2013年6月28日金曜日

祈りの学校(下)

私の父の農場の一小作人は、このような忠実なとりなし手の一人でありました。彼の名はイエルンといいました。私どもの主は、彼の誕生の時から彼にきびしい制限を与えられました。彼は視力が弱かったのです。その結果、暮らしていくのが非常に困難でありました。しかし彼はかなり立派にやりました。ハウゲ派の良い習慣に従って、兄弟たちが貧民救済委員の門へ行かなくてもよいように、キリスト者たちは世話をしました。試練と困難とがイエルンの運命となりました。そして幾日も、暗いわびしい日が続きました。

しかし彼は、神の大能の御手に自分をひくくしてまかせました。そしてこの苦しい経験の学校で、祈りの聖なる技術を徐々に会得しました。彼は日夜その郷土のために祈りました。そして時来るや神は彼を高めたまいました。彼はついに全教区の霊的顧問となったのです。人々は近所近辺から彼の忠告と助けとを求めて、彼の小さな住居を訪ねました。そしてイエルンは彼らに何も他に助けを与えることができなくても、その優しい心の真実な愛をあたえることが出来ました。その上彼らのために祈りました。そして年がたつにつれて、多くの人々が明るい足取りで幸福な心をいだいてこの貧しい住まいを去ってゆくのでした。

彼の晩年はまことに貧しかったのです。ともに住んで世話をした二人の老婦人が私にこう言いました。彼は夜も目をさましているのがつねで、めざめている間、教区の人々のために祈っているのを彼らは聞いた、と。また彼はその祈りを、私どもがしがちなように軽く考えませんでした。普通私どもはいそいでいて、十把一からげに全部を主のもとに持ってゆき、一つの祈りですべてを祝福してくださいと願うのです。

しかし老イエルンはそのようにしなかったのです。彼は頭の中で一軒の家から次の家へと行きながら一人一人の名をあげたのでした。彼はまだ見ないけれども、誕生したと聞き知った子どもをさえその祈りの腕に支えて、恵みの御座につれてゆかねばならないと感じたのです。

このような人々は私どもにとって、どれほど大きな意味があることでしょう。彼らがいなくなった時は、その人たちのいた場所はどれほど空虚となるでしょう。イエルンが残した生活の仕方には何かすばらしいものがありました。彼の死は美しい昇天のようなものであろうと誰でも考えました。そして、信仰者たちは彼と一緒にいて、看護する特権を得ようと互いにきそったのです。しかし、主は彼らが勝手にきめた期待をきわめて手ぎわよく、くつがえされました。イエルンは誰もその死を目撃するものもないまま死んだのです。彼を看護していた人も、その時台所へ何かを取りに行っていたのでした。

イエルンの告別式は、私の郷里で行なわれた最大のものでありました。彼はこの教区に引っ越して来たので、親族はなかったのです。しかし、人々は、近隣からこぞって集まって来ました。また彼らはその棺の側に立って、父親を失ったように泣きました。神のみことばを聞こうともしなかった神をおそれない人々も、その告別式に来ました。そして、彼らも泣いたのです。

死においても、イエルンは他人の祝福でした。彼の生も死も、ともに、「求めなさい。そうすれば与えられます」との聖書のみことばの成就でした。

(『祈り』O.ハレスピー著東方信吉・岸千年訳191〜193頁より引用。)

2013年6月27日木曜日

祈りの学校(中)

第三に御霊は、祈りにかかわる克己の必要を教えます。

祈りととりなしほど、他の行為にまして克己を必要とするものはありません。御霊は私どもをこの克己に召すのです。もちろん、とりなしの行為の大部分はひそかになされます。そしてこの種の行為は、人に見える行為よりもさらに大きな努力を払わなければなりません。自分のすることを人に見られることが私どもにどんなに影響があるかは、驚くばかりです。私どもには皆、他人の称讃を得ようとする非常な弱さがあるということだけでなく、また私どもの行為が感謝され尊ばれるということは、私どもにとって非常な励ましであります。

それに自分の働きの結果を見たがるものです。しかし祈りの働きは、起こったことが自分のとりなしの結果であるか、あるいは他の人のとりなしの結果であるかを、いつもハッキリと私どもが知ることの出来ないのがその性格であります。

この二つの事実が、祈りに関連して多分に克己を要求するのです。

主がこの行為を遂行する人を得たもうことの困難な理由こそ、これであります。説教する人を得るのは容易であります。多くの人が説教したくて、もし説教をたのまれないと怒るのです。また頼まれた私どもは説教に熱心ですから、一度説教台に立てばこれを退くことがむずかしいほどです。しかし祈りにかかわる克己の行為を引き受ける人は、そう多くはありません。というのは、見られもしなければまた感謝もされないからです。

あなたは近所の未信仰者のために祈って来たでしょう。多分何年間も、そして近所にリバイバルが起こる。そして第一に回心した人々が、あなたが熱心に祈ってやったその人々です。しかし、あなたより外にそのことは誰も知らない。正当なことながら、あなたはそれを神とあなたとの間の秘密にしておく。その結果、だれもあなたのして来たことを話しません。しかし、一方では、集会で話した説教者の名前が皆の口にのぼります。皆、声高く彼をほめて、「なんと偉大な伝道説教者だろう」と言うのです。

友よ、あなたがこの静かなそして認められない祈りの行為に疲れはじめた時には、ひそかに見たもうお方が、あらわにあなたに報いたもうことをおぼえてください。彼はあなたの祈りを聞きたもうのです。そして救霊のために、あなたが祈りによってなしとげたことを正しく知りたもうのです。かのさばきの日の前でないとしても、その大いなる日には、あなたはその働きの収穫を幾束もとりいれていくことでありましょう。

祈りという立派な、またむずかしい芸術のうちでも、とりなしの祈りがもちろん一番困難です。このことについての私の理解では、とりなしの祈りこそ人間のなしうる最も確かな労作です。(中略)

私の出会った、最も立派な、最も忠実なとりなしの人々は、多くの試練と非常な苦しみの後に、はじめて聖なるとりなしの技術を学んだのです。ある人々が最後に行なうことが出来たのは、私がお話したあのメンネドルフの婦人のように、もはや顔のはえを追う力もなくなって、ベッドに横たわることでした。

しかし、彼らは、どんなに祈ることが出来たのでしょう。

彼らは人には見られないで横たわっていましたが、しかも霊的な力の中心でありました。その単純な、そして忍耐深い祈りによって、彼らは近隣に、共同体に、国に世界の隅々にまでなされている教会の働きの主(おも)なる支持者でありました。

私はこれらの見えないとりなし手の一人に会う度に、大きな発電所を思うのです。彼らはまたしばしば人里離れた谷間に隠されています。しかしそれにもかかわらず、彼らは非常に重要であります。それは、特に働かなくなった時わかってくる事柄です。働きがとまる時、私どもの家庭は暗黒になり、私どもの工場は停止します。

(『祈り』O.ハレスピー著東方信吉・岸千年訳188〜190頁より抜粋引用。「主は・・・とりなす者のいないのに驚かれた」イザヤ59・16。昨日で私ども家族を襲った椿事から40日が経過した。実に多くの方々がとりなしの祈りをしてくださっている。私たちのまわりには日々信仰者のとりなしの祈りを必要としている方々がたくさんいらっしゃることも教えられつつある。とりなしの手を下ろすことがないように主よ導いてください、と祈りたい。)

2013年6月26日水曜日

祈りの学校(上)

さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」(新約聖書 ルカによる福音書11・1)

さてあなたは、「主よ、祈ることをわたしたちにも教えてください」とあえて祈りますか。これは正しいことです。正直でありなさい。あなたは試練、苦難を恐れています。また私もあなたも、お互いに神を恐れていることをよろこんで認めると思います。純粋な本能は、神が私どもを過酷に取り扱おうとしておられるというように、私どもにつげるかに思えます。そして同じ本能は、自己を信頼することができるということ、何が良いことかまた何が良くないことかを私どもが理解すると告げるように思われます。

しかし、この一事をおぼえてください。すなわち、あなたも私も、釘づけされた主の御手に自分をゆだねて、次のように告白するまでは幸福にならないということです。

 人生の海の暗黒の嵐をついて
 死が私にいどむところへ私をつかわしたまえ
 苦悩が私をこころみるところへつかわしたまえ
 御心のままに、愛しまつる主よ
 たえず、私の杖となるよう
 ただ御恵みを示したまわば

こうして、御霊が、祈り方を知らぬ人のために建てた祈りの学校に、あなたは自発的に登録するようになるのです。

祈りの学校に引き続いて在学しないので、清められた、優れた祈りの人となる人が少ないのです。その課程はたやすくはありません。そして困難は上に述べた肉体的、精神的試練だけではありません。この学校には、私どもの忍耐をひどく試みるものがあります。イエスご自身このことについて数回言っておられますが、ことにルカによる福音書18・1〜8に「失望せずにつねに祈るべき」ことを言っておられます。

私どもはたやすく落胆します。人のために、あることのために祈ることをせつに決心しながらも、幾度か次第に気落ちしていったことでしょう。その努力を続けようとしなかったのです。そして徐々に私どもは他の人のためにとりなしをすることを止めてしまいました。

祈りの学校の訓育を主宰するのは、祈りの霊であります。彼は各種の主題を与えないで、計画的にわずかの中心的なことに集中します。祈りに熟達するには、いろいろ多くの題目に精通する必要はありません。次のことだけを簡単に述べてみましょう。

第一に、毎日キリストを示すような機会が御霊に与えられなければなりません。これが絶対に必要欠くべからざることであります。キリストは私どもが彼を「見る」ことだけを必要とするおかたです。祈りは、私どもの心から出て来ます。自発的の祈り、確信の祈りです。キリストが祈りに答えたもうことを私どもは知るのです。またそれが主ご自身の喜びであることも知るのです。祈りと、とりなしとは、キリストと、祈る人との間の共同の喜びに満ちた不思議な力を持つ手段となります。

御霊の与えるさとしは、私どもの心にキリストを啓示しようとすることを妨げるいっさいのものを取り除くことをその目的としています。このことは前に「祈りの戦い」の章でお話しました。

第二に、御霊の与えるさとしは、私どもを熱心に求める者とすることを目的としています。とりなしの祈りは楕円形のように二つの中心をめぐって回転しています。すなわち、キリストと、私どもの窮乏とです。祈りにかかわる御霊の働きは、この二つを示し、単に理論だけでなく、実際にもこの二つを私どもの中に毎日毎日生き生きしたものにするのであります。

このことを毎日あなたの心に働かせるのが御霊であることを考えて、慰めを得なさい。自分の力で、あなたの目をキリストと世の窮乏とに見開くよう努力する必要はありません。

いや、あなたのすることは、みことばの中で、また祈りを通して、御霊がキリストについてまたあなたの窮乏について、語りたもうのを聞けばよいのです。このようにしてあなたはまもなく祈りと、とりなしに進歩をとげているのを見るでありましょう。

(『祈り』O.ハレスピー著東方信吉・岸千年訳185〜187頁より引用。)

2013年6月24日月曜日

召された聖徒は恵みと平安につつまれる

浅間山 2013.6.22
ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。(新約聖書 ローマ1・7前半)

こういう特徴ある呼称は美しく、かつ注目に値します。「神に愛され・・・召された聖徒たち」世の人々は、神様が自分たちを罪・咎から引き離し(主のものとして)買い戻すために、ひとり子を犠牲にされたほどに愛されているのです。神様の愛は、罪人を聖徒とするように召しておられる事実と分かちがたく結びついているのです。聖徒として、世の人々は神の契約の民であり、神の愛と関心の的であります。

キリストにある人はどんな人も神の聖徒の資格を持つのです。例外は一切存在しません。中間層は存在しないのです。人間の間に罪がいかにあろうとも、神様との関わりにあっては二つの階級しか存在しないのです。言うならば、キリストを信ずる者とキリストを信じない者、聖徒であるか罪人であるかということです。聖徒であるとはキリストの功(いさおし)と価値を受け取ることです。決して自分のものでない(キリストにある)譲りを分与されるのです。もっとも成熟した聖徒であっても自分自身では無罪ではなく聖くはありえないのですから、このことは神様の恵みの賜物でしかないのです。

神様はあらゆるキリスト者を聖徒として聖くご自身にふさわしい者と見てくださいます。なぜならキリストが聖であり、受け入れられる方であり、あらゆるキリスト者は「キリストを着て」いるからです。キリストの完全な罪滅ぼしの血潮だけが神様の前で有効であります。だから、キリストの血潮によってきよくせられた人はどんな人も「聖徒として召され」た聖いものとみなされるのです。キリスト者は神様の目からみて、聖さにおいて同等です。私たちの主が死なれ、よみがえられた働きをとおしてキリスト者は同等に義とされるのです。

ある信者は聖化において成長しているかも知れません。ある信者はキリストにあって子どものようであったり、青年のようであったり、父や母のようであったりするかもしれません。またある信者はその信仰が強いかも知れません。弱いかも知れません。またある信者は何事にも怠りがないかも知れません。ところが他の信者はとてもそうでないかもしれません。

けれども、(キリスト者はいかにあろうとも)あくまでもキリストによって聖と義を同等に持つのです。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。(ローマ1・7後半)

この使徒のあいさつは、真の祝福の基(もとい)である「恵み」と「平安」に言及しています。神の御霊が信者の心のうちに働くように、あらゆる善行をもたらすのは恵みです。恵みの泉から神のいのちに貢献するすべてのものが注ぎ出されるのです。恵みは神様の召しに形となってあらわれ、新生を与え、信仰を強め、成長させるのです。

ルターはこういうことを次のようにコメントしました。「恵みと平安が全キリスト者生活を大きく包むものである。恵みは罪・咎の赦しに結びつき、平安は不義から解放された良心に結びついている。」 人がそのことを悟るとき、どんな悪も父なる神様の知ることなしには起こりません。悪魔は心の真の平安たりうることよりむしろ信者のための祝福だけを求めるのです(When one has learned that no evil can befall without the Father's knowledge, and that he wills only blessing for the believer, than there can be true peace of mind and heart.)

使徒パウロは私たちのためにこの平安を示しています。それは神的で天的な平安です。主が「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14・27)とおっしゃった時、このことを話されたのです。

((Romans a devotional commentary by C.O.Rossenius 5~6頁 私訳。なおこの本の原著はロセニウスの母国スウェーデン語で書かれており、その英訳の訳である。例により英文併記は誤訳の恐れなしとしないところである。 )

2013年6月21日金曜日

答えのない祈り

ここで答えのない祈りについてすこし語りましょう。

答えのない祈りは、私ども、特に子供らには非常な困難を与えることは否めません。子供らはイエスに祈ることを教えられました。彼らは主が親切で慈しみ深いことと、ご在世中彼に来る人をことごとく助けられたことを聞かされて来ました。その結果として彼らは、大小ことごとく確信をもってイエスに祈るのです。そしてその祈ったことを受けるよう本気で期待しています。

たいへんな危機が子供の生活にやって来ます。子供はイエスに何もかも祈ったが、その祈りに答えが与えられない。

ここで私どもは子供に助言をしてその事柄の説明をしてやらねばなりません。また子供と語るには写実的に語らねばなりません。そうでないと理解できないのです。例をもって説明しなければなりません。

たとえばときどき新聞で見る子供たちの事件、すなわちあやまって空気銃あるいは普通の銃で自分をうって生涯びっこになったり、また時には子供がそのようにして死んだりしたことを彼らに話してやることができます。これがどうして起こったか。

彼らが父や母に空気銃をねだったからです。また不幸にも彼らが求めたものを受けたからです。もし父母が十分考えてそんなに危険なものを与えなければ、そんな恐ろしい不幸に陥らずにすんだでありましょう。

このことは、私どもが神から、求める事柄を与えることをこばまれる時でさえ、神はあわれみ深くあることを、子供たちに教えることになります。

これについて私どもはこの教訓を繰り返し繰り返し学ぶ必要があります。というのは私どもはすぐ忘れるからです。私どもは生まれつき自信が非常に強く自分にとって善いことを自分が一番よく知っていると思っています。そして神が問題について別の考えをなさると、すぐ神は私どものことを考えないと疑うのです。大使徒さえ答えのない祈りを経験しました。

パウロはある時三度も祈ってなお求めたことを受けなかったことを語っています(コリント人への第二の手紙12・9〜10)。それは明らかに伝道事業に非常な妨げとなっている病気の問題でした。それを取り去りたまえと神に祈ったのです。しかし、神は彼の祈りをきくことをこばみたまいました。

この拒絶は、確かにパウロがその病苦を逃れるためだけに、肉体の刺が彼から取り去られるようにと祈って、祈りを誤用したからではありません。逆に彼はその伝道の働きのために、この刺が取り去られるよう祈ったのです。彼の祈りの真の目的は神の御名をあがめんためでありました。それにもかかわらず、彼の祈りは容れられなかったのです。

パウロがこのことについて三度祈り続けた時、彼は自分の個人的利益のためではなく、神の御名のあがめられんことのために祈っていることを意識していました。

それでも神が祈りを聞きたまわなかったのはパウロがその病苦の中にいつまでも在ることによって、神の御名が一層あがめられるからでありました。このようにしてパウロは、いつもけんそんであって神の力を受ける状態におかれていました。

この祈りのたたかいを通じて、神との交わりの大きな秘訣を学びました。それを彼は、このように申しています。「私が弱いときにこそ、私は強いからです」と。

イエスでさえ御父が答えたまわなかった祈りをなされたのです。そして彼もまた、三度「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。それはゲッセマネであったのでありまして、イエスが人類の救いのために受難死しなければならないという、いつもイエスには明確であった事柄を、サタンが彼を誘惑して、おぼろにするように神の許しを受けた時です。

しかしあの試みの暗黒の時にさえ、イエスの純真な従順なお心を私どもは見るのです。彼はその試みを暗黒の中でどんなに感ぜられたかを率直に御父に語りたまいました。しかし、それでも、彼の祈りたもう真の願いは「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」でありました。このことから、祈っていることが、本当に正しいかどうか、私どもが祈っている最中に疑いをもつのですが、神に祈る時、きまった願いをことばに出すことを恐れてはならないことを私どもは学ぶのです。

これにかかわりなく、あるきまった事柄、すなわち、天の父に話したいと切に感ずることを、祈り求めなければならないと私は申しておきます。しかし、同時にイエスのなされたように「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように」とつけ加えなければなりません。

(『祈り』O.ハレスピー著東方信吉・岸千年訳149〜152頁より引用。 )

2013年6月20日木曜日

瀕死のミコニウスは回復した。なぜ?

「薔薇」に「しゃくやく」に「ガーベラ」 愛の花束
前にも述べたように祈りにおける不安は、祈りの霊に逆らうところから来ます。しかし、祈りにおいてただ神の御名の栄光だけを求める時は、私どもは祈りの霊と安全な調和にいるのであります。

その時祈りの際もその後も、私どもの心はいこいを得ます。その理由は祈りによって神の御名のあがめられんことをのみ求めているということです。

そうすると私どもは主を待つことができます。祈りの答えが早くてもおそくても主の御名のあがめられるために最もよく役立つ事柄を決められるよう主の御心にゆだねて待つことを学ぶのです。

祈る人がその祈りによってただ神の御名の栄光のほか何物も願わないとするならば、祈りがどんなに大胆でしつこくなることさえあるものであるかということを示すために一例を挙げてみましょう。

1490年ルターの親友、フリードリッヒ・ミコニウスが瀕死の病になりました。彼も他の人々も間もなく死ぬだろうと考えました。ある夜彼は最も親しくしているルターになつかしい別れのことばを震える手で書いたのです。

ルターはこの手紙を受け取って次のようにすぐ返事をしました。「私は君に神の御名において生きることを命ずる。なぜならば教会を改革する働きに君はなくてはならぬからだ。・・・主は君が死んだということを私に聞かしめたまわないで君を私より長生きさせてくださるであろう。このために私は祈っている。これは私のこころである。このこころの成らんことを。なぜならば神の御名があがめられんことを求めているのみだから」。

ルターの手紙が着いた時ミコニウスは既に語るちからを失っていました。しかし、しばらくして彼は回復したのです。そして正しく彼はルターより一ヵ月長生きをしました。

祈りの時「あなたは私が個人的な優位のためでもなく、また困難を避けるためでもなく、何でもかでも私の意のならんためでもなく、ただこのため、すなわちあなたの御名のあがめられることのためにだけ祈っていることをご承知であります」と神を見つめて語ることができる時ほど祈りにおいて私どもを大胆にするものはありません。

このように祈るなら、願いが聞かれない時もまた心の平安を得るでありましょう。

(『祈り』O.ハレスピー著東方信吉・岸千年訳147〜149頁より引用。「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです」ヨハネによる福音書14・13。)

2013年6月19日水曜日

イエスさまに窮乏を差し出すことができる恵み

しゃくやくと紫陽花、こぼれる笑顔
まじめに祈る読者の中には、今にいたって(※私が祈りは神の御名があがめられるように祈る祈りがたいせつであると言ったことで)必ずゆううつに感じる人もあるでしょう。今まで話したことから、あなたたちは祈りの神聖なる特権をまったく誤解し、誤用してきたのではないかと不安に思いはじめているでしょう。あなたたちは毎日の祈りの生活で、大小あらゆることを神に語って来ました。最も小さなことも神に求めたでありましょう。

そしてこれが祈りの誤用であること、それゆえに直ぐに止めるべきだということを思っておられる。深い嘆息が心から起こってくるのです。

いやいや、わが友よ、決して止めてはなりません。逆にあなたが神と語る毎日の会話に、もっともっと単純な心を与えられるように祈るべきであります。日常生活でなんでも神と語ることができるほどに、神と打ち明け話が出来るよう祈りなさい。これが神の求めたもう事柄であります。これこそが神が私どもに祈らせようとなさることであります。あなたは必ず次の聖句を思い出すでありましょう。

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリピ4・6)

私どもの日常生活にはきわめて容易に憂いとなるものがあるのを神は知りたもうのです。私どもの日常生活が決して大きな事柄ではなく、小さな事柄からなり立っていることも知りたいものです。それですから彼は、私どもを親しく招いてこう言われます。「これらの小さいことをみんな私のところへ持っていらっしゃい。心から喜んであなたを助けましょう」。

あなたの日常生活のことで、これは仔細なこと、問題にならぬことだからといって、主が祈りに答えて助けを与えられないというものは何もないことをしっかりと記憶して置きなさい。あなたは失った鍵を捜すことがあるでしょう。その鍵を手にしなければならない。いそいでいるが見つからない。信頼をもって神に行き、そしてあなたの苦境を告げなさい。あるいは、あなたの小さい子どもが外で遊んでいることもありましょう。その子供を自分のかわりに用をたしにやりたい。しかし捜す時間がない。自分で用たしに走る時間もない。確信をもって天にいます父にそれを告げなさい。

しかしながら前に述べた祈りは神の御名をあがめる目的で定められていることを忘れてはなりません。それだから大小何を祈るにしても、それが御名をあがめることであるならば、「私の祈りを聞き、助けたまえ。しかしもし御名をあがめることにならないならば私を苦境のなかにおきたまえ。このまま、今あるままの境遇で御名をあがめる力を与えたまえ」と祈りなさい。

ある人はこんなことは祈りの力と熱を弱めると思うかも知れません。しかし、それは要するに祈りの誤解によるのです。祈ることは私どもの窮乏に対してイエスを迎えることです。このように祈ることによってのみ、心をイエスに開くことに成功するのです。これは、神が望みたもうからだけでなく、神が望みたもうた時にもまた、私どものためにその御力を働かせたもう機会を主に与えるでありましょう。

その時平和とおちつきが私どもの心にあふれます。

(『祈り』O.ハレスピー著東方信吉・岸千年訳145〜147頁より引用。※は引用者がつけくわえたもの。)

2013年6月16日日曜日

主は支えてくださる(結) ゴットホルド・ベック

パリバガテル公園 by Nobuo.Y   2012.6.17
6番目。「主の保障」について書かれていますね。

倒れてもまっさかさに倒されはしない

とあります。このみことばによって、倒れても、どんなにひどい倒れ方にしても、それは決して終わりではないことを保障しておられます。

信仰の父、神の友と呼ばれたアブラハムは倒れました。けれども、彼は回復されました。ヤコブは倒れました。しかし、彼もまた、神の恵みによって造り変えられました。ダビデは倒れました。しかし、主は彼を赦し、御心にかなった人を造り出しました。サムソンは倒れました。しかし、主は彼に新たに出会ってくださり、神の敵を全滅させるために、彼をお用いになりました。これらの人たちが倒れた時、それは主にとって大きな苦痛でしたでしょう。

イエス様を心に受け入れた人は、主のものです。しかし、いつまでも主のものです。私たちはみな倒れることがあります。けれども、それにもかかわらず、私たちは、主のものです。主は、われわれを愛し続け、忍耐を持ち続けてくださいます。そして、主はわれわれを決してお見捨てになりません。私たちは主の羊に属しています。私たちは、羊としてさまよったり、道に迷ったり、愚かさを重ねるようなことをすることができますけれど、主は次のように約束しておられます。よく知られている箇所です。ヨハネ伝10章27節

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。

とイエス様は約束してくださいました。主に属する者は、誰でもこの主の保障を大いに喜ぶべきです。将来何があっても、主はわれわれをお見捨てにならない。われわれを導き、目的地まで連れて行ってくださるのです。ユダこそがそれをまとめて書いたのです。436頁ですね。ユダ書の24節、25節

あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。

と。主は目的地まで連れて行ってくださることができます。主はそれをご自身でなさることを保障してくださいます。

さて、そこに最後の点すなわち7番目の点は、主がこれをいかになさるかを示してくださいます。7番目、「主の力」についてですね。

主はその手を支えておられる

とあります。主は倒れた人を抱き、支えてくださるという意味です。信者は倒れることがあります。そして堕落してしまうように思われます。しかし、実際は主ご自身がその人の下に御手を入れてその人を支えてくださるのです。ですから、この人は完全に駄目になることはできません。ペテロはこのことを経験しました。マタイ伝の14章を見ると次のように書かれています。これを最後に読んで終わります。マタイ伝14章の30節と31節です。

ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」

主は支えてくださる。これは主の約束です。私たちも、私は主の御手のうちにあるということを知ることが許されています。主は御手を決して引っ込めません。決して私を離しません。私たちが主から逃げようとすることがあるかも知れない、しかし、主はしばらくの間、自分勝手な道を行かせることをなさるとしても、最終的には決してお見捨てになりません。主はあきらめず、必ず回復してくださいます。私たちは、新たに主に余すところなくゆだねることができれば本当に幸いです。

( 以上が6月12日の家庭集会の夜のメッセージである。全体を通じていかにこのメッセージが万人向けに語られたメッセージであるかがわかるであろう。ある方は「大切なかけがえのない家族に与えられた病のこの試練は、経験した者にしか解らない苦しみや悲しみがあります。家族も深く傷ついています」と最近寄越してくださった。ほぼ一月前に私たちも愛する者が倒れた。今も日々倒された状態が続いている。しかし、主はそのような苦しみがあるにもかかわらず、なお回復への道を確実にお約束してくださっているとは何と幸いなことだろうか。)

2013年6月15日土曜日

主は支えてくださる(転) ゴットホルド・ベック

パリバガテル公園 by Nobuo.Y   2012.6.17
しかし、驚くに値することはわれわれの主題のみことばにおける次の事実です。4番目ですね。「主の喜び」についてです。

人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。

と書いてあります。ある時、主が人間を見て、少しも喜ぶことができない時代がありました。現在も引き続き、罪の結果として混沌というものによって特徴づけられているのではないでしょうか。多くの人は、主に逆らい自分勝手な意志を利用します。人は、主の道を行きたくないと思います。それで、主はそのことを深く悲しんでいらっしゃったのです。創世記の6章を見ると次のような箇所があります。創世記6章5節

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

とあります。 しかし、詩篇の作者であるダビデは37篇の23節を見るとわかります。全く違ったことが述べられています。すなわち、主は、主に属する者を見て喜ぶことができる、と明言されています。私たちが主に明け渡し、それによって、主が私たちの生活に秩序をもたらすことがおできになる時、それは主を非常に喜ばせます。しかし、残念ながら、しばしば起こることは私たちが人生のたづなを主の御手から取ろうと思い、その結果、いつも救いがたい混乱が生じるのです。私たちは、馬や騾馬に多かれ少なかれ似ているのじゃないでしょうか。ダビデは詩篇の中で32篇8節9節。次のように言ったのであります。

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。

馬は行き先も不確かなところへ走り、疾走して行きます。騾馬はしばしば全然動かなくなってしまい、強情になります。何としばしば、私たちは馬か騾馬かに似ていることでしょう。けれども、主ご自身は私たちを導きたいと願っておられます。それによって、私たちの生活に秩序をもたらしたいと願っておられます。主は、手綱を握りたいと思っておられます。これこそ、主の喜びをもたらします。もちろん、主は、われわれのうちに何があるかをよくご存知です。主は、われわれの弱さ、みじめさをご存知です。主は、われわれを隅々まで徹底的に知っておられます。主は、将来を見てわれわれの失敗を直してくださると約束しておられます。主は、われわれを目的地まで導くことをわれわれに保障してくださいます。

それによって私たちは5番目の点に辿り着きました。すなわち「主の預言」、すなわち

その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。

私たちは、何としばしば倒れたことでしょう。しばしば罪を犯すことでしょう。しばしば自分勝手な道へ行ってしまったでしょう。イエス様を心に受け入れた人は、前に学びましたように「良い人」です。 それはその人が自分の債務を持って主のみもとに来てイエス様ご自身の義が与えられたゆえに、「良い」のです。私たちはたとえ救われていても、実際はしばしば過ちを犯し、主を辱(はずかし)めます。けれども、主はすべてを預言なさり、次のように約束してくださいます。「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。」これはすばらしい約束なのではないでしょうか。

私たちが騙され、妥協してしまう時、われわれの肉に活動の余地を与えてしまう時、そしてそのことによって束縛される時、悪魔がわれわれを襲い、私たちが悪魔の手の中で全く無力となり、われわれの債務のことで絶望してしまう時、私たちは、次の主の約束により頼むことが許されています。

その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。

主は赦し、回復なさる備えを持っておられます。有名な箴言28章13節

自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

とあります。主のみことばは、私たちが信者としてもはや罪を犯すことをできないとは、どこにも教えていません。われわれの死に至るまで、誰でも最も恐ろしい罪を犯すことが出来るのです。けれども、神の霊に活動の余地を与え、主にすべてを明け渡し、主に導いてもらいたいと思う者は主が勝利を与えてくださいます。ローマ書8章37節

私たちは、・・・圧倒的な勝利者となる

と約束されています。

しかし、私たちが倒れるとしても、主はわれわれを愛し続けてくださいます。わたしのところに来る者をわたしは決して捨てないと主は約束してくださいました。主は決して捨てないと約束してくださいましたが、われわれ人間は放棄してしまい、退いてしまい、驚いて逃げてしまうのです。けれども、主は決してそういうことをなさいません。主は回復してくださる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。これこそ、主の約束であり、そして主は主のみことばを守ってくださいます。主は主に属する者たちを栄光へと導いてくださいます。

(何と繰り返し同じみことばが語られていることでしょうか。それだけ私たちが倒れる者であることが真実であるということです。でも、その私たちは主を信ずる限りまっさかさまに倒されないと約束されているのが「主の預言」です。何たる主の恵みでしょうか。主を心から賛美しようではありませんか。次回でこのメッセージは終わりです。)

2013年6月14日金曜日

主は支えてくださる(承) ゴットホルド・ベック

パリバガテル公園 by Nobuo.Y   2012.6.17
二番目、「主の目標」について、ちょっと考えてみたいと思います。もう一回23節に戻りまして

人の歩みは主によって確かにされる

と約束されています。すなわち、主ご自身が私たちの歩みを確かなものにされたいと願っておられます。主ご自身がわれわれの人生を主の御手のうちに治めたいと願っておられます。

主はわれわれの生活が主と結びついていること、そして主の御心はわれわれを通して実現されることを望んでおられます。主は私たちの人生のために一つの計画を持っておられます。そして主はこの計画を実現することがお出来になります。私たちが経験することの出来るもっとも良いことは、この計画が実現されるということです。

というのは、私たちだけではなく、われわれの周囲の人たちもまたそれを通して豊かに祝福され、主が栄光をあらわされるのです。われわれの生活は秩序づけられなければならない。確かに私たちの内面的な成長を妨げるような働きをするたくさんのものがあるでしょう。暗やみはただ光によってのみ追いはらわれます。罪を隠す者は決して成功しません。

「主の目標」は私たちの人生を造り変えることです。イエス様の内住のご支配によって、すべてのものは新しくなるはずです。主は私たちの歩みを確かなものになさりたいと願っておられます。私たちの生活は混乱のようなものではなく、美しくなるべきです。私たちが意識してすべてを主に明け渡す時、主は新しく造りかえてくださり、新しく良いものを造ってくださるのです。

けれども、主はそれをいかになさるのでしょうか。主はいかにわれわれを導き、確かなものにしてくださるのでしょうか。
答えは三番目ですね。「主の方法」とは、いったい何なのでしょうか。

主がわれわれを身元に引き寄せてくださり、私たちが主を信ずるようになった時、その時、主はわれわれに次のような説明書をもって(説明書をもった設計図を)われわれに手渡したのではなかったのです。すなわち、あなたの人生は今からこのようになるでしょう。あなたはこの地上にこれだけの年月いることになるでしょう、こういうことを、こういうことが起こり、それから何年何月何日に召されるようになります。主は決してこのようなわれわれの人生の設計図をお与えになったのではない。主は常に一歩一歩導いてくださるのです。

サウロ(のちのパウロ)は、ダマスコへ行く途中、イエス様のものとなった時、次のようなことばの青写真を全然もらいませんでした。今日からあなたの死に至るまであなたの一生はこういうものになると。主は彼にただもっとも近い歩みだけを示しました。主はサウロが主に対して開かれた耳を持っていましたので、次の歩みを彼にお示しになりました。「主よ私は何をしたらいいなのでしょうか」という正直な願い求めに対して、次のようなはっきりとした答えをサウロはもらいました。使徒行伝9章の6節、パウロの証は使徒行伝の中で三回書かれていますけれど、9章は一番よく知られていることでしょう。224頁です。

立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。

主は、私たちにもただ次の歩みだけをお示しになります。そして、私たちがそれに十分に従う時、主は私たちに次の第一歩を導いてくださるのです。これこそ、神の方法であり、信ずる者を導いてくださる方法なのです。

主は、私たちが絶えず主と結びついていることを望んでおられます。主は、私たちが意識的に主により頼むことを望んでおられます。というのは、ただその時だけ、主は私たちを主のご計画にしたがって導くことがお出来になるからです。私たちはただ次の第一歩だけを見ることができます。実際には私たちは秘密の命令にしたがって旅をするのです。

アブラハムもそういう風に導かれたのです。彼は今からいかなる地へ、行くべきかを知らずに、自分の土地を離れなくっちゃならなかったのです。主はアブラハムにいつも次の一歩だけを示してくださいました。私たちもまたそのように導かれるのではないでしょうか。毎日が「戦い」の連続でしょう。そして、主は、私たちが翌日のために心配してはいかんと命令しておられます。主ご自身が導いてくださるのです。この事実はわれわれの重荷を軽くして喜ばしいものにしてくれるはずです。

というのは、ただ主は私たちの最善だけを考えてくださるからです。主はどうしてこの方法をお選びになったのでしょうか。その理由は私たちがエノクのように主とともに歩むことを学ぶためです。創世記の5章24節に書いてあります。

エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

神とともに歩む歩みは一歩一歩、歩む歩みです。信ずる者としてのわれわれにとって、余りにしばしば過去ばかりを振り返ったり、不確かな将来を見極めたいと望むことじゃなくて単純に幼子のように次の歩みのために主を見上げることが大切です。主はわれわれを導いてくださると約束してくださいました。そして、主はみことばを必ず守られます。

主がわれわれを導くことがおできになるための前提条件は、主との交わり、主と結びついていること、そして、主に対する幼子のような信頼です。導いてくださるお方、われわれのために道を平らにしてくださるお方、私たちがすべてをゆだねることができるお方、あらゆる圧迫と重荷と心配から解放してくださるお方として、主を知ることが許されるとは何というすばらしいことでしょう。イザヤ書の28章の16節を見ると次のようなことばが書かれています。1070頁です。

信じる者は、あわてることがない。

全能者は決して急ぎません。それですから、私たちはすべてを安んじて主の御手にゆだねることができます。内面的に解放され、重荷を軽くされて私たちは主を喜ぶことができます。というのは、主ご自身が私たちを導き守ってくださると約束してくださったからです。そして、主は主のみことばと御約束を必ず守ってくださいます。

(明日もこのメッセージは続きますが、最後の御約束は「みやくそく」と発音されています。ドイツ人の方が今もこのような美しい日本語を駆使されるとは何と言うことでしょう。それよりも今日のメッセージの内容は何と慰めに満ちたものでしょうか。重荷を負う者の心に直接語りかけて来る主なる神様からのメッセージじゃないでしょうか。)

2013年6月13日木曜日

主は支えてくださる(起) ゴットホルド・ベック

パリバガテル公園 by Nobuo.Y   2012.6.17
今歌われた歌(日々の歌11番)はドイツで恐らく知らない人はいないかもしれない。こどもの歌です。主は「愛」そのものである。聖書の中心テーマではないでしょうか。すなわち、どうしようもない人間は、何を知るべきか、信ずべきかなどではない、主は愛する者です。信じられにくい、悩んでいる人々は、「どうして」「なぜ」と考えます。けれどもいつかわかります。今読んでもらいました箇所、詩篇37篇はもちろんダビデの告白です。2節だけもう一回読みます。23節、24節

人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。

本当にすばらしい約束です。全能なるお方はどうしようもない人間を導き、守り、目標をもって導いてくださることを約束しておられます。これらの事実は段階的に証されていますね。

第一番目「主の(わたくしたちについての)記述」、それから「主の目標」 、また「主の方法」、四番目「主の喜び」、五番目「主の預言」、六番目「主の保障」、そして第七番目「主の力」について、詩篇の作者であるダビデは証したのです。

まず、「主の記述」についてです。主は、主が導き、守り、目的地まで連れて行きたいと思っておられる。これこそすばらしい事実です。主の約束は誰にあてはまるのでしょうか。私たちが考えられているのでしょうか。主は誰のことを言われているのでしょうか。

この日本語の訳語にはひとつのことばが抜けてしまっているようです。すなわち、日本語の聖書は 「人の歩みは主によって確かにされる」とありますが、原語を見ると、本来は「良い人の歩みは主によって確かにされる」となっているのです。それによって、ここにあらわれてくる問題は、当然のことながら、いったい誰が良い人なのでしょうかということになるわけです。私たちはみな、私たちが決して良い人間ではないことを知っています。ソロモンは何と言ったか。伝道者の書の7章20節ですけど、ひと文章です。

この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。

となっているんです。いかなる人間も、人そのものは立派であるという人はいません。イザヤ書の中で、イザヤ書とは旧約聖書の福音書と呼ばれているものですけど、イザヤ書の64章の6節に

私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。

とあります。別の言葉で表現するなら、どんなに立派な人であっても、主なる神の目には無価値であるということです。主は人間から出て来るものを何一つ受け入れられない。私たちの最もよいものというものは、主にとっては忌まわしいものです。パウロは次のように証しするとき、そのことを言っているのではないでしょうか。有名なローマ書7章18節

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。

人間は、人間の全く滅ぶべき性質についての知らせを、(今日多くの人々は)時代遅れだとみなしたいのです。人道主義者たちはそのような言明を聞くと怒り猛ります。そして実際は悪魔の努力が功を奏し、多くの人々は自分がそれほどひどくはない。少なくとも隣の人よりはひどくないと思い込んでしまうのです。しかし、主はわれわれ人間が悪い者であり、正しくない者であり、決して愛されるに値しない者であると断言しています。これが、主のご判断です。

そうすると良い人に対する約束はわれわれにもあてはまるなのでしょうか。良い人とは、主が正しい人ということがおできになる人です。そして、主はだれのことを正しい人だとおっしゃるのでしょうか。それは自分が劣悪の者であると認識し、すべての苦しみ、債務、罪をもって主のもとに避け所を求める人です。また、それはあわれみを乞い願い、自分の債務を告白する人です。そのような人に赦しが与えられます。

それですから、もはや自分の力や良い行ないに基づかず、イエス様に信頼を置く人こそ、ここで言う良い人のことです。パウロはローマにいる人々に書いたのです。1節です。ローマ書13章14節

主イエス・キリストを着なさい。

とあります。「主を着る」とは、主を個人的な贖い主として受け入れ、罪の赦しを確信することを意味します。1コリント1章30節とは本当にすばらしい箇所です。この30節によると、主は私たちにとって「義」となられました。主なる神の前に役に立つ義とは結局イエス様ご自身です。それですから、イエス様を持っている人は義とされているのです。それはその人が良いことを行なったからではない、ただイエス様のために義とされるのです。自分の過ちまた債務を持ってイエス様のみもとに行き、罪を告白する人はだれでも、いつでも受け入れられる、ということはすばらしい事実であり、本当の意味での福音です。イエス様こそただひとり、正しい罪なきお方であり、主なる神によって受け入れられるただひとりのお方です。それですから主イエス様によって受け入れられている人は、それによって受け入れられる者、そして受け入れられた者に属しているのです。イエス様の義は私たちが主に信頼を置いたゆえにのみわれわれに与えられています。すでにイザヤはこのすばらしい経験をしました。イザヤ書の61章の10節です。1126頁になりますが

わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。 

主の目に良い人というのは、あらゆる芝居をやめて、飾らずに、自分の債務を意識して恵みを願いイエス様の功績に信頼を置く人だけです。イエス様を信ずることによって義とされた人こそ、聖書に言っている「良い人」ですって。

私たちは主の目に良い人に属しているのでしょうか。良い人というのは自分の悪い性質を認識し、告白した人であり、主イエス様にある神の義を受け入れた人です。債務を持った罪人としてイエス様の身元に来る者は必ず受け入れられます。その人はイエス様の義が与えられます。イエス様に信頼を置く人は生けるまことの神が良い人と呼んでくださる人々に属しています。主はそういう人たちとともに来てくださり、そういう人たちを導き、守ってくださると約束しておられます。

 (昨日の夜の家庭集会の聞き書きである。都合4回にわけて連載する予定である。)

2013年6月12日水曜日

主は私の祈りを聞いてくださる

久しぶり雨天での今日の家庭集会※
ここで祈りの目的と意味とが私にはじめてわかって来ました。ここで以前にもましてハッキリと、神の御名のあがめられんためという祈りの目的を知る特権が与えられたのです。

目からうろこが落ちました。私は新しい光の中で祈りの誤用と、祈りにおける私どもの努力の位置および祈りにかかわる困難さを知ることができました。

祈りの生活には生活の他のことと同じようにそれ自体の法則があります。祈りの根本法則はこれです。すなわち、祈りは神をあがめるために与えられ、また定められているということです。祈りは救いの超自然的力を働かせたもう機会をイエスに提供する指定せられた道なのです。こうして彼は私どもを用いようとしておられます。

私どもは祈りによって、私どもの霊に、肉体に、家庭に、隣人に、国家に、全世界に、信仰者の交わりに、未信仰者に、近づきたもう機会をイエスに提供すべきであります。

私どもがもし自己の便宜や愛する者の便宜のために神からもぎ取るのでなく、また患難や困難から逃れようとするのでなくて、神の御名をあがめる物を、私どもに、また彼らの上に、天より降したもうよう祈りを用いるならば、小さな弱い祈りの生活にも、祈りについて聖書にある、最も強く最も大胆な約束を、私どもは見るでありましょう。その時、いまだかつて思いもかけなかった祈りの応答が可能であることがわかります。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」と記されているのです(ヨハネの第一の手紙5・14〜15)

使徒ヨハネは自分の祈りの経験と読者たちの経験から、もし私どもが神の御心に従って祈れば、求めた瞬間に私どもが祈り求めているものを既に得ているという事実を立証しました。それはこのように天より私どもにただちに与えられます。求めている間はそれがいつ来るかハッキリわからないが、しかし神の御手によって神を知った者は、それをいっさい神の御手にゆだねることを学び、またその応答が即時にしろ、おそいにしろ、どちらでも同じように幸福に暮らすことを学ぶのです。

(『祈り』O.ハレスビー著東方信吉・岸千年訳144〜145頁より引用。※昼間の集会は「主のために生きる大切さ」という題で、ローマ6・12〜22、7・14をもとに語られた。深い、密度の濃い内容で何度も聞き直さないとわからないと思った。夜は「主は支えてくださる」という題だったが、詩篇37・23〜24を中心に①主の記述②主の目標③主の方法④主の喜び⑤主の預言⑥主の保障⑦主の力の7つに分けて話されたが、試練の中にある私たち家族が必要としている内容だった。明日から少しずつその聞き書きを載せたいと思う。この日、昼間と夜の集会の間には、場所を移して96歳で召された方の納骨の集いがその方のご長男のご家庭で行なわれた。なお、次回の家庭集会は7月の予定である。)

2013年6月11日火曜日

2 The seed of greater things(4)

パリバガテル公園 by Nobuo.Y   2012.6.17
それでもってすべては終わるはずであった。オズワルド・チェンバーズは大戦間で亡くなった英国人の何十万人の一人に過ぎなかった。彼の同世代の人々が何ヵ月にもわたってあるいは何年もの間、時々彼について話すのを期待するだろうが、その言及は時が経つにつれ世代が変わるにつれ色褪せたものとなるはずだった。ところが正確に言うとまさに正反対のことが起こったのだ。今日彼が生きていたときよりたくさんの人が彼の名前や書き物を知っているのだ。

チェンバーズが死んで長年経つが、彼のことばは今なお世界中の人々の心にあり、口の端にのぼるのだ。彼の名前を冠する書物は毎日文字どおり数百万の人々によって様々な言語で読まれている。彼のメッセージは印刷され、テープやカレンダーやしおりや時には冷蔵庫のマグネットにさえ見ることができる。

自動車も電話も電灯でさえなかったときに生まれた一人の男の作品に、なぜ、このような継続的な関心が払われるのだろうか。なぜ、オズワルドが今日の新聞を読んですぐ書いたかのように、彼の言うことが受け入れられるのだろうか。

その答えはメッセージと人となりの双方にある。この二つは切り離しがたい。この本は、世界が忘れることを拒んでいる独特な個性に、その双方がいかに融合されているかを明らかにする物語である。また同時に古カイロの街の墓地に呆然と立ち、これから彼なきあとどのように生きて行ったら良いか思いあぐねていた婦人の物語でもある。

彼女の本来の名前はゲルトルードであったが、オズワルドはいつもビッディーとお気に入りの愛称で呼んでいた。彼女は、オズワルドの死後、その残りの人生を、オズワルドのことばを世の中に伝えるために使い果たした。非常に困難な条件の下で払われた彼女の自己犠牲的な働きの結果、オズワルドの名前は冠するが、決して彼女の名前を出していない約50冊の本となってあらわれた。

「心が、神様が求めるものを見いだすなら、」とオズワルドはよく言ったものだ、「体は喜んで働くことができる、その目的だけで使い尽くされるにちがいない」("When the heart sees what God wants," Oswald used to say, "the body must be willing to spend and be spent for that cause alone.")

オズワルドもビッディーもそれを見いだし、喜んで燃焼し尽くした。以下は彼らのいと高き方への物語である。(Both of them saw, they were willing, and they were spent. What follows is the story of their utmost for God's highest.)

( Oswald Chambers: Abandoned to God by David McCasland19〜20頁の私訳。浅学も顧みないで私訳を載せたが、実はここまでが序文で以下6部形式でこの本の叙述は続く。特に第三部では彼が神学校で知り合った中田重治を訪ね、1907年に日本に立ち寄り、軽井沢などに滞在した時のことが触れられている。折りを見て紹介し続けたい。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」ヘブル11・4

2013年6月10日月曜日

2 The seed of greater things(3)

パリバガテル公園 by Nobuo.Y.  2012.6.17
1917年12月5日、祈祷連盟の金曜の夕方のカクストンでの集いはチェンバーズの記念礼拝として特別に行なわれた。連盟の会員や友人の賛辞が述べられたあと、オズワルドの長兄であるアーサーが挨拶した。

彼はオズワルドを「十字架の若き戦士」だったと述べ、彼をバルバナになぞらえた。つまり、「りっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちていた」(使徒11・24)と。

「オズワルドは精力的で人を励ます人格の持ち主だった」とアーサーは言った。「どんな方面に向かっても一度始めるや、たちまちのうちに教師を追い越してしまう。祈り会で初めて祈らせたのは私が説得した結果だったが、すぐに私を追い越して、すぐれた執り成し手となったぐらいだ」

「彼は聖霊に満ちており、そのことが彼の幸いな奉仕の秘訣であった。彼は思い煩いから完全に解放されていて、彼が好んでそう呼んでいた「席を暖めることのない静穏(restlessly restful life)」な生き方を身につけていた」

「オズワルドはお金や個人的な利害に左右されないりっぱな男だった。求められればどんな人にもメッセージを伝えた。彼は、どうしても伝えねばならない「メッセージ」を大切にせず、「彼」を大事にしようとする人々には全く無価値だった。

「彼は信仰に満ちていた。彼が宣教の召命を感じて世界一周の旅行から1907年に戻ってきたことをよく思い出すことができる。彼は半クラウンを投げ出して言った。『ぼくは世界一周をしたんだが、そこで週に一ペンスも使わず、半クラウン残ったよ』バルチック号の洋上での航海の最初の行程について彼が話したところによると、船上で1300人の乗組員、船長からボイラー炊きの少年にいたるまでの全ての人と霊的なことを話したということだった。

「『たくさんの人が主に加えられた』というのが彼の人生の結末を要約することばだ。彼の一つの目的は、主のために『裂かれたパンと注ぎ出されたぶどう酒』となることだった。生涯をとおして、早朝は他の人々のための祈りに割かれ、英国にあっても、終焉の地エジプトにあっても人々の心にふさわしく接するために日ごとに主から油注ぎを受けていた」

礼拝はオズワルドの愛唱賛美歌の一つ『わたしを離さない愛よ(O Love That Will Not Let Me Go.)』を歌って閉じられた。

10日後に、マンチェスターの別の記念礼拝でデービッド・ランベルト牧師は、オズワルド・チェンバーズに賛辞をあらわし、その生涯を「私の知る限りでの山上の説教の最上の例証」だと表した人物の教えを概観した。そこにいた何百人の人すべてが彼について思い出すことをさらに付け加えもし、また、各人の記憶に消え去ることなく刻みつけられているやさしい行為を思い起こすこともできたことであろう。

ランベルトはこの完全に主のために燃え尽きた生涯を要約して言った。「神様がこよなく愛されたしもべであるオズワルド・チェンバーズのメッセージをとおして私たちの多くの者に与えられたもっとも大切なことは偉大な生涯は最も低い者、最も見込みのない者、最も取るに足りない者に可能だということである。もっとも重要なことは、私たちの主であるイエス・キリストにあって、またイエス・キリストをとおして、普通の人間に与えられているということだ(The most precious thing that has come to many of us through the message of God's beloved servant, Oswald Chambers, is that for the lowliest, least promising, and most insignificant person, the Great Life is possible. The mightiest things are made available for ordinary persons in and through Christ Jesus our Lord.)。

「神様はオズワルドがキリストに従ったように、私たちにもキリストに従えるように助けてくださるお方だ」

( Oswald Chambers: Abandoned to God by David McCasland18〜19頁の私訳。「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。2コリント4・6〜7

2013年6月9日日曜日

2 The seed of greater things(2)

パリバガテル公園 by Nobuo.Y   2012.6.17
チェンバーズの死の知らせはサンダーランドのデーヴィッド・ランベルト牧師には11月17日、日曜日に届いた。「オズワルド・チェンバーズ師がエジプトで死亡したという驚くべき知らせを受け取った」と彼はフランスにいる息子に書き送った手紙を日記に記した。「しかし、私は受け入れることができない。私のこれまで出会った人の中で、私にこれほど大きな影響をもたらした人は誰もいない。私は彼を自分のように愛した。私にとってわが子どもノーミーが1908年に亡くなって以来、これほど大きな打撃を受けたことはなかった。この打撃は希望のない悲しみでも、また怒りでもない。全く心を震撼させることがらである。」

ちょうど9年以上前、ランベルトと妻であるエマは末息子を亡くしてまもなくチェンバーズと出会った。彼らはノーマンを週末の休日に埋葬したのだった。その時、輝いた太陽や、しあわせな人々はまるで夫妻の悲しみをあざわらっているかのように見えた。一月後、チェンバーズが祈祷連盟の大会にサンダーランドに来た時、悲しみにあふれていたこの若い夫婦は神様からのことばと心からのいやしを切に求めていた。

さしたる興味のないまま、ランベルトは午後の大会の一つの集いをちょっと覗いてみたのだが、たちまち「若いスコットランド訛りの宣教師の精力的な物腰と力強いメッセージに魅了された」オズワルドの主題は新生(復活)であり、「当時の宗教の多くが人工的であり、人造の働きであったことに一撃の閃光を加えたかのように感じた」

チェンバーズは夫妻の客として迎えられ、子どもたちの大好きな友だちとなり、長く続くことになる霊的な励ましの泉そのものとなった。

ランベルトは息子への手紙を認めるのに一呼吸おいて、机の引き出しから黄いばんだ封筒を取り出した。その封筒から一通の大急ぎで書かれてはいるが簡潔に記された手紙を引き出してきた。その手紙は1909年にオズワルドから受け取ったものだった。

       親愛なる兄弟ランベルトさま

   悪魔があなたにつきまとって困るという知らせのゆえに
         神様をほめあげます。
   悪魔が私たちを狙撃しつづける限り、
         私たちが悪魔にとって見張るのに
         価値があると
   思っていることによるのかもしれませんからね。
   愛する奥様、お子さんに私の心からのあいさつを送ります。
   (Praise God for your report that the Devil is
          paying attention to you-so long as he keeps
          firing at us you may depend he thinks that we
          are worth watching. My hearty greetings to
          your wife and bairns.)

   「ハエの害 」は何もエジプトにとって
         特別なものではありませんでしたよ。
   あなたはあなたの心の窓を飛び越えて
         あなたの見方をもいらいらさせようとする
   忙しくしている普通の人々の形をとって(悪魔が)
   あらわれるのを見ることでしょうから。
   神様があなたを祝福してくださいますように。
         (The 'plague of flies' was not peculiar to
          Egypt-you will find them in the shape of busy
          little people that try to get over the windows of
          your soul and irritate your outlook. God bless
          you.)


         あなたの友 オズワルド・チェンバーズより

1917年11月18日、オズワルド逝去の知らせを受け取ったあと、ランベルトはさらに日記に次のように続けた。「私にとってもっともたいせつな事柄の一つはオズワルドをなくしたことである。私は彼が初めてウエスレー・ホールに来たときの過去の多くの光景、私たちにしてくれた聖書講読の光景を思い出す。でも今や彼はいない。しかし、彼が今もすぐれた方法で生きていることがわかる。何か意識できるつながりではないが、パウロ、ルター、スポルジョン、ムーデー、リーダー・ハリスや偉大な聖徒が生きているのと同じようにだ。彼らが生きているように、オズワルド・チェンバーズも主の御前で輝いているのだ」

( Oswald Chambers: Abandoned to God by David McCasland16〜17頁の私訳。なお、日記の訳は大いに怪しげである。念のため英文を併記する。「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」箴言27・17)  

2013年6月8日土曜日

2 The seed of greater things(1)

 パリバガテル公園 by Nobuo.Y   2012.6.17
カイロからの電報はリーダー・ハリス夫人のロンドンの大邸宅に届いた。彼女はペンテコステ祈祷連盟の会長であった。ハリス夫人は良い知らせが届いたものと思い、封筒を開きはやる心で中から薄い用紙を取り出した。しかし、その知らせは彼女を呆然とさせたものだった。

 オズワルドは主の御前にいます (OSWALD IN HIS PRESENCE)

彼女の心臓は高鳴り、伝えられたことを何とかことばに置き換えようと懸命であった。オズワルドがこの世にいないの? しかし、いつなの、どうして、いったいどのようにしてなの? 誰しも知りたいことだった。しかし、今は戦時なのだ。誰もがよくわかっていた。エジプトで封書が投函されても、イギリスに着くには三週間はかかるはずだと。ドイツ潜水艦の攻撃を避けるためには船には護衛艦が用意されていた時だ。恐らく、彼女はもっと詳細を知るためにYMCAに電報を送ることもできたはずだ。

けれども、ハリス夫人は窓から外を眺めた。外にはクラップハム・コモンの霧がかった樹木がひろがっていた。チェンバーズは学生たちと連れ立ってその間の草深い野道を歩くのが大好きだった。以前、(彼が設立した)聖書訓練学校は彼女のところから50ヤード(約50メートル)も離れていない所にあったからだ。今となっては彼女はその知らせを連盟中に送るしかしようがなかった。

4マイル離れた東部ダルウィッチではオズワルドの妹、ゲルトルードが、(電報を届けに来た配達夫のために)クレセント・ティンタゲル11番地のチェンバーズ家の扉を開くばかりだった。

 「電報? どうもごくろうさま」

妹はオズワルドの両親、クラレンスとハンナが食卓についている台所へと取って返した。ゲトルードは封筒をあごひげを伸ばし白髪頭の父に手渡した。父は三週間前に80歳の誕生日を迎えたばかりだった。父クラレンスは大きな声で読みあげた。

 「オズワルドは主の御前にいます(OSWALD IN HIS PRESENCE)」

どんな詳細も知る由がなかった。なぜ末息子が死んだのか一切説明がなかった。これが戦争中の知らせのやり方であった。三人はオズワルドの死の事実をよく理解しないまま、家族や友人に次のように手紙を書き始めた。「・・・電報がカイロから来た・・・オズワルドは主とともにいる・・・いずれ詳細は知らされるだろう」もし手紙が投函時間に間に合うなら、翌朝にはイングランドやスコットランドの他の人たちの所にも届くことだろう。

チェンバーズがなくなった時、アメリカ軍はヨーロッパに来てまだ五ヵ月しか経っていなかった。戦争熱は合衆国に依然としてみなぎっていて、「おれはヤンキー・ドゥードル・ダンディーだぞ」とか「わしらは戦争が終わるまでは帰らないぞ」などと歌っていたほどだった。しかし、チャーリー・チャップリン、メリー・ピックフォードやその他の映画スターは自由契約に入り、全家庭は戦争の早期終結のため祈っていた。

1917年も終わる頃、ほとんどあらゆる英国の家庭は戦争で夫や父や息子を失っていた。1916年7月のソンムの戦いでは60万人の同盟軍兵士が戦死した。ドイツは50万人を失った。国際的な規模で悲劇を避けられなかった人々はひとりひとりが何度も何度も深い悲しみの痛みで身を引き裂かれねばならなかったのだ。英国は制限された食事や財政的な困窮、さらに破壊された生活のゆえに疲労こんばいしていた。けれども依然として戦闘を続けることが決議されていたのだ。幾人かの人は「地には平和、人には善意が」というしるしは見られないが、4回目のクリスマスが近づく数ヶ月内には終わるだろうと予測していた。唯一の輝ける戦績はアレンバイ将軍のパレスチナへの進攻であった。チェンバーズは自身の召しが「より高い奉仕」へと導かれた時、その前線に赴く指令を以前から期待していたのであった(Chambers had been expecting orders to that front when his call came to "higher service.")。

( Oswald Chambers: Abandoned to God by David McCasland15〜16頁の私訳。最後の文章はひとつの決め手になる文章のように思うが、適切に訳せていない。例により英文を併記しておく。読者諸氏の適切な訳を教えていただきたい。「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」2コリント5・8

2013年6月7日金曜日

ツェラーの祈り

今にも飛翔するカミキリムシ※
私は祈る時、もっと感情的に、またもっと熱烈であったたくさんの人の祈りを聞きましたが、彼のように祈る人を聞いたことがないといっても私が誇張しているとは思いません。ツェラーは逆に祈る時非常に静かで確信をもっていたのです。彼は神をよく知っていましたので、確信していたのです。

彼のように神に多くを期待して、自分の祈りにほとんど期待しない人を聞いたことがないと思います。彼は必要なものを神に告げただけです。その他のことは神が配慮してくださることを彼は知っていました。彼の祈りは、あたかも神が一番前の腰掛にすわっておられ、ツェラーはその前に立っているかのように、神との敬虔な、しかし自然の会話でありました。

私どもが朝の祈祷会に集まった時ツェラーは祈ることをたくさんもっていました。第一に私どもの交わりについて、次に老いた弱い病人全部のいる病院全体のために、最後に彼にとりなしの祈りを依頼した手紙を送ってよこしたいたるところにいる病気で不幸な人々のためにいのりました。多くの手紙がノルウェー、スウェーデンを除く欧州各国から彼のところへ来ました。

このように彼は、毎日多くの人のために、多くのことのために、祈ったのです。しかし、彼の祈りを聞いた時、私はひとりごとを申しました。

「彼は結局たった一つの祈りをしている、すなわち、神のみ名のあがめられるように」と。

たびたび彼は奇跡を祈りました。しかし「もしそれが主のみ名の栄光となるならば」と付け加えずにはおかなかったのです。あるいは即座のいやしを祈ることを恐れませんでした。しかし、いつも上に述べた条件をおいたのです。

彼は決して神を指図しあるいは神ご自身のお約束によって神を強制するということはしませんでした。奇跡をあらわす祈りはツェラーにとっては苦難を避けるための道ではなかったのです。それはただ神のみ名のあがめられるための手段でありました。

そういうわけで、彼はたびたびこう言っていました。「もしもっと神のみ名をあがめることになるならば、彼らをもっと長く病床においてください。しかしみ心ならばその病気を通してあなたのみ名をあがめる力を与えてください」と。

また彼はそのように他の人のために祈るばかりではありませんでした。他人の治癒のてだてとなった彼は自ら危険な内部的疾患に犯されていたのでした。それはやがて自分の苦しい死の原因となるかも知れないのです。彼はその病気によって神をあがめるように召されていることを知っていました。

(『祈り』O.ハレスビー著 東方新吉・ 岸千年訳144〜146頁より引用。彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。 わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。詩篇91・14〜16※昨日知人宅の玄関先でカミキリムシを見つけ、そのまま自転車のかごに乗せ、家に持って帰り、昆虫の大好きな孫に見せるために写真を撮った。バックはやはり自然がいいと思い、庭に放ってやったら、しばらくして飛翔した。)

2013年6月3日月曜日

あなたのめぐみをあふれさせてください

バージンロードの上に残された「はな」(5月3日西軽井沢国際福音センター
このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。(新約聖書 ローマ1・5)

「恵み」という賜物が与えられることが、使徒のつとめが推進されるに先立って重要なことです。「恵み」なくして使徒のつとめはありえないし、「恵み」の結果として使徒のつとめがあるのです。

さて、「恵み」ということばは、無価値な罪人にむかって神様がお示しになる、罪人には不相応な慈悲、愛、寵愛を定義する言葉です。「恵み」ということばは、しばしば通常の理解で使われがちですが、神様の永遠の光のうちに見られるなら、この小さな言葉は様々な意味を持ちます。「恵み」の教えは大変重要であり、贖罪の教えの大切なもののひとつであり、神様を「恵み」の与え主として知ることが永遠のいのちを持つことであるからです。

神様の赦しの「恵み」は、必ずイエス・キリストをとおして与えられることが想起されねばなりません。 私たちは、イエス・キリストすなわち神の御子との正しい関係があってはじめて、彼の罪滅ぼしの完遂された働きにより用意されている恩恵にあずかれるのです。御子が私たちのためにかちえてくださったことが、まるで私たちがそうしたかのようにして私たちのものとなるのです。こんなふうにして私たちはイエス様の「恵み」の受益者となれるのです。

誰もキリストをとおしての律法の実現をかちとるのでないなら、神の「恵み」を所持できません。キリストなしには「恵み」はありません。キリストなしであれば、神様は信仰のない人をその価値、はたらきにそって扱われるに違いありません。しかし、キリストをとおしてでなければ何の価値も功績もないのです。

けれども、主を信じ、救いの力を受け取る人は自らの罪と無価値に影響され得ないのであります。そのようなものが「恵み」なのです。まさしく「恵み」は働きや功績とはまるっきり反対であります。パウロは書いています。「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。」(ローマ11・6)

神様の「恵み」は律法の要求を満足します。このことは、たとえ受領者がそれに全然ふさわしくなくとも、聖書によれば本当なのです。「恵み」という神の賜物を獲得する神の聖徒は、かような慈悲の不思議さに感嘆を叫んでいる子どものようであります。

謙遜な、信ずるたましいによって受け入れられる「恵み」が、結果として使徒のつとめにつながるのです。パウロは自らが神の「恵み」のゆえに使徒となったと言いました。だから彼は別のところで「 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました」(1コリント15・10)と言うことができたのです。

「恵み」だけが信者の内側に聖なる目的と証しする力を植えつけるのです。どんな人も「恵み」によって生きないとき、ほんとうの証や使徒のつとめをなすことはできません。このことは誰にとっても真実ですが、心のうちにこの「恵み」を保持している福音の使者にとってはどれほど必要なことでありましょうか。「恵み」が「御名のための信仰の従順」(5節)につながるのです。これがパウロの宣教の責任でした。彼は全ての信者が神の意志に従順であらねばならないと強調しました。ここにおいて彼は福音を信ずるに際しての従順を重視します。

使徒パウロはひとりひとりが永遠のいのちを求めて救われ、永遠の死から救出されるようにキリストにある救いの知識を運ぶ燃えるがごとき目標を持っていました。

この救いに先行するキリストの知識は「あらゆる国の人々の中に」知らされねばならないのです。それは「あらゆる国の人々を弟子とする」ための世界大的な宣教であります。神様の人々に対する究極の目的は人々の救いであります。聖書が強調するのは、私たちの主の中心的なご目的はご自身の名が彼のためにかちとられたたましいにあってほめあげられるということです。これが悔い改めた罪人にとって慰めの根源であります。神様が死ぬしかない人間にひざをかがめて耳をそばだてられるとは理解しがたいことに見えますが、ご自身のために主が耳を傾けなさることを知ることは何と快いことでしょう。それですから、ふさわしい主に対する答えは「主よ、栄光ある御名のゆえにあなたのめぐみをあふれさせて、たとえ私がふさわしくない者であっても私をお救いくださいますように」というものではないでしょうか。

(Romans a devotional commentary by C.O.Rossenius 4~5頁 私訳 )