2013年6月11日火曜日

2 The seed of greater things(4)

パリバガテル公園 by Nobuo.Y   2012.6.17
それでもってすべては終わるはずであった。オズワルド・チェンバーズは大戦間で亡くなった英国人の何十万人の一人に過ぎなかった。彼の同世代の人々が何ヵ月にもわたってあるいは何年もの間、時々彼について話すのを期待するだろうが、その言及は時が経つにつれ世代が変わるにつれ色褪せたものとなるはずだった。ところが正確に言うとまさに正反対のことが起こったのだ。今日彼が生きていたときよりたくさんの人が彼の名前や書き物を知っているのだ。

チェンバーズが死んで長年経つが、彼のことばは今なお世界中の人々の心にあり、口の端にのぼるのだ。彼の名前を冠する書物は毎日文字どおり数百万の人々によって様々な言語で読まれている。彼のメッセージは印刷され、テープやカレンダーやしおりや時には冷蔵庫のマグネットにさえ見ることができる。

自動車も電話も電灯でさえなかったときに生まれた一人の男の作品に、なぜ、このような継続的な関心が払われるのだろうか。なぜ、オズワルドが今日の新聞を読んですぐ書いたかのように、彼の言うことが受け入れられるのだろうか。

その答えはメッセージと人となりの双方にある。この二つは切り離しがたい。この本は、世界が忘れることを拒んでいる独特な個性に、その双方がいかに融合されているかを明らかにする物語である。また同時に古カイロの街の墓地に呆然と立ち、これから彼なきあとどのように生きて行ったら良いか思いあぐねていた婦人の物語でもある。

彼女の本来の名前はゲルトルードであったが、オズワルドはいつもビッディーとお気に入りの愛称で呼んでいた。彼女は、オズワルドの死後、その残りの人生を、オズワルドのことばを世の中に伝えるために使い果たした。非常に困難な条件の下で払われた彼女の自己犠牲的な働きの結果、オズワルドの名前は冠するが、決して彼女の名前を出していない約50冊の本となってあらわれた。

「心が、神様が求めるものを見いだすなら、」とオズワルドはよく言ったものだ、「体は喜んで働くことができる、その目的だけで使い尽くされるにちがいない」("When the heart sees what God wants," Oswald used to say, "the body must be willing to spend and be spent for that cause alone.")

オズワルドもビッディーもそれを見いだし、喜んで燃焼し尽くした。以下は彼らのいと高き方への物語である。(Both of them saw, they were willing, and they were spent. What follows is the story of their utmost for God's highest.)

( Oswald Chambers: Abandoned to God by David McCasland19〜20頁の私訳。浅学も顧みないで私訳を載せたが、実はここまでが序文で以下6部形式でこの本の叙述は続く。特に第三部では彼が神学校で知り合った中田重治を訪ね、1907年に日本に立ち寄り、軽井沢などに滞在した時のことが触れられている。折りを見て紹介し続けたい。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」ヘブル11・4

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