2013年12月6日金曜日

備えあれば憂いなし(中)

イエス様のからだの肢体である者が確実に明らかになります。 パウロはエペソにいる兄弟姉妹に書いたのです。ひと文章だけですが、エペソ5章の30節(です。)

私たちはキリストのからだの部分だからです。

有機的に主と結びついているのです。イエス様は信者たちを呼び、そして彼らはイエス様の方に向かって急ぎます。すなわち、墓場から、海から、または信ずる者のからだのある所どこからも、信ずる者のからだはこの偉大な第一の復活の日をともに祝うためによみがえるようになります。また、その日にこの地上に永遠のいのちを持っている救われた人々は特別な特権を持っています。すなわち彼らは死を見ず、墓を知らないのです。すなわち彼らは一瞬にして変えられ、一瞬にしてよみがえりのからだを得るのです。

すべての本当に救われた人々のために、その救われた人々がその日に死んだにしろ生きる者に数えられるにしろ、この日は死に対する勝利です。救われた人々は新しいからだをもって、会うようになります。このからだとはイエス様がよみがえりの日に身につけたと全く同じよみがえりのからだです。この事実について、いわゆるよみがえりの書に書かれています。よみがえりの書とはコリント第一の手紙15章なのではないかと思います。311頁です。コリント第一の手紙、先ず15章23節

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。 

それから、51節52節

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、・・・一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

とあります。その日にはまた多くのことが起こります。私たちがキリストにあったということが明らかになります。そしてキリストにおける新しく造られた者は一瞬にして完全になると聖書は言っています。よく引用される箇所ですけど、428頁です。ヨハネ第一の手紙、428頁、3章の2節。

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

なお私たちの身についている全ての汚いものは清めをし、私たちのうちにあるイエス様はすばらしき形のうちに姿をあらわされるのです。その時、次のことばは全く完成されます。すなわち『古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなった』(2コリント5・17)蝶々がさなぎを脱ぎ捨て、つばさを広げると同様に、古きものはわれわれの中から取り去られ、そこにはただ新しいものがあるのです。この瞬間に、すなわちこの世でもっとも大きな悩みであったわれわれのうちにある罪がもはやなくなるとき、そして罪の因(もと)、すなわちわれわれの生活の最も深い悩みであるその因(もと)がなくなるとき、すべてが新しくなり変わり、われわれの願いは完全に満たされるのです。しかし、その偉大な日には、私たちの全生活もまたイエス様の光の前に現われるのです。心の中にイエス様の姿を宿している救われた一人一人は主の恵みの座の前に立つようになります。

パウロはこの事実についてコリント第二の手紙の中で次のように書いたのであります。コリント第二の手紙の5章、320頁です。5章の10節です。

私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。 

と。聖書には二つのさばきがありますが、これは栄光か、または破滅かを決定するさばきではありません。その日、この世における一人一人の救われた者の生活・働きが主の火によって明らかにされるのです。すなわち信ずる者の行なった結果によってイエス様は救われた人々に報酬、報償、王冠を分け与えるのです。コリント第一の手紙の中でパウロはこの区別について次のように書いたのです。結局二種類の信ずる者がある、239頁ですね。コリント第一の手紙3章11節から15節までお読み致します。

というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

その火がわれわれの生活を明らかにします。すなわち聖い火が、金・銀・宝石と木、枯れ草、わら、すなわちイエス様から出たものか、または自分から出たものかを明らかにするのです。失われるいのちは何と悔やまれることか、それは取り返すことができません。永遠の実を結んだいのち、これは大きな喜びであり、勝利です。もしそのとき、主はわれわれに次のように言うことができれば本当に幸いです。マタイ25章の21節。

その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

世の中の人々の目に大きく映り、そして多分信ずる者たちの前にも大きく見られる多くの人々は彼らの生活が木や枯れ草やわらのように火の中に消えるでしょう。それとは反対に人々から忘れられ、隠れた生活をした人々、そして信ずる者同士に語られなかった多くの人々は金(きん)を与えられるでしょう。われわれの生活に何が残るのでしょうか。私たちは本当にイエス様から出てイエス様のために生活したか、それとも自分から自分のために生活したか、どちらかでしょう。その火がそれを明らかにします。その日は真の救われた人々にとってすばらしい日です。聖書はそのすばらしさを表現するためにただひとつのことばで表現しています。すなわち、「栄光」ということばです。コリント第一の手紙2章9節を見ると次のように書かれています。292頁ですね。コリント第一の手紙2章9節。

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

とあります。「栄光」ということばはロマ書8章の18節に出てきます。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

大いに悩んだ、何回も刑務所に入れられたパウロの告白です。今の時のわれわれの悩みはいかに重く深いことでしょう。しかし、この「栄光」はそれに比べると限りなく大きなものであり、この世の苦しみは将来の栄光に比べると言うに足りないとパウロは経験したから当時の信ずる者を励ましたでしょう。また13章ですね。ロマ書13章。パウロは結局今覚めるべき時刻だよと書いたのであります。13章11節から

あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

(今日のメッセージの後半に非常に印象的な言い回しがなされていることに読者は気づかれることでしょう。そしてこのように語れるということは、この方がいかに主の前に小さく小さくなっておられる存在であるかがわかるというものではないでしょうか。その秘訣はどこにあるのでしょうか。明日もこの項は続きます。ご期待ください。)

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