2023年6月22日木曜日

近江八幡行きから教えられたこと(下)

 見事なり えのころぐさの 群れるさま(※1) 
 毎日曜日礼拝に出席する生活は、主の救いを受け入れてから、ずっと今日まで続いている。初めは、何で日曜日に礼拝しなければならないのだ、そんな不自由な生活は真っ平御免だと思っていたはずなのに、今ではそれを何とも思わない。むしろ当たり前の生活になっているから、不思議だ。

 しかし、礼拝の中身は、二十年間の「教会」生活のそれと、それ以後導かれた三十余年の「集会」生活の礼拝とでは大いに異なっている(※2)。

 教会時代は、あらかじめ決められた礼拝の「式次第」があり、それに則った礼拝であった。そして、礼拝の中心は牧師さんのメッセージであった。集う一人一人は牧師さんが解き明かしてくださる聖書の個所を通して、神様を礼拝する。だから牧師さんにとって一つも気が抜けない、真剣勝負のひとときだった。一週間に一度とは言え、大変な激務だと思わされた。それだけに牧師さんを尊敬し仕えていた。信徒は口を開けて牧師さんが解き明かしてくださる聖書のことばを、ありがたくいただく生活、受け身であれば良かったからである。

 ところが「集会」では、異なった。あらかじめ決められたプログラム(式次第)が一切なく、集った男性陣は主を信ずる「兄弟」と呼ばれ、それぞれの兄弟が(御霊なる神様から)示されたまま自由に、聖書の朗読と祈りがなされる。賛美もその場でリクエストされる。それらをとおして主を礼拝する。だから信徒一人一人が自ら聖書をしっかり日頃から進んで読み、生活の中で味わっていなければならぬ。牧師任せの生活でなく、信徒一人一人の自主性・積極性が求められるのだ。

 その上、教会の牧師さんのメッセージに当たるものは、「礼拝」とは別に、礼拝後持たれる「福音集会」の中でなされる。これは一人でなく、様々な兄弟が毎聖日担当することになっている。確かに牧師さんが語られるような神学に裏づけられたメッセージではないかもしれないが、それぞれのメッセンジャーがそれこそ神様から直接導かれたみことばを土台に話をされる。だから「礼拝」ですでに十分満たされるのだが、さらに「福音集会」をとおしても、互いに主のご臨在を覚えさせられる貴重な時となっている。

 そのような「福音集会」は、それぞれの地域から人々が遣わされる場合が多い。そうして、ひとつの集会が独善的になることなく、自然と他の集会の様子に触れ、集会同士の交わりをもつことが期待されている。私の近江八幡行きも、そもそも故郷が滋賀県だということで始まった。三ヶ月に一回参加させていただくようになってから、もうかれこれ何年になるのであろう。20年は優に越すのではないかと思う。今回は21名の参加者に、ZOOMで15名の方が参加されていた。その皆さんが心からなされる賛美の歌声には、それまで萎(な)えていた私の魂は、毎回決まって、その都度覚醒される。

 果たせるかな、当日私が用意したみことばは、出エジプト25章21〜22節で「その『贖いのふた』を箱の上に載せる。・・・わたしはそこであなたと会見しよう」であり、題名は「神に会う道」とさせていただいた。司会をお願いした兄弟は、今はやめておられるが、京都の名うての理髪師さんだった方であるが、びっくりされた。それは私の引用聖句が礼拝の折り、ZOOMで奈良から参加された兄弟が読んで祈られた個所とぴったり同じだったからである。それもそのはず、その奈良の兄弟も私も、その日(6/18)の『日々の光』に掲載してあったみことばに感銘を受けたからにちがいなかった。

 私の場合、その朝、『日々の光』を読み、その日お話ししようとしていた、ルカの福音書15章とこのブログでも紹介して来た『柏木義円』を結びつけるのにふさわしいみことばと考えたからであった。柏木義円は「倫理的宗教を談ずるの学者必ずしも贖罪的宗教を信ずる匹夫匹婦に先立たざるなり」と言っていた。イエス様は、律法学者とパリサイ人が、取税人や罪人を指弾してやまない姿をとらえ、三つのたとえを語られているが、最後の放蕩息子のたとえでははっきりとその32節で「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」と語られた。まさに主なる神が会われる個所はこのような贖いの場所でしかないことを示されたからである。

 しかし、福音集会後、私の心は晴れなかった。もちろん、毎回そのように落ち込むことが多い。今回は帰省したはいいが、連日留守宅にしておく雑草の処理に心底エネルギーを奪われ、メッセージの推敲のための準備が不足していて、自分でもその欠陥を自覚していたからである。しかし、一方で、たとえ自分のお話ししたいことが十分伝えられなかったとしても、主イエス様がそれぞれ聞いて下さっている皆さんに直接語っていてくださるのだから、くよくよしないでいいよと、自分の心に語りかけることができた。

 その上、来られなかったご婦人に代わり、送り迎えしてくださった兄弟はご婦人の中学の同級生である。その方を通してこれまた車中で十分な交わりをいただいた。13年前に、事業が失敗し、すべての生活が破壊され、絶望のどん底に突き落とされ、道を悄然として歩いている時に、同級生のご婦人とばったり会われた。するとその場でその同級生であるご婦人から福音を伝えられたそうだ。彼は藁をもすがる思いで、イエス・キリストの贖いを受け入れられて、今日に至っている。まさにわたしはそこであなたと会見しよう」のぴったりの経験のもと十三年間守られたのである。それだけでなく、今も続いている、集会内のさまざまな兄弟姉妹間の助け合いの実際を、兄弟の口を通して、教えていただいた(近江八幡集会では以前から、集われた方が、それぞれ昼食をともにし、互いに交わることを喜びとされていることは知っていたのだが)。

 こちらに戻って来て、昨日(6/21)は印旛の兄弟が来られて春日部の家庭集会という場でメッセージして下さった。お聞きしながら、近江八幡の自らのメッセージでは等閑(なおざり)にしてしまった信仰者に及ぶ御霊なる神様の働きについて教えられた。いずこにあろうともこうしてみことばを通して互いに励まし合う生活が主にあって保証されていることを思う。

 来月の春日部の家庭集会(7/12)では図らずも、近江八幡集会の責任を負っておられる兄弟、日曜日お会いできなかった方からメッセージをいただくことになっている。このことも主が導いて下さっている目に見えない証ではないだろうか。

※1 こちらに帰って来て、近くの「えのころぐさ」の美しさに思わず、目を見張ったが、私の故郷の留守宅での畑は芒塚(すすき)が伸び放題になっており、その根っこから引き抜くのにたいそう苦労させられたのをすっかり忘れさせるほどであった。

※2 「教会」と称しようと「集会」と称しようと志向するところは同じだが、あまりにもキリスト教会が、「教え」の集まりになっていることを危惧して、敢えて、そうならないようにと、私たちは「集会」と名乗っている。「教え」でない、「贖い」をもとに集められているという自覚のもと、「集会」(エクレシア)ということばを使っている。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/10/blog-post_13.html

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(新約聖書 ローマ人への手紙3章23節24節)

2023年6月20日火曜日

近江八幡行きから教えられたこと(上)

高宮町字鳥居上(※)を貫流する太田川水路
 日曜日は近江八幡で、礼拝をささげた。あいにく、責任を負っておられる方は地区のお仕事があって、お会いできなかった。またいつも、彦根の拙宅から近江八幡まで車で送り迎えしてくださる彦根城のお膝元にお住まいの方もやはり地区のお仕事でお見えにならなかった。珍しいことではあった。地域の共同体(いわゆる「自治会」)はこうしてさまざまな人々の協力のもと支えられているのだなと思わされた。お二人にとっては「礼拝」という何ものにも変えがたいものを差し置いて、出向かれてのことだと思うからである。

 私の故郷は滋賀県彦根市高宮町である。中仙道の宿場町で中仙道の宿(じゅく)の中では埼玉県の本城宿についで第二番目に大きい宿場町であった。昭和30年代に町村合併で彦根市に編入された。その時の様子は以前にも書いたことがあるが、今回、私はその高宮町にさまざまな字名(あざめい)があったことを思い出し、その字名を必死に思い出してみた。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/search?q=%E7%94%BA%E6%9D%91%E5%90%88%E4%BD%B5

 北から、「大北」「中北」「宮町」「高橋」「七軒(しちけん)」「前浦(まえら)」「鳥居上」「五社(ごしゃ)」「仲町」「本町」「西浦」「竹之越(たけのこし)」「東出(ひがしで)」「西出」「門口(もんぐち)」「御旅(おたび)」などである。そして、それぞれの字がどこからどこまでを指すのか、今も大体見当がつく。私の字は「宮町」であった。隣の字が「高橋」であったので、「高宮町」はこの二つの字の名前から来ているのだろうと勝手に想像していた。

 字はお祭りの時や、町内運動会で、互いに対抗意識を丸出しにすることもあった。宮町(みやまち)は高宮神社のお膝元、「太鼓」は出さないが、代わりに高い「幟(のぼり)」を立て上げなければならなかった。高宮神社の鳥居を越す高さであった。それは祭りの準備に欠かせない祭事であった。それもあって、「太鼓」を担ぎ出す代わり、台車に乗せた「鐘」を出していた。子供が台の上の前後ろに乗り、鐘を叩く、あとの者は、その台車を引っ張って歩く。町を縦貫する中仙道を練り歩く主役は「太鼓」であった。それは大きな字が受け持っていた。祭りのメインはやはり太鼓である。その点、鐘は引き立て役であり、それほどエネルギーはいらなかったが、何となくパッとしなかった記憶がある。

 このような「町」、「字」は確固とした「若衆組織」を基盤に建て上げられていたのではないだろうか。小学校から中学校に進む時、お酒を一升持って、若衆に入れていただくのである。送り出す家の方でも、受け入れる若衆側でも、それぞれのうちに身が引き締まる「社会儀礼」であった。私も成人として公的に祝われるはるか先、13歳で、地域の仲間に正式に入れていただく時として、緊張を覚えさせられた。このような習慣は日本の津々浦々で用いられていたのでないだろうか。

 そのようなコミュニティーをもとに、さらに学校があり、地域社会は構成されていった。そのような社会にも様々な「事件」は起こされていたに違いない。しかし、今日ほどセンセーショナルな事件は少なかったのではないかと思う。このところ立て続けに銃を使っての犯行が明らかになった。明らかに日本社会は病んでいると言える。あの牧歌的と思えた昭和30年代の社会にも報道されなかっただけで、様々に事件はあったのであろうが、これほどひどくはなかったと思う。

 荒廃著しい社会がはやく落ち着きを取り戻してほしいと願うのは私だけではないだろう。一方、1843年(天保元年)生まれの新島襄は、鎖国下の日本の国禁を破ってまで、アメリカに行き、人間が人間として大切にされる世界、神を信ずる生きた世界があることを知った。そして日本社会をそのように変えたいと、私学による教育と福音伝達に精を出したのでないか。このこともまだ何も知らない。でも、今まで無知であった私の「新島襄」観は少しずつ改善されつつある。「自治」こそたいせつであり、その根底には「人権」を父なる神様に対するありかただとする新島襄がいたにちがいないと思う。そして、お二人が礼拝を犠牲にして行かれた先はおそらく「自治会」であろう。自治会が、単なる上意下達の機関でなく、ほんとうの「自治」会になってほしいと思う。神を恐れ、人間を大切にする社会こそ、悲惨な犠牲者をこれ以上出さない秘訣ではないかと思うからである。

※「鳥居上(とりいかみ)」とは、この字には多賀大社に通ずる大鳥居があることから名付けられているのだろう。この多賀大社は俗謡で、「お伊勢、多賀の子でござる」と言い、この付近では信心深い人が行く。それだけでなく、何を隠そう、私の高校合格への祈願はこの多賀大社であった。高宮神社が、すでに字である宮町にあるにもかかわらず、多賀大社にまで行った。初詣自身が多賀大社であった。それは誰も不思議としない行為であった。大社であるだけに神社より格が上で、高宮神社では合格はおぼつかないと思っていたのであろう。考えてみると、高宮には高宮神社の鳥居があるのに、ここからは真東に一里(四キロ)ほど離れた多賀大社の参道よろしく宿場町である高宮のこの場所に建てられていたのだから、顧みると、町内には二基もの鳥居があったのだ。このような高宮は宿場町であるだけでなく、その多賀への玄関口の役割も果たしていた。もちろん今もそうである。

初めに、神が天と地を創造した。神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(旧約聖書 創世記1章1節、2章7節)

2023年6月16日金曜日

半可通の『柏木義円』紹介(4)

横川SA内のミニ植物園 2023.5.4  
 まだまだこの『柏木義円』については考えるべきことがたくさんあるが、最後にどうしても触れておきたいことがある。それは森鴎外がいみじくもその小説『かのように』で触れている、ドイツでその当時流行った新神学の問題である。

 伝道者であった内村鑑三や牧師であった柏木義円がこのことに無関心であったどころか、積極的に自らの態度を明らかにしていることは推測できる。でも、そもそもこの新神学こそ同志社を席巻した一つの大騒動でなかったかと思っていたが、その実相についてはほとんど知らなかった。それが今回図らずも片野さんの御本を読んで気づかされた。以下の同氏の記述を紹介させていただく(ミネルヴァ書房版30頁以下からの抜粋紹介である)。

 先ずは当時の同志社が教会合同の危機に直面している場面の描写である(その背景には「徴兵制」の問題もあるのだが・・・)。そしてこの時こそ、柏木が知らず知らず、新島の精神を受け継ぐ人となって行く時でもある。題して「新島との再会」である。(文中「一致教会」とあるは、植村正久を中心とする教会、「組合教会」は同志社である。)

新島との再会

 1884年1月15日、柏木は同志社普通学校に再入学した。柏木25歳である。初めて同志社の門を叩いてから四年を経ていた。この時期に、政府は、前年の12月28日公布の改正徴兵令により、ミッション系の私立学校から徴兵猶予の特典を剥奪する方針を打ち出したため、私学は突然降って湧いたような混乱に襲われた。しかも日本のキリスト教界は、教会合同問題をめぐって大揺れだった。日本基督一致教会と日本組合基督教会との合同運動は、1886年に始まり、1890年まで続く。多勢が合同へと向かうなか、苦悩し孤立しながら異論を唱えつづけた新島は、柏木に信頼を寄せた。柏木は一徹な新島の姿勢を目の当たりにして感銘を受け、新島の唱える自由自治の信念を理解しようと努めはじめた。

 一致教会は、教会政治が年齢の高い長老によってなされることを主張する、長老主義の信条と組織をもつ外国諸教派の援助による日本初のプロテスタント教会である日本基督教会を母体とした、他方、組合教会は、各個教会の自治と主権を重んじる会衆主義を掲げていたが、アメリカン・ボードからの援助を受けていることによる諸種の制約を脱却するため自給独立の方向をめざしていた。しかし、各個教会の主権と自治を重んじるという以外に明快な組織論が見当たらない会衆主義の教会が、厳格な規則をもつ長老主義の教会と合同すれば併呑されるのは火を見るより明らかであった。牧師や長老には権限が集中しやすい。集団を統括するには中央集権は便利である。だが、それで各個教会の独立自治は守られるであろうか。教会員個々の独立自治は尊重されようか。だが、新島の危惧は、現実にはさらに困惑する事態をともなうものとなった。すなわち、新島は、組合教会自体が会衆主義の教会の運営や、その根本理念の自由と自治とに無理解である現実に気づいたのである。新島は、日本のキリスト教界からも、弟子らからも疎んじられて失意の底にあった。新島は自分の良心に照らして脱会を辞さない覚悟を述べた。そうした新島をわずかに支えたのが、柏木であった。

Dear Sir
 Though I am forbidden by the Doshisha to see any students, yet I am very anxious to see you alone and tell you something about our school. So please call on me after your supper this evening.
                                   Yours Truly
                                   Joe Neesima
 Do not let any one know of your coming to my house.

 よく知られた書簡である。校医から学生との面会を禁じられていた新島は、この夜、ひそかに柏木を呼び寄せて憂慮する胸のうちを明かした。話さないと胸が破裂しそうだ、もし一致、組合両教会が、そのときの合同教会の憲法案のように合同して同志社が合同教会の機関学校になったならば、自分は同志社を去って北海道に退くといった。(略)

 柏木が再入学した1884年は、こうして同志社にとっても多事多端な年となった。

愚俗の信と学者の信

(共に桑門の出である、井上円了〈東洋大学の創始者となる〉と柏木義円の間で交わされる、宗教論争が冒頭で紹介されるが、それは省略した。それを受けて)

 井上と柏木は、新進の宗教家と一介の平信徒という立場の相違こそあれ、いずれ劣らぬ気鋭の学究である。井上が揺籃期日本に相応しい宗教の近代化を提唱したとすれば、柏木は現実の国家や社会にとらわれない人間のあるべき理想を宗教に託した。宗教上の学識があろうがなかろうが、愚俗の信が学者の信に劣るところはない。自分は井上のように仏教哲学を修めているわけではなく、普通一般のキリスト教徒でしかない。だが、「宗教に重んずる所は上帝に在り、上帝の解釈に非ざるなり」、つまり宗教にとって重要なのは神を信じることにあるのであって、神の解釈にあるのではないと柏木は繰り返す。「基督信徒の信仰は上帝に仕えるに在り、上帝の解釈に非ず」、したがって「学者も愚俗も同信なり」、学者も一般信徒も、神に仕える点では同じである。一信仰者であるのに変わりはない、これが宗教というものであると、柏木の仏教批判としてなされたこの論法は、キリスト者柏木が終生拠って立ったものである。

 柏木は、キリスト教の神学に対しても同じ論法を用いた。この後柏木は、新神学を批判して「倫理的宗教を談ずるの学者必ずしも贖罪的宗教を信ずる匹夫匹婦に先立たざるなり」「孔夫子敬虔の至誠は、19世記の学者の伏して学ぶべき所なり」と述べている。

 また柏木は、「宗教界の進歩者とは最も敬虔の念の発達せしものを謂うなり」として、イエス・キリストを神の一回的な啓示とするキリスト教の正統的理解から逸脱した解釈をもつ、海老名弾正らのような人々に対する批判とした。新神学もしくは自由主義神学は、神学やキリスト教に対する自由な解釈を認めて、明治20年代に組合教会などを中心に広がった。その特徴と社会的影響を一からげに指摘するのは困難だが、概して国家との融和を優先し、海老名や渡瀬常吉らが後の熊本英学校不敬事件以下で見せる、体制側との妥協的態度などが特徴として浮かぶ。

 学び、活動し、漢文講師としての働きと、柏木の多忙な日々はつづく。柏木は、1889年に同志社普通学校普通科を卒業し、同志社予備学校教員に就任した。そこで数学と作文を教えた。(略)

 翌1890年1月23日、療養中だった新島は急性腹膜炎症で逝去し、遺体は京都に運ばれた。新島邸に入る前に柏木が祈祷を捧げた。葬儀は、棺より大小の銘旗を運ぶことから埋葬までの総てを学生が担当して、一人の人夫も雇わず世人を感動させた。銘旗には勝海舟の書いた「自由教育、自治教会」が掲げられた。柏木は新島襄との永訣のときを迎えたのであった。

 淡々とした筆致の中に、新島から柏木へとバトンタッチされた精神が、どのようであったか、最初は仏教との戦いに、そして新手の新神学との戦いが柏木の残した文章を通して次々明らかにされて行く。しかも、彼は自分に洗礼を授けた海老名弾正を批判して、あくまでも聖書の真理、イエス・キリストの十字架の死と復活の贖罪の真理に踏みとどまった。

 私は長年、新神学が何ものであるかをよく知らなかったが、今回の片野さんの著作を精読して少し理解できるようになった。そして柏木義円、内村鑑三、森鴎外とほぼ1860年前後の横一線上に生を受けた彼らが、同じ空気を吸っていた近代日本の現実に、どのように内なる召しに従いながら、戦ったのかを少し追体験するような思いにさせられた。

 この三人のうちで、最も長生きをしたのは、在野の牧師であった柏木であった。しかも彼が抵抗した軍国主義の猛威が振るう中で召されて行った。その掌中には、新島の伝記資料がたくさんあったということだ。書かれるべくして、準備しながらも、とうとうその任を果たすことはできなかった。この彼の生涯は、主にあって罪赦された者は、天に宝を積むために、どのように生きることができるかのお手本を、私たちに残していると言えるのでないか。

 最後に著者片野さんに対するインタビュー記事が載っていたので紹介しておく。https://book.asahi.com/article/14854517

神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。(新約聖書 ヘブル人への手紙13章7節〜8節)

2023年6月15日木曜日

半可通の『柏木義円』紹介(3)

柏木義円(1860〜1938)
 柏木義円を知らなくとも、内村鑑三(1861〜1930)は知っておられるだろう。内村鑑三を知らなくとも、森鴎外(1862〜1922)を知っておられることだろう。手元の日本史辞典(角川1985年版)を繰ってみると、柏木8行、内村14行、森19行の解説記事となっていて、ほぼ予想通りだった。ただ柏木がゼロかなと思ったが、そうでもなかった。地方にいながら、その去就は注目されざるを得なかったということがわかる。

 さて、それはともかく、三者ともほぼ同年齢であることに驚く。内村と森はそれぞれ欧米での外国生活がある。アメリカとドイツである。それに対して、柏木は当時日本の植民地であった朝鮮へ必要があって向かった時を除いて、一度も国外に出たことはない。もっぱら、聖書と安中の人々、せいぜい上毛の人々(熊本や京都、東京の人々を除けば)との交流が中心だったのではなかろうか。

 私が初めて関西から北関東、それも両毛地方と言われる足利に来たとき、からっ風には正直、参らされた。温和な滋賀県から荒削りとも言うべき自然の脅威をもろに受けた思いであったからである。その中で、上毛地方の前橋へは萩原朔太郎ゆかりの地と知って、『旅上』の詩を口ずさみながら列車の窓に顔をくっつけんばかりにして、車上の客となったことを思い出す。それは単なる行きずりの、土地に根を下ろすことのない一青年のロマンに生きる幼稚な姿に過ぎなかった。

 柏木はもちろん違った。その上毛に生きる生活人としてその名を冠する『上毛教界月報』を実に459号発刊している。これは年数に換算すれば、およそ40年にわたる心血注がれた月報でないのか。その間、何回か時の政府によって発禁処分を受けている。しかし、その月報を通して上毛地方、両毛地方のキリスト者の信仰を守り抜いたことがうかがわれる。これだけでも生半可な知識で述べるのが、はばかれる大きなテーマである。

 さて、片野氏の述べる柏木義円の「回心」の文章を以下に書き写す(ミネルヴァ書房版27頁より)

 土塩村に住む中山光五郎が柏木を心配して、泊まりがけで説法をしにきてくれ、君は罪を知れりやと問いかけた。そのときの柏木は自分に罪があるとは知らなかったが心の卑しさは知っていると応じると、それが罪だと畳みかけられた。かくて柏木は神の存在について講究を始め、ついに神は在るものと推定、神は存在すると思うにいたった。それは1883年11月4日のことである。

 柏木は安中教会の聖餐式に出席した。与板の大火からは三ヶ月強しか経っていなかった。西光寺消失の後始末の最中であり、西光寺の再建などは及びもしない。柏木はいかなる心根で聖餐式に臨んだのであろう。海老名牧師の説教には何も感じなかったが、聖餐をともにできない者があればつぎの機会には受けるようにとした海老名の言葉に志望も趣味も全然一新し、今まで西に向いていたものが東に向いたように思われた。何ものかの力が心中に加わって自分を動かし、忽然と神の存在を認め、彼を受洗へと駆り立てたのである。すると、虚言の習慣を嫌悪し、眼疾を案じる憂患は変じて感謝となり、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事益となるようにして下さることを、私たちは知っている」(ロマ書8・28)との妙なる実験が柏木を誘った。柏木が終生愛することになる聖句の一である。最大の欠点と思ったのは虚言癖で、最大の不幸と感じたのは眼病だった。神は両者を虚しくしないで、これらを用いて自分を導いたとは柏木の回顧談である。

 柏木は、まず一足先に同志社に向かった中山にこの悦びを告げ、新島には虚言も告白した。新島からはすぐに返事が届いた。手紙は柏木がもはや一面識の人でなく、一家の兄弟である、君は万福慶賀すべき身となった、前非は再び口にするには及ばない、主はこれを識り許したまうであろう、天国の途花の山のようだ、何を恐れることがあろうと祝い、慰め、激励するものであった。「三尺の童子もなおその荒唐不経を笑うが如き教理を、新島先生ほどの方がいかにして信じ居玉ふや」、つまり子供が笑い飛ばすような荒唐無稽な教理を新島先生のごときがなぜ信じるのかと、悩みに悩んだ疑問はすべて氷解した。年が明けて、柏木は進んで海老名から洗礼を受けた。1884年1月6日、柏木25歳である。

 以上が片野氏記するところの柏木の「回心」であるが、私は新島の柏木に対する真情〈君は向来面識の人と称すべからず。乃ち主に於ける一体・一家族・兄弟と言わざるべからず。君、勉めよ、天国の途、花の山の如し。苦辛何ぞ恐れん。難嶮何ぞ憂ふるに足らん。勉めよや君。〉に涙せざるを得ない。かつて、足利の地で信仰者の孤独をかこっていたとき、そのことを手紙で知らせたとき、若き日に同志社で学んだ伯父は「浩君夫妻、両毛の一粒の麦とならんか」と励ましてくださったその言葉尻を同時に思い出すからである。同時にその時京都福音自由教会の古山洋右牧師がはるばる京都から我が足利の茅屋に泊まって行かれ、ローマ8章28節のみことばを示して励ましてくださったことを思い出す。時、ところ変われど、人の真情は変わらないと思う。

 今日も悲惨な事件に私たちは接している。接せざるを得ないのかも知れない。しかし、あきらめず神の愛を信じて歩んでいきたいものだ。

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いてあなたがたに伝える知らせです。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。(新約聖書 1ヨハネの手紙1章5節、9節〜10節)

2023年6月14日水曜日

半可通の『柏木義円』紹介(2)

 屹立し 電車見遣る 葵花
  線路沿いに、立葵は列をなして、赤、白、ピンクとここ三、四週間も、通る私たちの目を楽しませてくれている。傍を電車が時折、疾走して行く。電車道は、河川とは違うが、それでも異なる空気を運び入れ、運び出す。その空間は私には何物にも変えがたく思われる。

 さて、柏木義円氏のことについて、片野真佐子さんの説明を引き続いて転写してみる。先ず、「新島との出会い」と題する一文である(ミネルヴァ版23頁より引用)。

 1880年の暮れ、柏木は、木曽路の雪を踏みわけて京にのぼった。懐中には蔵原惟郭から預かった新島襄宛の同志社への紹介状があった。

 同志社入学は容易だった。だが、新島襄の担当するリーダーとヨハネ伝の講義には窮した。リーダーの時間ではthinkの発音につかえて、何十回もやり直しを命じられた。しかし柏木はうまくできない。照れ隠しに笑って、新島にその不真面目さをきつく咎められた。周囲はこれを越後なまりのせいだったかもしれないと噂している。さらに柏木はヨハネ伝のあとで祈祷を命じられた。そこでしかたなく口先ばかりの祈りをして誤魔化した。学費に欠くところもあった。ややあって柏木は、新島に事情を話し、漢学を教え僅かの手当てを得て学資に充てることにしたが、給費を忘れられ、新島に借財を申し入れてようやくことなきを得たこともあった。

 在学中の一年間に、質問もし議論もしたけれど、神を信じる信仰がなければ、霧中に霧を払うようなもので、質問も議論も無益であることを知らされた。宗教論をヒタとやめたこともあった。当時、柏木は、キリスト教に大いに惹かれ、キリスト教の力を認め、修徳にも、社会改善にも、キリスト教を措いて他に実力あるものはないと思っていた。だが、自分の理性がこれを容易に真理と認めず、学識が進めば審判をなすなど傲慢な考えを抱いていた。こうして経済的な苦境や授業での失態などが山積するなかで柏木の最初の同志社行きは終わった。新島への尊敬と思慕の念、それに自分に対する苦い思い出とが胸に深く刺さった。

 柏木は三回の山越えをして上州の寒村に戻った。


 ここには木曽路の行き帰り、すなわち中仙道を彷彿とさせられる文章を見ることができる。「木曽路の雪を踏みわけて」とは島崎藤村が『夜明け前』の冒頭に述べた「木曽路はすべて山の中である」を連想させられる。木曽路に江戸から飛脚が彦根に向かって走る。まさに幕末大老暗殺の報を知らせるためだ。そして10年足らずのうちに明治維新は始まる。その内外を描写するに藤村は主人公青山半蔵の姿を描き、その実相をあらわすにふさわしい小説をものしたが、我が柏木義円はそれを去ること10年余にして、京都同志社に向かうのである。

 たった一年の遊学だが、生涯忘れることのない新島への思慕の始まりであった。果たして、義円は京までそのまま中仙道を歩いたのだろうか。もし歩かれたとすれば、私の高宮の家の前も通られたことであろう。手元に『写真中仙道』(薗部澄著 社会思想社刊行)があったので「安中」宿(上図)と「高宮」宿(下図)を同書から引用させていただいた。

 さて、話を『柏木義円』のその後に、戻す。片野真佐子氏は「新島との出会い」に続き「西光寺炎上」「読項羽本紀」「虚言癖と眼疾」と述べ、最後に「回心」を述べられる。明日は、その「回心」を中心に同氏の文章を引き続き転写させていただく。(なお『義円』という名前は、言うまでもなく僧職にあった柏木家の嫡孫としての名前である。西光寺こそ越後予板にあった彼の本寺であった。柏木家は、初めは、上州安中で藩主であった井伊直好公のお抱え武士であった。ある時、藩主の山狩のお供をしたときに、あやまって子持ち猿を射殺してしまい、いのちの無常を感じ出家したのが、そもそもこのお寺の始まりであったと言う。)

イエスは彼(トマス)に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(新約聖書 ヨハネの福音書 14章6節)

2023年6月13日火曜日

半可通の『柏木義円』紹介(1)


  昨日、私は一つのことに集中していると書いた。それは「たいせつなこと」も思い出さないほどだと大袈裟に書いてしまったが、実はこの一週間ばかり、私は日が暮れても明けても、『柏木義円(1860〜1932)』と言う人物の存在に刮目されているのだ。と同時に、私のこれまでの人生がいかに『半可通(はんかつう)』の人生であったかを思い知らされていると言った方が正確かもしれない。

 父だったか、先生だったか、誰だったか忘れたが、まだ幼少年の頃、「生半可なことは言うじゃない」と厳しくたしなめられたことがある。要するに、俗な言葉で言うなら「知ったかぶりをするな」と言うことだ。この思いにさせられたのは、今回すでに『森鴎外(1862〜1922)』について書いた頃から始まっていた。

 図書館で『森鴎外、自分を探す』を返却した序でに、今度は『柏木義円ーー徹底して弱さの上に立つ』(片野真佐子著 ミネルヴァ書房2023年1月刊行)を借りた。すでに一月ほど前からこの本の存在に気がついており、過去四週間借りはしたが、読むことができず、そのまま返却していた本であった。「鴎外」を読んだばかりであったが、「義円」という名前や「徹底して弱さの上に立つ」という副題に興味を覚えていたからである。

 そして、総ページ数260頁ほどの書物を読むうちに、次から次へと私にとって驚くべきことが書かれていて、一頁たりともおろそかに読めない、巻措く能わずという思いにさせられた。そして、この人物についてもっと知りたいと思わされ、図書館の蔵書をさらに探ってみたら、同じ著者の『孤憤のひと柏木義円(天皇制とキリスト教)』(新教出版社1993年6月10日刊行)があることを知り、さっそくこれも借りてみた。

 もちろん二著とは言え、両者はダブル記述があるし、ちょうど今から30年前に刊行された本は著者の博士論文となった本のようで、より叙述が綿密になされている(これは国会図書館のデジタルライブラリーで確かめて知ったのだが・・・)私としてはこの結果を報告したいのだが、今日は、二点だけ紹介しておく。その前に、私と「義円」との関係について説明する。

 私はこの三十三年間、信越線を利用して御代田まで年間2、3回としても、都合50回程度は出かけている勘定になる。その信越線の高崎ーー横川間に「安中」駅がある。その安中駅には未だ一度も降りたことがない。実は柏木義円はその安中教会で40年近く牧会をした牧師だったのだ。その上、この後者の本を通して知ったのだが、その先祖は彦根井伊家から出ている安中藩に召し抱えられたもとは武士であった。しかも、彼が生まれたのは、桜田門外で井伊直弼が横死した6日後だったと言う。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/02/blog-post_9.html

 さて、先ず一点は柏木義円が回心したとき、新島襄から義円に差し出された書簡が示している事柄である。1884年(明治17年)義円の受洗を知って新島が柏木に出した書簡である。(新島42歳、柏木24歳であろう)

 新年目出たく賀し奉り候。
 陳ば御来書に依れば、貴君にも今回は前非を悔い、主基督の聖名により、受洗成され候云々。実に、喜欣措く所なし。偏に天父の鴻恩を感謝候なり。今日にして、真に新年も目出度く御迎え成され、且つ盡きせぬ春は、君の前途にあれば、君は直ちに万福慶賀すべき身となられたるなり。前非は再び口より吐露するに及ばず。主これを知り、又これを許すべし。君にして、再び罪を犯すなくば、君は乃ち主の群羊中の一なり。主必ず、これを守り、これを愛し、且つ無限の命を賜はらん。君は向来面識の人と称すべからず。乃ち主に於ける一体・一家族・兄弟と言わざるべからず。
 君、勉めよ、天国の途、花の山の如し。苦辛何ぞ恐れん。難嶮何ぞ憂ふるに足らん。勉めよや君。
 怱卒の間一書を認め、祝辞とす。貴答。
 一月二十日
 柏木義円君
                  新島 襄

 あと一点は、片野さんが紹介している、柏木の安中教会の牧師としての特徴である。(『孤憤のひと柏木義円』115頁より引用)

 新島創立の教会の人となった柏木は、聖書の言葉にあるように、師の蒔いた種の豊かに実らんことを願った。安中教会は、正統主義の信仰を志す。柏木は、教会形成について、「何の教えでも世の人を善に導きさえすれば可なり、基督教の文明国の教えにて内地雑居後社会改良のために必要なる可れば、我らもその教えに入り社会の風教のために尽くす可しなど、恰も倶楽部や協会に入るが如き心地にて来る人が如何に多くあるとも、此等に由て教会を建つるは基督の御意ではありますまい」マタイ伝の第16章16節が示すように、「基督は此等の大衆の上に其王国を打立つることを肯し玉はず」「実に一人にても二人にても、基督を活ける神の子なりと信じ、最上の敬と愛と全き信任とを払う信仰の上に其の教会を建て玉ふのであり升」と説き、イエスを信じる者の敬虔な信仰の上に堅固な教会を形成すべきことを主張した。

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(新約聖書 マタイの福音書 16章15節〜18節)

2023年6月12日月曜日

主の与えてくださる喜び

立葵 凛と微笑む 梅雨景色
 今日は、次女の誕生日である。知ったのは、ちょうど先ごろ12時過ぎであった。家族の共同LINEに長女や三男がお祝いのことばを寄せていて、気がついた。家内に確かめてみると、昨日気がついていたが、今朝は忘れてしまっていたと、言う。

 私は、残念ながら、全く失念してしまっていた。何の言い訳のしようもない。ただ忘れる事情があった。それは今一つのことに集中させられているからである。いつもは覚えているはずのこどもの誕生日を忘れるほど、今、そのことに私の全神経は集中している。そのことはいずれこのブログでも紹介したいとは思うが・・・

 さて、1981年のこの日の出来事は忘れようがない。陣痛が始まった時、家には二階に父が占領しており、下には和室一部屋と台所、縁側に張り出した廊下のような横長の床仕様があり、そこに親子6人が肩を寄せ合って生活していた。あまりの悲惨さに、5人目を宿していた妻は舅に悲鳴をあげていた。ところが、砲兵将校として中支で軍隊経験のある私の父は、悠然としたもので、「犬や動物は野っ原で子どもを産んでいるんだぞ、何を慌てる必要があろうか」と一切意に解しなかった。

 「案ずるよりは産むが易し」とはよく言ったもので、陣痛の知らせを受け取った、近くにおられた藤沢さんと言うキリスト者の若夫婦が、すぐ車で迎えに来てくださり、助産院で無事産まれた。その時の、胸中に湧き上がった「喜び」はいつまでも忘れられない。迷わず、「喜実子」と命名した。何しろ、その当時、父は痴呆症を患っており、3月に彦根から春日部に転がり込んできていて、その対応に小学校一年の長男をかしらに四人の子供をかかえ私たちは前途暗澹とした気持ちに支配されていたからである。梅雨空のような重苦しい気分であった。しかし喜実子誕生は、文句なしに、父をふくめて家族全員の喜び・希望となったからである。

 半年足らずの11月29日に、その父が召された。打って変わって、その時は、今度は「悲しみ」が私の心を覆い、一晩中泣いていた。しかし、それはわずか二日ほどで終わった。その後には心の底から「喜び」がじわじわと湧き上がってきたのだ。それはこのことが主の変わらぬ愛のすべてであると心から納得できたからである。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2012/11/blog-post_29.html

 昨日の礼拝の後の福音集会では福代さんが「いのちと死」と言う題名で、主による霊の誕生(新生)について、ていねいに語ってくださった。私はこの時、再び「喜び」を感じた。そして福代さんは、最後に、引用聖句の「時が定まっている」というみことばは、私たちに神様の前に「へりくだり」を教えるためのものではないだろうかと、付け加えられた。

 時移り、喜実子は最愛の夫を与えられ、この礼拝の恵みにともにあずかっていた。主の祝福は尽きない。昨日福代さんが引用してくださった聖句を以下に掲げ、ともに主を崇(あが)めたい。

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。(旧約聖書伝道者の書3章1節〜2節)

2023年6月5日月曜日

『森鴎外、自分を探す』を読んで

 のっけから、とんでもない夢の話で恐縮だが、話してみる。私がドイツ首相と話をしている、電話で。とは言え、話し相手はショルツ首相でなく、フランス大統領マクロンである。ドイツ語でなく、英語で。なぜ私に話して来られらたのか、わからないが、その話の中で、SADAYOSHIという私も知っている方の名前が出てきたので、大変親しみを覚える。もっと話をしたいのだが、生憎こちらが理解できないし、第一先方は忙しい方だから、ごめんなさい、と言おうとして文章を考えている。I'm sorry to say about nothingと言い、この文章では伝わらないな、と思っているうちに目が覚めた。

 なぜこんな夢を見たんだろうと考えていたら、その前に見ていた濃厚な(夢の)場面も思い出した。それは高校の文化祭で各クラスがそれぞれ趣向を凝らして、展示をしている。ある女性担任のクラスは男女とも熱心に取り組んでいて、極めて精度の高い事柄を集まってきた人々にきちんと説明している。しかし、十分説明し切れているわけではないことをその生徒が私に言う。一方、わがクラスはどうかと行ってみると、女子生徒が数名集まって何やらやっている。男子生徒は遊びに出て行ってしまっているようだ。しょうがないな、いつものこった(事だ)と思いながらも、ひと渡り全クラスの出し物を見てまわっている。

 この文化祭云々の映像(?)はまさしく実際私が経験していることに近いが、結論が違った。私の実体験は、このような場面では必ず我がクラスの不甲斐なさに腹が立ち、落ち込むのだ。そして一生懸命クラス全体を取り組ませることに成功している女性担任に羨望をさえ抱くのだ。ところが、今朝の夢では、そう言う評価はしていない。我がクラスを含め、それぞれのクラスが一生懸命取り組んでいる。確かにそこに優劣の濃淡はある。しかし、ともに同じテーマを巡って展示をしているのだ。その追求するものが同じなら、学校全体として喜ばしいことではないかと自分で評価しているのだ。

 夢の中で、英文を考えたり、このような評価をしている自分を知って、どうしてこんな夢をいまだに観させられるのか、不思議に思うが、教師時代の禍根が今も自分を支配しているのかとは思うが、最後に、述べたように、自己卑下するのでなく、正当な評価をするようになった自分に少し「救い」を覚えた。でも一体全体どうしてこんな夢を見たのだろうかと思って振り返ってみたら、昨日寝る前に読んだ、『森鴎外、自分を探す』(出口智之著岩波ジュニア新書)のせいではないかと思った。この小著はジュニア新書と言うだけであって、小中生徒を対象に筆者は書いておられると言うことだが、80歳の私にはちょうどいい文章である。逆に鴎外の作品の文語混じりの表現の紹介には戸惑う面もある。しかしそのほうが心にすとんと入ってくる面もある。不思議なことだ。

 著者は1981年生まれだと言うから、父が召され、娘が誕生した年を思い出すし、その娘からこの話を聞かせられているのだと意識しながら読み続けた。全く鴎外については改めて何も知らないことを教えられ、漱石オンリーであった我が読書歴を軌道修正したい思いにさせられた。なぜか鴎外については年初に岩波新書の『森鴎外 学芸の散歩者』(中島国彦著)も読んで、いたく感銘を受けていたのだから、この思いは今に始まったのではないが・・・。鴎外の遺言はあまりにも有名だが、その意味を考えると彼の生涯が一つの信念に貫かれていたことを改めて知る。

死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ 奈何なる官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス 余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルル瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス 森林太郎トシテ死セントス 墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ依託シ 宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ・・・

 友人に林太郎と言われる方がいる。その友人にあなたの名前はひょっとしてお父さんが森鴎外を意識されていたのではないですかとお聞きしたらまさしくそうだった。なお今回参考文献に上がっているものを見ていたら、もう7、8年ほど前になるが、ご高齢の知人から紹介された隣に住んでおられる方の、鴎外の作品『舞姫』に登場するエリーゼに関する論考も紹介されており、その折り、もっと丁寧に取り組んでいたらと思わされた。

 鴎外は私の拙い見立てでは作品『かのように』で窺えるように、ドイツ留学時に流行っていた新神学(ハルナック)の影響をもろに受けたのでないかと思っている。すなわち文献批評学という聖書本文をそのまま神のみことばと考えない立場に立っていると思う。それはともかく彼の遺言には地上の権威を恐れず、自由であろうとする精神が漲っているように思う。このような偉人にして、なおイエス様の次のみことばを受け入れるには躊躇せざるを得なかったのだろうか。

人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。(旧約聖書 詩篇49篇17節、20節)

しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。(旧約聖書 詩篇49篇15節)

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました(すなわち十字架上で)。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(新約聖書 2コリント5章20〜21節)

2023年6月3日土曜日

空模様は如何に

紫陽花の やさしき思いを 運びいり
 「朋あり、遠方より来たる」。普段、近くにいながら、ご無沙汰がちである方から、珍しい「紫陽花」だからと言っていただいた。コロナ禍ですっかり外出を控えていた友、それゆえに知らず知らず、お互いに「遠方」になってしまっていた。我が庭にもたくさんの紫陽花が咲き競っており、それを熟知しておられる友が、こうして珍しい一品として、贈り物を携えて来てくださるとは、何と幸いなことだろう。

 昨日は、トンチンカンなブログとなった。「雨雨降れ降れ」とは、絶対口が曲がっても言えない状況なのに、能天気にそんなことを話題にしてしまった。この場を借りてお詫び申し上げる。ブログを書いていた頃は、確かに「水溜まり」程度であったが、午後から一挙に雲行きはさらに怪しくなり、あわや線状降水帯かと見まごうばかりの雨が降り注いだ。関東では越谷の新方川が危険水域を越えたことを気象庁のサイト「キキクル」で知る。

 今日の午後予定されていた小さな集まりも、急遽、ZOOMに切替えられた。しかし、皮肉なことに空は明るくなりつつある。梅雨空の束の間の微笑みなのだろうか。

イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる』と言うし、朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。」(新約聖書 マタイの福音書16章2〜3節)

2023年6月2日金曜日

雨降り、あなたは何を思われますか。

水溜り 幼き日想う 嬉しさよ
 学生時代、岡潔の随筆に夢中だった。その彼の随筆集の中でも、『紫の火花』は今も忘れ難い。それは小説家芥川の創作の原点について、岡潔が述べていたことだ。芥川がある時、電線が垂れ下がっていたか、何かで、雨上がり後であったろうか、水溜りのうちに、ショートを起こし、紫の火花を発していた。それを見た芥川が自分はこの美を表現できればそれで満足だ、人生それでもって終わってもいいと思ったそうだ。そのことを数学者である岡潔が痛く感動して自身の生き方と重ねていた。

 ところで、私にとっては二人の天才とは違い、雨降りで当分は部屋に閉じ込めらて、散歩もままならず、庭越しに道路を眺めるしかないが、なぜか心が落ち着く。それは「水溜り」の効用だ。おそらく、小学校一年生ごろの記憶だろう。チューリップや鯉のぼりの姿と同時に、雨が降ると母親が傘を持って迎えに来てくれたのだろうか、言わずと知れた例の童謡を思い出す。

 雨雨、降れ降れ、母さんが
 蛇の目でお迎い 嬉しいな
 ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン

 上のYouTubeを拝見して、歌詞は一番しか覚えていなかったが、そこには単なる一番だけでなく、子どもが他者をいたわる惻隠の情が表現されており、作詞北原白秋と作曲中山晋平のコンビの作品であることを、改めて知った。

何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。(新約聖書 マタイの福音書7章12節)

2023年6月1日木曜日

「蓼食う虫も好き好き」と「いのち」

水無月に 蜜柑葉喰むか 青虫よ
  昨夕、家内が胸を撫で下ろすかのように、外から帰って来て、報告した。お隣さんにいちごジャムを作ったので、持って行ったところ、お留守だった。ふと見ると、植木鉢の蜜柑の木に青虫が三匹ものぼっていて、ために葉という葉はすっかり食い荒らされていた。思わず叩き落として、つぶそうかと考えたが、やめた。お留守だったので、もう一度おうかがいした。が、今度はジャムはもちろんのこと、青虫を収めるためにちょっとしたビニール袋(潰すのは穏当でないと思い)を用意し、出かけた。

 ところが、お隣さんに、その青虫の害を伝えたところ、「いいえ、私たちは青虫が食べて成長するのを毎日楽しみにしているのですよ」と伝えられたそうである。家内はもちろんお隣の方のそのような思いを知らず、自分なりにお隣さんの益になるようにと袋まで用意して出かけたのであった。だから、最初の思いどおり、潰してしまっていたら、とんでもないことになったと述懐した。昨晩の夕食のちょっとした私たちの話題となった。

 上掲の写真は、先ほど、お隣さんの家の前に置かれているその蜜柑の木を、撮影させていただいたものである。こうして青虫を見ると、緑の葉っぱの間に葉脈と一体となっているが、しっかりした眼を備えている。いずれは蝶々となり、自由に空中を舞いかけるのだ。しばしの忍耐の時だろうか。そんなことを思っていたら、東大和から長女が車を走らせてやって来た。ベニカナメモチの「ごま色斑点病」の消毒のため、散布機を持参してだ。

 さっそく、消毒剤を買いに走り、散布機を動かし、すっかりビールスにやられてしまった、ベニカナメモチの木々に遅ればせながら、薬剤を散布し始めた。ところが、まだ家で購入して一回しか使っていないと言っており、中々思うように始動しない。何回か始動に失敗しながらも粘り強く、最後は散布機を思うまま動かすことができるようになった。ちょうど、そのころ、彼女が「薔薇の木に蜂が巣を作っている、今のうちに取った方がいいよ」と声をかけて来た。蜂の巣と言えば、昨年、滋賀の実家で射落とすのに苦労したが、まさかここではそれほどではないと思いつつ、「青虫」の生態に昨晩から感慨を覚えていたので、今度は「蜂」の生態が気になった。散布をそっちのけに蜂の巣作りを観察した。上左の写真がそれである。体長わずか、2センチほどの蜂で、巣そのものも1.7センチ平方の小さなものであり、長女もよくみつけたものであると感心させられた。今日の娘と言い、昨日の彼女の母と言い、二人とも繊細なのだ!

 今日から水無月、6月であり、関東にも早晩梅雨が始まる。季節は春から夏へと確実に動いている。植物の繁茂に合わせ、自然界は生き物の躍動する時なのだ。お隣さんの流儀に倣って、蜂の巣もそのままにしておきたい思いがあったが、さすがにこっちの方は家内も私も長女も巣を取ることで一致していた。ところが、取った巣を見て、心が互いに傷んだ。巣の中にはほんとうに小さな小さな卵があったからである。いのちの芽生えをこうして私たちが摘んでしまって良かったのだろうかという思いである。

 今朝、玄関先に仲良く「鉄砲百合」がつぼみを三輪見せていた。長女が庭仕事を終えて帰るときには、そのうちの一輪が花を開かせていた。ここにも生きる世界の成長がある。主に信頼して確かな歩みをしたいという思いに駆られた。

神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。(新約聖書 マルコの福音書4章26節〜29節)