担い、イエス様のよみがえりのゆえに、主のいのちはわれわれのうちによみがえっているのです。これが信ずる者の一番たいせつな経験です。すなわち、イエス様がわれわれの救い主となり、私たちがイエス様のからだの肢体となるのです。

イエス様は信ずる者すべてに与える聖霊によってわれわれのうちに生きておられます。私たちはこの最初の経験を体験的に知っているでしょうか。イエス様の「再臨」の日を考えると、もっともたいせつな、そして個人的な質問がそこにあります。すなわち、私はほんとうに永遠のいのちを持っているのでしょうか。私たちはイエス様をわれわれの救い主としてほんとうの意味で経験しているのでしょうか。

もし誰かが、ある若い娘さんに「あなたは結納を済ませましたか」と尋ねれば、その娘さんは「ハイ」または「イイエ 」と答えることができます。けど彼女があなたに「そんなことがどうしてわかりましょうか」と答えたら、あなたは何かおかしいと思うのではないかと思います。これと同じように主のものであるかどうか、または今日からイエス様のものになりたいなのかどうか、人々は本当にはっきりと確かに知ることができます。この決定をする者がイエス様に属し、その時からイエス様とともに歩むのであり、その人のいのちは全く新しい内容、すなわちイエス様は私たちのいのちであるということを知るのです。もし私たちがこの最初の経験をしたのなら、イエス様はわれわれに新しい歩みのために、奉仕するために必要な力を必ず与えてくださいます。

イエス様は五旬節の時、弟子たちに与えられた力、また装備をわれわれにも与えたいのです。聖書は簡単に言っています、「一同は聖霊に満たされた」(使徒2・4)と。この装備なしには私たちはその「再臨」の日に主の前に耐えることが出来るような生活をすることがもちろんできません。聖霊の力なしにはだれも聖霊による生活を送ることはできない。 すなわちイエス様の光に耐えたいと思う者は聖霊に満たされなければなりません。

私たちが自分の生活に聖霊がつく貢献をいかに十分持っているか※、また私たちが聖霊は主であるとどれだけ良く知っているか否かはわれわれの意志の決定にかかっています。もし私たちが聖霊にわれわれのすべてをささげるならば、聖霊はすべてを受け取り、私たちを完全に満たします。もし私たちが本当に主イエス様のものであるならば、聖霊は私たちのうちに宿っているはずです。その私たちのうちに住まれる聖霊の第一の働きの結果は、聖霊が私たちをイエス様とのより深い交わりに導くということです。

聖霊はわれわれを祈りに追いやります。聖霊は私たちに主の前にあって正しい道を指し示すのです。聖霊はただ一つの願い、すなわち、私たちがより良く、より深くイエス様を知るという要求を持っています。聖霊に満たされている人々は、平安を好む人々であり、祈りの人です。聖霊は信者をイエス様の姿に立ち帰らせるという大きな使命を成し遂げるために(働いてくださいますが、私たちにとって)主の前に過ごす時間が何と必要なことでありましょうか。ヨハネは簡単に当時の信ずる者を励ましたのです。

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(1ヨハネ3・3)

もう一ヵ所読んで終わります。コロサイ書3章の3節と4節、360頁です。

あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(コロサイ3・3〜4、1〜2)

イエス様は近い。来られます。 このことばこそ初代教会にとって考えられないほどたいせつでした。「イエス様はすぐ来る」このことばは口から口へ語り伝えられ、そしてこのことばは当時の証し人たちに迫害の最中において絶えず力を与え、喜んで死の旅路につかせたのでした。彼らは欺かれたのでしょうか。それとも彼らは空しく待っていたのでしょうか。イエス様が「わたしは再び来る、しかしその時と場合は父が定めておられる」と語られましたから(そんなことはありません)。と言うのも、このことばは生き生きとした信仰の本質をなすものであり、イエス様の「再臨」の事実が目の前に生き生きと認められるのです。すなわち多分今日かも知れない。「再臨」を待ち望むことこそが考えられないたいせつなのではないでしょうか。思い煩い、心配、恐怖、孤独から解放されるからです。その時は近い、と主は呼びかけておられます。イエス様はすぐ来られるという事実を信じましょう。

(※この箇所は何度聞いてもそのようにしか聞こえないが、日本語としてはわかりにくい表現になっている。前後関係から類推するに「私たちが聖霊に支配されるために自分をどれだけ明け渡しているか」という意味でないかと推察する。次回の家庭集会は来年の1月15日午後2時からです。)

2013年12月6日金曜日

備えあれば憂いなし(中)

イエス様のからだの肢体である者が確実に明らかになります。 パウロはエペソにいる兄弟姉妹に書いたのです。ひと文章だけですが、エペソ5章の30節(です。)

私たちはキリストのからだの部分だからです。

有機的に主と結びついているのです。イエス様は信者たちを呼び、そして彼らはイエス様の方に向かって急ぎます。すなわち、墓場から、海から、または信ずる者のからだのある所どこからも、信ずる者のからだはこの偉大な第一の復活の日をともに祝うためによみがえるようになります。また、その日にこの地上に永遠のいのちを持っている救われた人々は特別な特権を持っています。すなわち彼らは死を見ず、墓を知らないのです。すなわち彼らは一瞬にして変えられ、一瞬にしてよみがえりのからだを得るのです。

すべての本当に救われた人々のために、その救われた人々がその日に死んだにしろ生きる者に数えられるにしろ、この日は死に対する勝利です。救われた人々は新しいからだをもって、会うようになります。このからだとはイエス様がよみがえりの日に身につけたと全く同じよみがえりのからだです。この事実について、いわゆるよみがえりの書に書かれています。よみがえりの書とはコリント第一の手紙15章なのではないかと思います。311頁です。コリント第一の手紙、先ず15章23節

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。 

それから、51節52節

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、・・・一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

とあります。その日にはまた多くのことが起こります。私たちがキリストにあったということが明らかになります。そしてキリストにおける新しく造られた者は一瞬にして完全になると聖書は言っています。よく引用される箇所ですけど、428頁です。ヨハネ第一の手紙、428頁、3章の2節。

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

なお私たちの身についている全ての汚いものは清めをし、私たちのうちにあるイエス様はすばらしき形のうちに姿をあらわされるのです。その時、次のことばは全く完成されます。すなわち『古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなった』(2コリント5・17)蝶々がさなぎを脱ぎ捨て、つばさを広げると同様に、古きものはわれわれの中から取り去られ、そこにはただ新しいものがあるのです。この瞬間に、すなわちこの世でもっとも大きな悩みであったわれわれのうちにある罪がもはやなくなるとき、そして罪の因(もと)、すなわちわれわれの生活の最も深い悩みであるその因(もと)がなくなるとき、すべてが新しくなり変わり、われわれの願いは完全に満たされるのです。しかし、その偉大な日には、私たちの全生活もまたイエス様の光の前に現われるのです。心の中にイエス様の姿を宿している救われた一人一人は主の恵みの座の前に立つようになります。

パウロはこの事実についてコリント第二の手紙の中で次のように書いたのであります。コリント第二の手紙の5章、320頁です。5章の10節です。

私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。 

と。聖書には二つのさばきがありますが、これは栄光か、または破滅かを決定するさばきではありません。その日、この世における一人一人の救われた者の生活・働きが主の火によって明らかにされるのです。すなわち信ずる者の行なった結果によってイエス様は救われた人々に報酬、報償、王冠を分け与えるのです。コリント第一の手紙の中でパウロはこの区別について次のように書いたのです。結局二種類の信ずる者がある、239頁ですね。コリント第一の手紙3章11節から15節までお読み致します。

というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

その火がわれわれの生活を明らかにします。すなわち聖い火が、金・銀・宝石と木、枯れ草、わら、すなわちイエス様から出たものか、または自分から出たものかを明らかにするのです。失われるいのちは何と悔やまれることか、それは取り返すことができません。永遠の実を結んだいのち、これは大きな喜びであり、勝利です。もしそのとき、主はわれわれに次のように言うことができれば本当に幸いです。マタイ25章の21節。

その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

世の中の人々の目に大きく映り、そして多分信ずる者たちの前にも大きく見られる多くの人々は彼らの生活が木や枯れ草やわらのように火の中に消えるでしょう。それとは反対に人々から忘れられ、隠れた生活をした人々、そして信ずる者同士に語られなかった多くの人々は金(きん)を与えられるでしょう。われわれの生活に何が残るのでしょうか。私たちは本当にイエス様から出てイエス様のために生活したか、それとも自分から自分のために生活したか、どちらかでしょう。その火がそれを明らかにします。その日は真の救われた人々にとってすばらしい日です。聖書はそのすばらしさを表現するためにただひとつのことばで表現しています。すなわち、「栄光」ということばです。コリント第一の手紙2章9節を見ると次のように書かれています。292頁ですね。コリント第一の手紙2章9節。

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

とあります。「栄光」ということばはロマ書8章の18節に出てきます。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

大いに悩んだ、何回も刑務所に入れられたパウロの告白です。今の時のわれわれの悩みはいかに重く深いことでしょう。しかし、この「栄光」はそれに比べると限りなく大きなものであり、この世の苦しみは将来の栄光に比べると言うに足りないとパウロは経験したから当時の信ずる者を励ましたでしょう。また13章ですね。ロマ書13章。パウロは結局今覚めるべき時刻だよと書いたのであります。13章11節から

あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

(今日のメッセージの後半に非常に印象的な言い回しがなされていることに読者は気づかれることでしょう。そしてこのように語れるということは、この方がいかに主の前に小さく小さくなっておられる存在であるかがわかるというものではないでしょうか。その秘訣はどこにあるのでしょうか。明日もこの項は続きます。ご期待ください。)

2013年12月5日木曜日

備えあれば憂いなし(上)

引用聖句 マタイ25章1〜13節

今お読みいただいた最後の13節「目を覚ましていなさい」、これこそが単なる提案ではなく、命令です。そして、われわれが覚えるべきは「もうちょっとで、イエス様が来られる」なのではないでしょうか。


ヘブル書の著者は書いたのです。ヘブル書9章28節

キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

とあります。また10章37節

もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。

とあります。「頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」と、ルカ伝の中でも言っています。イエス様を知るようになった人々は確かに輝くすばらしい将来を持っています。イエス様は彼らにとって道であり、真理であり、またいのちであるからです。イエス様なしの将来は真っ暗闇です。イエス様を知るようになった者は悩みながら喜ぶことができます。なぜなら、彼らは知って確信しているからです。すなわち、もうちょっとでイエス様はお出でになります。そして今日かも知れないと考えると嬉しくなります。どういう状況に置かれても、どういう問題があっても、私たちは希望を持って将来に向かうことができるのです。

今の世を見てもはっきり言えることとは、今の世界の歴史の夜の時と言えるのでないでしょうか。真っ暗な夜の時に向かって歩いています。 毎日のニュースを聞くと、今の世界を見ると、良くなる可能性はないと、誰でも認めざるを得ません。けれども、次の世界の大きな出来事は「再臨」です。すなわちイエス様の日です。すなわちイエス様は雲に乗って再びお出でになり、主の恵みによって救われた人々を再びご自身のもとに引き寄せ、空で彼らにお会いになる、その日のできごとです。聖書は将来のこの偉大な出来事について多くのことを言っています。いわゆる「空中再臨」のことを考えると、恐らく誰でもテサロニケの第一の手紙4章を覚えるのではないでしょうか。366頁になります。テサロニケの第一の手紙4章13節から。パウロはどうしてテサロニケの兄弟姉妹にこの箇所を書いたか。必要だったからです。彼らもいろんなことで悩んだり、どうして、なぜ?と考えた人々がいます。答えとしてパウロは書いたのです。13節から

眠った(すでに死んだ)人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(1テサロニケ4・13〜18)

この箇所に三つの事実が明らかにされていますね。第一番目、イエス様ご自身が天から再びお出でになる、ということです。二番目、イエス様にあって死んだ人々のからだがよみがえる、ということです。三番目、それから生き残っている主の恵みによって救われた一人一人が変えられ、よみがえった主のものになった人々とともに雲の中で主イエス様に会う、ということです。

イエス様はお出になります。私たちも準備をしなければなりません。もし準備がなければあとで後悔します。将来に備えるために、私たちは将来のことをもちろん知らなければなりません。イエス様の再臨の日は、大きな啓示の日です。すなわち第一番目、イエス様が信ずる者の前に姿を現される日です。二番目、イエス様に属する者がイエス様の前に姿を現わす日です。私たちはイエス様のまことの姿を見るのです。それは想像できない、すばらしい瞬間です。イエス様のまことの姿を見るということは考えられないことでしょう。目に見えない方は、その覆いを脱ぎ捨て、イエス様はわれわれの目の前に、深い愛と聖さに包まれて、またこの上もなく力強い神聖さと栄光に包まれて立たれるのです。マタイ伝17章1節に、三人の弟子は主の栄光を見たのである、とありますね。17章1節、2節。

それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

この山の上におけるイエス様の変容は来たるべき日に私たちが見るであろうところのものの単なる予感に過ぎません。イエス様は昇天なさったとき、弟子たちはすばらしい約束を聞くようになりました。使徒行伝の1章11節

「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」 

とあります。イエス様が再び来られます。この日は主が昇天された日と全く同様に確かであり、事実であり、歴史的な真実です。イエス様はあのとき、信者たちの目の前で消えたと同じように、現われます。けれども、「再臨」の日は信者たちの前にイエス様が姿を現す日だけではなく、今話したように、二番目、イエス様の前に信ずる者が現われる日でもあります。その日には本当に信じていた人々、すなわちイエス様との有機的な結びつきを持っていた者が明らかにされます。ただ口で『主よ、主よ。』と言っているなのか、あるいは本当にイエス様に、恵みによって救われ、永遠のいのちを持つようになったかが明らかになります。 次の二ヵ所を読むと分かります。両方とも厳しい箇所です。マタイ伝25章22節23節ですね。48頁。

二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 

本当にすばらしい褒め言葉なのでないでしょうか。今度はね、マタイ伝7章。全く逆のことが書いています。マタイ伝7章の21節から23節まで、お読み致します。

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 

マタイ伝25章に出てくる五人の愚かなおとめと五人の思慮深いおとめの二つに分けられる、この大きな決定が行なわれるのです。この愚かなおとめたちはランプ、形式、外部の容れ物を持っていますが、彼女たちは油と中味と真のいのちを持っていなかったのです。すなわち、彼女たちはみことばを聞き、祈り、聖書も読みますけど、形だけだったのです。しかし思慮深いおとめたちは油、すなわち聖霊とまことのいのちそのものを、形もふくめて持っていました。その日は、愚か者と思慮深い者を分かち、その一方は「わたしはおまえたちを知らない」と言われ、もう一方は「お入りなさい」と言われるのです。

(昨日の家庭集会のベック兄のメッセージの聞き書きである。冒頭でベック兄は今日のメッセージの題名は「主の再臨と私たち」と言われ、他の題名としては「用意ができているの?」「備えあれば憂いなし」「愚かか賢いかのどちらか」が考えられると言われた。ここでは敢えて三番目の題を採用させていただいた。)