久しぶり雨天での今日の家庭集会※ |
目からうろこが落ちました。私は新しい光の中で祈りの誤用と、祈りにおける私どもの努力の位置および祈りにかかわる困難さを知ることができました。
祈りの生活には生活の他のことと同じようにそれ自体の法則があります。祈りの根本法則はこれです。すなわち、祈りは神をあがめるために与えられ、また定められているということです。祈りは救いの超自然的力を働かせたもう機会をイエスに提供する指定せられた道なのです。こうして彼は私どもを用いようとしておられます。
私どもは祈りによって、私どもの霊に、肉体に、家庭に、隣人に、国家に、全世界に、信仰者の交わりに、未信仰者に、近づきたもう機会をイエスに提供すべきであります。
私どもがもし自己の便宜や愛する者の便宜のために神からもぎ取るのでなく、また患難や困難から逃れようとするのでなくて、神の御名をあがめる物を、私どもに、また彼らの上に、天より降したもうよう祈りを用いるならば、小さな弱い祈りの生活にも、祈りについて聖書にある、最も強く最も大胆な約束を、私どもは見るでありましょう。その時、いまだかつて思いもかけなかった祈りの応答が可能であることがわかります。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」と記されているのです(ヨハネの第一の手紙5・14〜15)
使徒ヨハネは自分の祈りの経験と読者たちの経験から、もし私どもが神の御心に従って祈れば、求めた瞬間に私どもが祈り求めているものを既に得ているという事実を立証しました。それはこのように天より私どもにただちに与えられます。求めている間はそれがいつ来るかハッキリわからないが、しかし神の御手によって神を知った者は、それをいっさい神の御手にゆだねることを学び、またその応答が即時にしろ、おそいにしろ、どちらでも同じように幸福に暮らすことを学ぶのです。
(『祈り』O.ハレスビー著東方信吉・岸千年訳144〜145頁より引用。※昼間の集会は「主のために生きる大切さ」という題で、ローマ6・12〜22、7・14をもとに語られた。深い、密度の濃い内容で何度も聞き直さないとわからないと思った。夜は「主は支えてくださる」という題だったが、詩篇37・23〜24を中心に①主の記述②主の目標③主の方法④主の喜び⑤主の預言⑥主の保障⑦主の力の7つに分けて話されたが、試練の中にある私たち家族が必要としている内容だった。明日から少しずつその聞き書きを載せたいと思う。この日、昼間と夜の集会の間には、場所を移して96歳で召された方の納骨の集いがその方のご長男のご家庭で行なわれた。なお、次回の家庭集会は7月の予定である。)
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