2013年5月29日水曜日

第一章 一粒の麦(下) D.マッカスランド

今日は曇り空の家庭集会※
それから、聖歌隊の人々はスコットランドの詩篇からとった詩篇百二十一篇を歌った。

私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、
あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、
まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。

感謝の祈りと埋葬のあと、彼らは最後の賛美歌、「労苦から解放されて休むすべての聖徒にささぐ」(For All the Saints Who from Their Labours Rest)を歌った。

YMCAのスタンレー・バーリング、ウイリアム・ジェソップ、ロード・ラドストックが失われた損失を思い、一方ではキリスト者が死に直面して知る望みを歌い上げた。彼らは押し寄せて来る感情と戦いながらも、歌うにつれ、チェンバーズが皆の者に慕われた楽天性と彼の神への抑えがたい確信を思い出していた。最後の数節において彼らの声は他の人々と一緒になり、遠くモカタム丘陵(Mokattam Hills)が薄暮のうちに沈む光景を前にして、あたり一面に響き渡った。

見よ、もっと栄光あふれる日がはじまる。
凱旋の聖徒が輝かしく飾られ上りゆく。
栄光の王が道備えをしてくださる。
ハレルヤ! ハレルヤ !
地の果てから、大海原の遠くから
真珠の門をとおって数えられない群衆のうちに
父、御子、御霊への歌声があふれ流れる
ハレルヤ! ハレルヤ!


ノーサンバーランドのフュージリアからやってきた火焔部隊は夕空に向かって三連発のライフルによる一斉射撃を行なった。ラッパ手が軍葬ラッパを鳴り響かせたとき、その音が遠くまでこだまとなって聞こえた。

 スタンレー・バーリングは墓の隣に立てられた小枝から白菊を引き抜き、ひざをかがめて、キャサリンに微笑みながら白菊を手渡した。彼女は花のかおりをかぎ、その笑顔に答えたとき彼は胸がかきむしられる思いがした。彼は両手で彼女の手をとり、やさしく握り立ち上がった。今更、このあどけない少女に自身が彼女の父を失った喪失感をどのようにしてわからせることができようか。

群衆は話ごちながら、互いに目を交わしては微笑みすら浮かべて各自散会して行った。なかには深い喪失感だけが残ったのだが。けれども、オズワルドと救い主を信じている者にはキリストによる勝利の思いが、最大の苦痛を凌駕していたのだ。ビッディーはやさしくキャサリンの手を握りしめ待ち受けている車に向かって歩き出した。二人はカイロの中心街ツベンマーの家に向かって車を走らせた。その時、目を閉じ、数ヶ月前オズワルドがザイトーンのバンガローで靴を磨いていた姿を思い出していた。彼らはそのとき友だちであるゲトルード・バリンガーが腸チフス熱で苦しみ瀕死の状態で寝ているのを病院へ見舞ったのである。

ビッディーは「神様は何をなさろうとしていらっしゃるのでしょうね」と言った。靴を磨きながら、それに答えてオズワルドは「ぼくは神様がなさることを心配していないよ。ぼくが関心を持つのは神様がどういうお方かということなんだ」

ビッディーはやっとのことで微笑んだ。夫がバリンガーへの愛と気配りから話していることが分かった。彼はバリンガー嬢に起きていることに深い気配りをしていたが、主ご自身がいまさねば、神様の働きはまさしく狼狽させるものだと知っていたからである。

彼女とオズワルドはちょうど結婚して7年が過ぎていた。そして今や人間的に見れば最悪のことが起こってしまったのだ。彼女は小さな娘を抱えて34歳でやもめになった。経済的な収入源もなく、また何らの支えもないのだ。もし十分な支えがなかったら、彼女は戦争中のこともあり、しかも外地の荒れ果てた砂漠地で家庭を愛することもなく生きることになったであろう。

彼女にとって答えようのないことがらを、人々は「あなたはイギリスに戻られますか。キャサリンはどうされますか。オズワルドがいない今あなたはどうやって家計を維持されますか」と問うたのであった。

ビッディーは目を閉じ、キャサリーンを自分の胸元に引き寄せながら、やさしく心にこみあげてくる賛美歌を歌い始めた。「わが魂よ、天国の王を、なんじのささげものを、王の足もとに投げ出してほめたたえよ」

すべてはなくなったように見えたが、彼女がこのように賛美する限り、万事休すではなかった。彼女のただ一つの望みは全能の神の恵みのうちにあったからである。(It would not be the last time she sang those words when all seemed lost and her only hope lay in the grace of Almighty God.)

(Oswald Chambers: Abandoned to God by David McCasland11〜13頁。訳自身は相当な意訳になっているが、何となく文意を受け取っていただきたい。最後の文章がさわりの文章だと思うので、英文を併記しておく。※今日の家庭集会は第一テサロニケ2・4から「主に喜ばれるしもべとは」と題してメッセージがあり、私にとっては「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」が導きのみことばとなった。わがおおいは無数にある。でも主は取り除いて下さるのだ。感謝だ。一人のご婦人の証もいただいた。真実こもった証をお聞きした。主の前に「純真」であろうとする証をお聞きして、慰められた。次回は6月12日(水)14:00からである。)

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