パリバガテル公園 by Nobuo.Y 2012.6.17 |
人の歩みは主によって確かにされる
と約束されています。すなわち、主ご自身が私たちの歩みを確かなものにされたいと願っておられます。主ご自身がわれわれの人生を主の御手のうちに治めたいと願っておられます。
主はわれわれの生活が主と結びついていること、そして主の御心はわれわれを通して実現されることを望んでおられます。主は私たちの人生のために一つの計画を持っておられます。そして主はこの計画を実現することがお出来になります。私たちが経験することの出来るもっとも良いことは、この計画が実現されるということです。
というのは、私たちだけではなく、われわれの周囲の人たちもまたそれを通して豊かに祝福され、主が栄光をあらわされるのです。われわれの生活は秩序づけられなければならない。確かに私たちの内面的な成長を妨げるような働きをするたくさんのものがあるでしょう。暗やみはただ光によってのみ追いはらわれます。罪を隠す者は決して成功しません。
「主の目標」は私たちの人生を造り変えることです。イエス様の内住のご支配によって、すべてのものは新しくなるはずです。主は私たちの歩みを確かなものになさりたいと願っておられます。私たちの生活は混乱のようなものではなく、美しくなるべきです。私たちが意識してすべてを主に明け渡す時、主は新しく造りかえてくださり、新しく良いものを造ってくださるのです。
けれども、主はそれをいかになさるのでしょうか。主はいかにわれわれを導き、確かなものにしてくださるのでしょうか。
答えは三番目ですね。「主の方法」とは、いったい何なのでしょうか。
主がわれわれを身元に引き寄せてくださり、私たちが主を信ずるようになった時、その時、主はわれわれに次のような説明書をもって(説明書をもった設計図を)われわれに手渡したのではなかったのです。すなわち、あなたの人生は今からこのようになるでしょう。あなたはこの地上にこれだけの年月いることになるでしょう、こういうことを、こういうことが起こり、それから何年何月何日に召されるようになります。主は決してこのようなわれわれの人生の設計図をお与えになったのではない。主は常に一歩一歩導いてくださるのです。
サウロ(のちのパウロ)は、ダマスコへ行く途中、イエス様のものとなった時、次のようなことばの青写真を全然もらいませんでした。今日からあなたの死に至るまであなたの一生はこういうものになると。主は彼にただもっとも近い歩みだけを示しました。主はサウロが主に対して開かれた耳を持っていましたので、次の歩みを彼にお示しになりました。「主よ私は何をしたらいいなのでしょうか」という正直な願い求めに対して、次のようなはっきりとした答えをサウロはもらいました。使徒行伝9章の6節、パウロの証は使徒行伝の中で三回書かれていますけれど、9章は一番よく知られていることでしょう。224頁です。
立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。
主は、私たちにもただ次の歩みだけをお示しになります。そして、私たちがそれに十分に従う時、主は私たちに次の第一歩を導いてくださるのです。これこそ、神の方法であり、信ずる者を導いてくださる方法なのです。
主は、私たちが絶えず主と結びついていることを望んでおられます。主は、私たちが意識的に主により頼むことを望んでおられます。というのは、ただその時だけ、主は私たちを主のご計画にしたがって導くことがお出来になるからです。私たちはただ次の第一歩だけを見ることができます。実際には私たちは秘密の命令にしたがって旅をするのです。
アブラハムもそういう風に導かれたのです。彼は今からいかなる地へ、行くべきかを知らずに、自分の土地を離れなくっちゃならなかったのです。主はアブラハムにいつも次の一歩だけを示してくださいました。私たちもまたそのように導かれるのではないでしょうか。毎日が「戦い」の連続でしょう。そして、主は、私たちが翌日のために心配してはいかんと命令しておられます。主ご自身が導いてくださるのです。この事実はわれわれの重荷を軽くして喜ばしいものにしてくれるはずです。
というのは、ただ主は私たちの最善だけを考えてくださるからです。主はどうしてこの方法をお選びになったのでしょうか。その理由は私たちがエノクのように主とともに歩むことを学ぶためです。創世記の5章24節に書いてあります。
エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
神とともに歩む歩みは一歩一歩、歩む歩みです。信ずる者としてのわれわれにとって、余りにしばしば過去ばかりを振り返ったり、不確かな将来を見極めたいと望むことじゃなくて単純に幼子のように次の歩みのために主を見上げることが大切です。主はわれわれを導いてくださると約束してくださいました。そして、主はみことばを必ず守られます。
主がわれわれを導くことがおできになるための前提条件は、主との交わり、主と結びついていること、そして、主に対する幼子のような信頼です。導いてくださるお方、われわれのために道を平らにしてくださるお方、私たちがすべてをゆだねることができるお方、あらゆる圧迫と重荷と心配から解放してくださるお方として、主を知ることが許されるとは何というすばらしいことでしょう。イザヤ書の28章の16節を見ると次のようなことばが書かれています。1070頁です。
信じる者は、あわてることがない。
全能者は決して急ぎません。それですから、私たちはすべてを安んじて主の御手にゆだねることができます。内面的に解放され、重荷を軽くされて私たちは主を喜ぶことができます。というのは、主ご自身が私たちを導き守ってくださると約束してくださったからです。そして、主は主のみことばと御約束を必ず守ってくださいます。
(明日もこのメッセージは続きますが、最後の御約束は「みやくそく」と発音されています。ドイツ人の方が今もこのような美しい日本語を駆使されるとは何と言うことでしょう。それよりも今日のメッセージの内容は何と慰めに満ちたものでしょうか。重荷を負う者の心に直接語りかけて来る主なる神様からのメッセージじゃないでしょうか。)
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