2013年5月11日土曜日

真の人間 ハルヴァーソン

旧中学校校舎校庭にあった師弟像(妻籠宿にて)
人間は神のかたちに造られたものだ。だから、人間が神に似れば似るだけ人間らしくなったと言うことができる。反対に、神に似なければ、それだけ、人間らしさがなくなったと言える。

辛辣な言い方を許してもらえば、神に似るということは、うすっぺらな清教徒的敬虔さを意味することではない。イエスは完全に神に似ておられた。人間の中の人間であった。文字どおりの人間であり、しかも完全な人間であられた。事実、イエスは、古今を通じ、あるべき姿を備えられた、唯一の人間であられた。

神と交わりを持たない人間は、正しい状態にあるとは言えない。イエス・キリストこそ、人間の正しい状態にあられたかただ。

しかし、イエスは、通常考えられるような敬虔さの持ち主ではなかった。それどころか、その当時の人たちの持っていた敬虔の概念をくつがえされたのである。イエスは、彼らの規則を打ち破られた。だから、人々は、イエスに、食いしん坊の大酒飲みというレッテルをはったのである。中でも激しく攻撃したのは宗教家たちであった。

神の恵みは、人間をよりイエスに似た者とするために、人の中に働く。クリスチャンの生活に働く天の父なる神の最終目標は、ご自身のひとり子イエスに似た者とすることだ、と言ってよい。神のひとり子に似て行く過程において、人間らしさは育って行く。

こうして、イエスに似ている者ほど、より人間らしい人間であり、イエスに似ていない者は人間らしくない人間である、という基本的原則が成り立つ。人間らしさは、その人がどれだけ神に似ているか、ということによって測られる。もともと神が人間を造られたのであり、人間性を造り出すことのできるのも神だけだからである。

人間を造るのは神だ。だから、父なる神のご意志に従う人は賢い人である。そのような人は、キリストに似た者にしようとして働く聖霊の導きに自らをゆだねて日を過ごす。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(2コリント3・18)

(『聖書と人生』リチャード・C・ ハルヴァーソン著小鮒専三訳1973年刊行10〜11頁引用。著者はエペソ4・17〜32を読むように勧め、さらに次のように付け加えている。「17〜19節の、新生していない人についてのパウロの分析は、実によく急所をついている。異邦人の歩みの特徴は何か。22〜24節までの聖句の意味は何か。30節に示されている聖霊の働きと、使徒パウロの警告に注意せよ。」)

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