2023年6月14日水曜日

半可通の『柏木義円』紹介(2)

 屹立し 電車見遣る 葵花
  線路沿いに、立葵は列をなして、赤、白、ピンクとここ三、四週間も、通る私たちの目を楽しませてくれている。傍を電車が時折、疾走して行く。電車道は、河川とは違うが、それでも異なる空気を運び入れ、運び出す。その空間は私には何物にも変えがたく思われる。

 さて、柏木義円氏のことについて、片野真佐子さんの説明を引き続いて転写してみる。先ず、「新島との出会い」と題する一文である(ミネルヴァ版23頁より引用)。

 1880年の暮れ、柏木は、木曽路の雪を踏みわけて京にのぼった。懐中には蔵原惟郭から預かった新島襄宛の同志社への紹介状があった。

 同志社入学は容易だった。だが、新島襄の担当するリーダーとヨハネ伝の講義には窮した。リーダーの時間ではthinkの発音につかえて、何十回もやり直しを命じられた。しかし柏木はうまくできない。照れ隠しに笑って、新島にその不真面目さをきつく咎められた。周囲はこれを越後なまりのせいだったかもしれないと噂している。さらに柏木はヨハネ伝のあとで祈祷を命じられた。そこでしかたなく口先ばかりの祈りをして誤魔化した。学費に欠くところもあった。ややあって柏木は、新島に事情を話し、漢学を教え僅かの手当てを得て学資に充てることにしたが、給費を忘れられ、新島に借財を申し入れてようやくことなきを得たこともあった。

 在学中の一年間に、質問もし議論もしたけれど、神を信じる信仰がなければ、霧中に霧を払うようなもので、質問も議論も無益であることを知らされた。宗教論をヒタとやめたこともあった。当時、柏木は、キリスト教に大いに惹かれ、キリスト教の力を認め、修徳にも、社会改善にも、キリスト教を措いて他に実力あるものはないと思っていた。だが、自分の理性がこれを容易に真理と認めず、学識が進めば審判をなすなど傲慢な考えを抱いていた。こうして経済的な苦境や授業での失態などが山積するなかで柏木の最初の同志社行きは終わった。新島への尊敬と思慕の念、それに自分に対する苦い思い出とが胸に深く刺さった。

 柏木は三回の山越えをして上州の寒村に戻った。


 ここには木曽路の行き帰り、すなわち中仙道を彷彿とさせられる文章を見ることができる。「木曽路の雪を踏みわけて」とは島崎藤村が『夜明け前』の冒頭に述べた「木曽路はすべて山の中である」を連想させられる。木曽路に江戸から飛脚が彦根に向かって走る。まさに幕末大老暗殺の報を知らせるためだ。そして10年足らずのうちに明治維新は始まる。その内外を描写するに藤村は主人公青山半蔵の姿を描き、その実相をあらわすにふさわしい小説をものしたが、我が柏木義円はそれを去ること10年余にして、京都同志社に向かうのである。

 たった一年の遊学だが、生涯忘れることのない新島への思慕の始まりであった。果たして、義円は京までそのまま中仙道を歩いたのだろうか。もし歩かれたとすれば、私の高宮の家の前も通られたことであろう。手元に『写真中仙道』(薗部澄著 社会思想社刊行)があったので「安中」宿(上図)と「高宮」宿(下図)を同書から引用させていただいた。

 さて、話を『柏木義円』のその後に、戻す。片野真佐子氏は「新島との出会い」に続き「西光寺炎上」「読項羽本紀」「虚言癖と眼疾」と述べ、最後に「回心」を述べられる。明日は、その「回心」を中心に同氏の文章を引き続き転写させていただく。(なお『義円』という名前は、言うまでもなく僧職にあった柏木家の嫡孫としての名前である。西光寺こそ越後予板にあった彼の本寺であった。柏木家は、初めは、上州安中で藩主であった井伊直好公のお抱え武士であった。ある時、藩主の山狩のお供をしたときに、あやまって子持ち猿を射殺してしまい、いのちの無常を感じ出家したのが、そもそもこのお寺の始まりであったと言う。)

イエスは彼(トマス)に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(新約聖書 ヨハネの福音書 14章6節)

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