2013年12月5日木曜日

備えあれば憂いなし(上)

引用聖句 マタイ25章1〜13節

今お読みいただいた最後の13節「目を覚ましていなさい」、これこそが単なる提案ではなく、命令です。そして、われわれが覚えるべきは「もうちょっとで、イエス様が来られる」なのではないでしょうか。


ヘブル書の著者は書いたのです。ヘブル書9章28節

キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

とあります。また10章37節

もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。

とあります。「頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」と、ルカ伝の中でも言っています。イエス様を知るようになった人々は確かに輝くすばらしい将来を持っています。イエス様は彼らにとって道であり、真理であり、またいのちであるからです。イエス様なしの将来は真っ暗闇です。イエス様を知るようになった者は悩みながら喜ぶことができます。なぜなら、彼らは知って確信しているからです。すなわち、もうちょっとでイエス様はお出でになります。そして今日かも知れないと考えると嬉しくなります。どういう状況に置かれても、どういう問題があっても、私たちは希望を持って将来に向かうことができるのです。

今の世を見てもはっきり言えることとは、今の世界の歴史の夜の時と言えるのでないでしょうか。真っ暗な夜の時に向かって歩いています。 毎日のニュースを聞くと、今の世界を見ると、良くなる可能性はないと、誰でも認めざるを得ません。けれども、次の世界の大きな出来事は「再臨」です。すなわちイエス様の日です。すなわちイエス様は雲に乗って再びお出でになり、主の恵みによって救われた人々を再びご自身のもとに引き寄せ、空で彼らにお会いになる、その日のできごとです。聖書は将来のこの偉大な出来事について多くのことを言っています。いわゆる「空中再臨」のことを考えると、恐らく誰でもテサロニケの第一の手紙4章を覚えるのではないでしょうか。366頁になります。テサロニケの第一の手紙4章13節から。パウロはどうしてテサロニケの兄弟姉妹にこの箇所を書いたか。必要だったからです。彼らもいろんなことで悩んだり、どうして、なぜ?と考えた人々がいます。答えとしてパウロは書いたのです。13節から

眠った(すでに死んだ)人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(1テサロニケ4・13〜18)

この箇所に三つの事実が明らかにされていますね。第一番目、イエス様ご自身が天から再びお出でになる、ということです。二番目、イエス様にあって死んだ人々のからだがよみがえる、ということです。三番目、それから生き残っている主の恵みによって救われた一人一人が変えられ、よみがえった主のものになった人々とともに雲の中で主イエス様に会う、ということです。

イエス様はお出になります。私たちも準備をしなければなりません。もし準備がなければあとで後悔します。将来に備えるために、私たちは将来のことをもちろん知らなければなりません。イエス様の再臨の日は、大きな啓示の日です。すなわち第一番目、イエス様が信ずる者の前に姿を現される日です。二番目、イエス様に属する者がイエス様の前に姿を現わす日です。私たちはイエス様のまことの姿を見るのです。それは想像できない、すばらしい瞬間です。イエス様のまことの姿を見るということは考えられないことでしょう。目に見えない方は、その覆いを脱ぎ捨て、イエス様はわれわれの目の前に、深い愛と聖さに包まれて、またこの上もなく力強い神聖さと栄光に包まれて立たれるのです。マタイ伝17章1節に、三人の弟子は主の栄光を見たのである、とありますね。17章1節、2節。

それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

この山の上におけるイエス様の変容は来たるべき日に私たちが見るであろうところのものの単なる予感に過ぎません。イエス様は昇天なさったとき、弟子たちはすばらしい約束を聞くようになりました。使徒行伝の1章11節

「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」 

とあります。イエス様が再び来られます。この日は主が昇天された日と全く同様に確かであり、事実であり、歴史的な真実です。イエス様はあのとき、信者たちの目の前で消えたと同じように、現われます。けれども、「再臨」の日は信者たちの前にイエス様が姿を現す日だけではなく、今話したように、二番目、イエス様の前に信ずる者が現われる日でもあります。その日には本当に信じていた人々、すなわちイエス様との有機的な結びつきを持っていた者が明らかにされます。ただ口で『主よ、主よ。』と言っているなのか、あるいは本当にイエス様に、恵みによって救われ、永遠のいのちを持つようになったかが明らかになります。 次の二ヵ所を読むと分かります。両方とも厳しい箇所です。マタイ伝25章22節23節ですね。48頁。

二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 

本当にすばらしい褒め言葉なのでないでしょうか。今度はね、マタイ伝7章。全く逆のことが書いています。マタイ伝7章の21節から23節まで、お読み致します。

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 

マタイ伝25章に出てくる五人の愚かなおとめと五人の思慮深いおとめの二つに分けられる、この大きな決定が行なわれるのです。この愚かなおとめたちはランプ、形式、外部の容れ物を持っていますが、彼女たちは油と中味と真のいのちを持っていなかったのです。すなわち、彼女たちはみことばを聞き、祈り、聖書も読みますけど、形だけだったのです。しかし思慮深いおとめたちは油、すなわち聖霊とまことのいのちそのものを、形もふくめて持っていました。その日は、愚か者と思慮深い者を分かち、その一方は「わたしはおまえたちを知らない」と言われ、もう一方は「お入りなさい」と言われるのです。

(昨日の家庭集会のベック兄のメッセージの聞き書きである。冒頭でベック兄は今日のメッセージの題名は「主の再臨と私たち」と言われ、他の題名としては「用意ができているの?」「備えあれば憂いなし」「愚かか賢いかのどちらか」が考えられると言われた。ここでは敢えて三番目の題を採用させていただいた。)

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