2013年5月25日土曜日

主よ、あわれんでください

信濃鉄道沿線「平原」付近
 先週の土曜日(5月18日)は三人の学友(一人は先輩、二人は後輩になる方)と信州路を楽しんでいた。鬼押出し、軽井沢、小諸懐古園、上田城と長野在住の後輩が車を出してくれ、四人で行を共にした。そのうちの二人は遠く山口、広島から来られ、私は埼玉からの参加であったが、前日に長野に集合し、その夜は遠来組のお二人にはわが御代田の「宿舎」に一泊していただいた。

 もともとこのような集いが計画されたのは、広島在住の先輩の音頭によるものだった。ところが四者がなぜ一堂に会するようになったのかはお互いの相互関係が今一つわからなかった。何しろ半世紀前の学生時代の交友関係であり、お互いに忘れていることが余りにも多いからである。でも、この集いは一泊二日の日程でとにかく成立した。そして、これほど愉快な集いはなかった。

 長野で一席が持たれたが、下戸は私一人。だから聞き役に徹した。話の中で一人の方が今まで読んで良かった本をあげられた。その話の中で二番目に挙げられたのが、三浦綾子原作の『塩狩峠』であった。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2009/11/blog-post_09.html
そしてその方はその作品の要所を的確に説明された。これには驚いた。次男の名前はその作品の主人公から取っていた。私はこの集いにおいて主が導いて下さることに従いますと祈るだけであった。あとは何もできなかった。

 鬼押出しでは浅間噴火のすさまじさ、創造主のご存在を間近に感じざるを得なかった。前日は長野に着いて間もなく、善光寺へ案内され戒壇めぐりにも同行した。 短い旅の中ではあるが、互いに胸襟を開き、それぞれの思いを披瀝することのできる幸いを噛み締めた。たまたま、わが「宿舎」には次のみことばがかかっていた。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。(旧約聖書 伝道3・11)

 互いの人間関係も不明瞭のまま、こうして成立した旧交を温める旅路は、交わりが進む中で、お互いが大学の生協の仕事で知り合った間柄であることは揺るぎ得ない事実となった。それにしてもどうして今のこの時期に私たちは一堂に会したのか。神のなさることとしか言いようがなかった。そして別所温泉へさらに旅路を進める先輩は長野の後輩が車で送り、私は上田駅で松本に行こうとする山口から来た後輩を送った。そして私は一人になった。

 ところが、上田駅で帰りの上り軽井沢方面の車両に乗り込む時、降りる乗客数名のうちに見慣れた顔があった。大学の先輩で愛知県のO氏であった。名乗りを上げたが列車発車間際であったので、あっという間に別れざるを得なかった。前夜、四人でお噂をしていたO氏であった。私は妙な高揚感を抱きながら、携帯に向かいその顛末をメールに認め始めた。その時だった。家内から電話が入った。

 次男の妻(パリから10日ほど前三週間の予定で帰国していた)の異変を知らせるものだった。都内の駅で倒れ、救急車で運ばれ、搬送先の病院で救命のために手術が行なわれ、4時間かかるというものだった。全く肝を冷やすできごとであった。その時はすでに3時半を過ぎていた。途方に暮れるばかりで、動く電車の中で最初は搬送先も不明でどのように行動して良いのでしょうかと主に問うばかりであった。それでも携帯を駆使し、やっと搬送先がわかり大宮まで新幹線で行くことにした。結局6時には病院内に到着して、さらに数時間後にいのちの助かった彼女に病室で対面できた。彼女のお母さんと叔母さん、そして私たち夫婦四人でベッドで祈りをささげた。もう10時近かった。

 パリにいた次男も翌日には急遽帰国した。それから、あわただしい一週間が経過しようとしている。旅の同行者であった方々には心配していただく結果になったが、音頭を取った広島の先輩は、私からの知らせを聞いて、このことも神様の采配かもしれないとメールを寄越して下さった。多くの主にある兄姉が次男夫妻とお父さんお母さんのために熱心にとりなしの祈りをして下さっている。感謝にたえない。私はあの二日間の旅路を支えるみことばを心の中で反芻せざるを得なかった。そして、今もそのみことばは私の心を占領している。

天の下では、何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある。

生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、
植えた物を引き抜くのに時がある。

殺すのに時があり、いやすのに時がある。
くずすのに時があり、建てるのに時がある。 

泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。

石を投げ捨てるのに時があり、
石を集めるのに時がある。
抱擁するのに時があり、
抱擁をやめるのに時がある。

捜すのに時があり、失うのに時がある。
保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。 

引き裂くのに時があり、
縫い合わせるのに時がある。
黙っているのに時があり、話をするのに時がある。

愛するのに時があり、憎むのに時がある。
戦うのに時があり、和睦するのに時がある。


私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。(伝道3・1〜8、14)

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