2013年12月23日月曜日

飼葉おけのイエスさま

クリスマスものがたりから ホフマン画
ベットがないので、飼葉おけの中で、
小さいイエスさまは、かわいい顔して寝ている。
晴れた空から、お星が見下ろすと、
小さいイエスさまは、まぐさの中で寝ている。(一節)

牛がモーとないて、赤ちゃんは目を覚ますが、
小さいイエスさまは泣かない。
わたしはイエスさまが大好き!
空から見下ろして、わたしの揺りかごのそばに、朝になるまでいてください。(二節)

現在、教会学校や礼拝で普通に行なわれている会衆による賛美が、どのような変遷をたどって今日に至ったかについては興味深い物語がある。四百年余り前までは、一般会衆はいかなる礼拝でも歌うことは決してなかった。音楽は司祭と特に選ばれた聖歌隊だけが演奏した。それどころか、歌だけでなく、礼拝は始めから終わりまで、会衆の大部分には全く意味のわからないラテン語がもっぱら用いられていた。

ヨーロッパにおける宗教改革と同時に、幾つかの日常語による賛美歌が礼拝用に作られた。しかし、一般会衆の賛美を推進し、またそれに表現力を与えるためには、才能に富んだ指導者マルティン・ルターの出現を待たなければならない。宗教改革の著名な指導者となったルターは、1483年貧しい鉱夫の子として、ハルツ山脈のふもとのアイスレーベンで生まれた、彼は音楽に天賦の才能を持ち、優れた声楽家であっただけでなく、自分でもフルートやリュートを演奏した。

フランシスコ会修道院の修道院付属の学校の生徒であった時、たびたび金持ちの家の窓の下で美しい声で歌い、施しを得ては貧しい人たちに分け与えた。クリスマスの季節には、友人といっしょにキャロルを歌いながら、近くの村々を回ったこともある。ルターにとっては、音楽は神の賜物であり、恵みであり、悪魔を追い払い、すべての人に怒りを忘れさせるものであった。

したがって、後年ルターが会衆賛美の奨励に最大の関心を示したのは当然のことである。「歌によっても、人々の間に神のみことばが定着するために、私は賛美歌を作りたいと考えている」と彼は語った。人々は自国語の聖書と同じように自国語の賛美歌を持ち、「神のみことばを読み、自分たちの歌によって神に語りかける」ことができるようになった。礼拝はもはやラテン語ではなく、一般民衆のことばによるようになったのである。

最初の賛美歌集は、ウイッテンベルクで1524年に出版された。載せられたのはわずか八曲だけで、そのうち四曲はルター自身の作品であった。小冊子ではあったが、民衆の要望に答えて、華々しい売れ行きを示した。

ひとたびルターの詩的才能が開かれると、後は堰を切った水のように次々と新しい賛美歌が誕生したので、世人は彼のことを「ウイッテンベルクのナイチンゲール」と呼ぶようになった。最初の賛美歌集が出版されてから二十年も経たぬうちに、少なくとも百十七冊がルターとその仲間によって出版され、ドイツは文字どおりの「歌の海」となった。このようにして、偉大な改革者は会衆賛美の父としても知られるようになり、彼の指導の下に急速に普及していった。1529年ごろに書かれた、かの有名な賛美歌「御神は城なり」(聖歌233番、賛美歌では267番「神はわがやぐら」)は、詩篇46篇から霊感を得たもので、今なお傑作の一つとされている。

ルターはまた、子どもにも彼の心を伝えようとして、子ども用に楽しい曲と、これにあった魅力的な歌詞を作った。最も優れたものの一つは、「わたしの心よ」(聖歌666番)と題するものである。世界中の子どもが喜びをもって久しく歌ってきたあの短い子守歌「飼葉のおけですやすや」は、息子のハンスのために1530年のクリスマス祝会用に書かれたものであろうと考えられている。この歌は、飼葉おけの中の御子イエスを実にやさしく、美しく描いているではないか。そして第三節は、私たちがいっしょに学び、いっしょに祈りたいと願う、主への祈りなのである。

どうかイエスさま、わたしのそばにいてください。
いつまでもそばにいて、わたしをかわいがってください。
どうかみんなの子どもをやさしく守って
わたしたちが天国で、
あなたのそばに行けるようにしてください。(三節)

(『賛美歌物語』セシリア・M・ルーディン著安部赳夫訳7〜10頁より引用、少し訳を省かせていただいたところもある。この賛美の曲は様々な形で聞くことができるが、私個人としてはhttp://www.youtube.com/watch?v=rLTvaw7lnIg が、落ち着いていて原歌詞のイメージに忠実だと思った。)

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