2013年6月3日月曜日

あなたのめぐみをあふれさせてください

バージンロードの上に残された「はな」(5月3日西軽井沢国際福音センター
このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。(新約聖書 ローマ1・5)

「恵み」という賜物が与えられることが、使徒のつとめが推進されるに先立って重要なことです。「恵み」なくして使徒のつとめはありえないし、「恵み」の結果として使徒のつとめがあるのです。

さて、「恵み」ということばは、無価値な罪人にむかって神様がお示しになる、罪人には不相応な慈悲、愛、寵愛を定義する言葉です。「恵み」ということばは、しばしば通常の理解で使われがちですが、神様の永遠の光のうちに見られるなら、この小さな言葉は様々な意味を持ちます。「恵み」の教えは大変重要であり、贖罪の教えの大切なもののひとつであり、神様を「恵み」の与え主として知ることが永遠のいのちを持つことであるからです。

神様の赦しの「恵み」は、必ずイエス・キリストをとおして与えられることが想起されねばなりません。 私たちは、イエス・キリストすなわち神の御子との正しい関係があってはじめて、彼の罪滅ぼしの完遂された働きにより用意されている恩恵にあずかれるのです。御子が私たちのためにかちえてくださったことが、まるで私たちがそうしたかのようにして私たちのものとなるのです。こんなふうにして私たちはイエス様の「恵み」の受益者となれるのです。

誰もキリストをとおしての律法の実現をかちとるのでないなら、神の「恵み」を所持できません。キリストなしには「恵み」はありません。キリストなしであれば、神様は信仰のない人をその価値、はたらきにそって扱われるに違いありません。しかし、キリストをとおしてでなければ何の価値も功績もないのです。

けれども、主を信じ、救いの力を受け取る人は自らの罪と無価値に影響され得ないのであります。そのようなものが「恵み」なのです。まさしく「恵み」は働きや功績とはまるっきり反対であります。パウロは書いています。「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。」(ローマ11・6)

神様の「恵み」は律法の要求を満足します。このことは、たとえ受領者がそれに全然ふさわしくなくとも、聖書によれば本当なのです。「恵み」という神の賜物を獲得する神の聖徒は、かような慈悲の不思議さに感嘆を叫んでいる子どものようであります。

謙遜な、信ずるたましいによって受け入れられる「恵み」が、結果として使徒のつとめにつながるのです。パウロは自らが神の「恵み」のゆえに使徒となったと言いました。だから彼は別のところで「 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました」(1コリント15・10)と言うことができたのです。

「恵み」だけが信者の内側に聖なる目的と証しする力を植えつけるのです。どんな人も「恵み」によって生きないとき、ほんとうの証や使徒のつとめをなすことはできません。このことは誰にとっても真実ですが、心のうちにこの「恵み」を保持している福音の使者にとってはどれほど必要なことでありましょうか。「恵み」が「御名のための信仰の従順」(5節)につながるのです。これがパウロの宣教の責任でした。彼は全ての信者が神の意志に従順であらねばならないと強調しました。ここにおいて彼は福音を信ずるに際しての従順を重視します。

使徒パウロはひとりひとりが永遠のいのちを求めて救われ、永遠の死から救出されるようにキリストにある救いの知識を運ぶ燃えるがごとき目標を持っていました。

この救いに先行するキリストの知識は「あらゆる国の人々の中に」知らされねばならないのです。それは「あらゆる国の人々を弟子とする」ための世界大的な宣教であります。神様の人々に対する究極の目的は人々の救いであります。聖書が強調するのは、私たちの主の中心的なご目的はご自身の名が彼のためにかちとられたたましいにあってほめあげられるということです。これが悔い改めた罪人にとって慰めの根源であります。神様が死ぬしかない人間にひざをかがめて耳をそばだてられるとは理解しがたいことに見えますが、ご自身のために主が耳を傾けなさることを知ることは何と快いことでしょう。それですから、ふさわしい主に対する答えは「主よ、栄光ある御名のゆえにあなたのめぐみをあふれさせて、たとえ私がふさわしくない者であっても私をお救いくださいますように」というものではないでしょうか。

(Romans a devotional commentary by C.O.Rossenius 4~5頁 私訳 )

0 件のコメント:

コメントを投稿