2014年3月31日月曜日

病める友へ ブラザー・ロレンス

私はあなたがその苦痛より救い出されるようには祈りません。しかし私は神が善しと見られる間はあなたがその苦痛に耐えられるよう、力と忍耐が与えられるように熱心に祈っています。神があなたを十字架にしっかり結びつけてくださるのですから、神に信頼して自らを慰めてください。神はふさわしい時にあなたを解放してくださるでしょう。(中略)

私たちが健康な時よりも、病気である時に神はある意味で一層近くいらっしゃり、一層明確に御臨在を私たちに示してくださることをあなたが経験なさるように切望しております。他のお医者さんに頼りなさいますな。私の考えによれば神は懇ろにあなたをお癒しになるご計画です。だからあなたは神に全く信頼しなさい。間もなくその結果は顕われて全快となるでしょう。私たちは神よりも医学に大いなる信頼を置くために回復を遅らせることがあります。どんな治療法を用いても神がお許しになる範囲を越えて成功することはありません。苦痛が神より出ている場合には、ただ神だけが癒すことができます。神は魂の病を癒すために、しばしば肉体の病をお与えになります。あなたの霊肉をともに癒してくださる神に頼って自らを慰めなさい。(略)

神があなたを置かれている状態に満足しなさい。あなたは私を幸福な人だとお思いなさるかも知れませんが、私はあなたを羨ましく思います。私は私の信ずる神とともに苦しむのであれば、その痛み、苦しみは私にとってパラダイスとなります。 もし私が神を離れているのなら、最大の快楽も私にとっては地獄となるでしょう。私の一切の慰めは主のために苦痛を忍ぶことです。

私は間もなく神のもとに往かねばなりません。この世において私を慰めるところのものは、私が今信仰によって主をご拝見できるということです。だから言うならば、「私はもう信じているのでなく、主をまのあたりに見させていただいている」という様です。私は信仰というものが、私たちに教えることを体験しています。私はこの確信を持ち、この信仰を働かせて神とともに生き、神とともに死ぬ決心です。

ですから、あなたもつねに神とともにいるようにしてください。これがあなたの苦痛の中で、あなたを支え、あなたを慰める唯一つの道です。私は主があなたとともにいてくださるように切に祈っています。

1690年11月17日        あなたのしもべであるロレンス

(上述の文章はブラザー・ロレンスのもの。彼の『敬虔の生涯』は明治年間から昭和40年代ごろまでは、何度か訳されて見かけたが現在ではあまり見かけない。手持ちの笹尾鉄三郎と西条弥市郎の訳を参考に現代風にアレンジした。笹尾鉄三郎によるとフランスのロルレーン州に貧しくも無学な青年がおり、18歳で救われ、一時は陸軍の歩兵だったが、1666年パリのカルメライツ教会に出席し、それからブラザー・ロレンスと呼ばれるようになったと言う。数十年間卑しい料理人として働き、神を知り神を愛することが深く、いつも主の御前に出て80歳で天に召された。笹尾の訳は以下のサイトでも読むことができる。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/824082笹尾は内村が一目置いていた人物で、愛嬢ルツ子が病に瀕したときその神癒を笹尾に頼んだという。しかし笹尾は神癒を祈らず、復活の主を示し、ルツ子さんはそれを信じ喜んで天に召されたという。笹尾全集第5巻にその記述がある。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。ローマ14・8

2014年3月29日土曜日

「ひとり旅」より

先日、国会図書館で小林儀八郎さんがお世話になられた長谷川周治さんの資料を検索中「ひとり旅」という館内限定閲覧資料を見た。その内容は戦時中日本から米国に留学したご子息が祖国の家族に送られた手紙の集成であった。たくさんある手紙を全部見たわけではないが、その中で眼に留まったものを下に写す。この時、ご子息は25歳である。

その後お変わりありませんでしょうか。この間お父さんとお母さんと静ちゃんから長い手紙をいただいてから、二週間になると思います。皆丈夫でおられることを知り神様の御摂理を感謝しております。堀の内の家に御恩恵の豊かにあらんことを祈っております。家の人が皆神様に用いられ、友人や隣人に親切にかつ福音を知らせるよう祈っております。何人の信仰といえども私たち一人一人を救い、新たに生まれ変わらせることはできません。イエス様ご自身のみ私たちを救い得るのです。内村先生の遺墨帖を通して、内村先生を救い用いたまうたナザレのイエス様の十字架上で死なれ給うたことを、宣べ伝えられるよう祈ってやみません。 日本のキリスト教はあまりに倫理的のようです。イエス様ご自身による救いをのべ伝えないと、力がなくなってしまいます。

このあとアメリカでのこの人の仕事(聖書を販売する)が今どんなふうになされているかが書かれている。そして

今日は日曜で近所の教会に行きました。立派な説教でしたが、イエス様の十字架による救いを強調しなかったので非常に残念に思いました。私たちは恐ろしい罪人なのです。私たちおよび他の人たちの一番必要なのはイエス様によって新たに生まれ変わり、イエス様に毎日生きることです。イエス様は生きておられて、我々信者の救い主として、友人として、主人として、父が子供をそだてるように信者のこの世における日常の生活—霊的、物質的の世話をして下さるのです。イエス様にまさる友はなく、イエス様にすべてをおまかせして私たちは百パーセント安全であり、真の平和を得られるのです。

これから先、どのようなことが起こるかわかりません。明日にもこの世の終わりが来るかも知れません。明日にも世界の万物が滅びてしまうかもわかりません。しかしイエス様の再臨を待つ者は幸福です。千代経し磐に身を任せおる者は心安しです。

僕は、これから田舎の方に奥深く、聖書を売りに行くつもりです。日本がドイツやイタリーなどの仲間入りをしているゆえ、日本人たる僕が他の人々に疑惑の眼をもって見られ、あるいは面倒なことになるかも知れません。こちらに四年半おりますが僕の英語はやはり外国人の英語に過ぎず、この英語という外国語を用いてこの国の人に、聖書の色々な特長や用い方、勉強の方法など説明せねばならぬのです。人一倍はづかしがりやの僕が、このようなことをすることになったのは神様の御導きと信じております。どうか祈って下さい。この夏は今までの中で一番むづかしい仕事をすることになったのですゆえ。

これまでの夏は筋肉労働をしましたが、今年の夏は頭と精神の労働をせねばならぬのです。しかしこれは僕の将来のために、非常に有益な経験となることと信じております。そればかりでなく、多くの霊的に飢え渇いている人に、聖書の勉強方法を知らせることは、非常に有益な、何物にも勝る善い仕事と信じております。

多くの信者は10年、20年、30年、と信者になっておっても、彼らの聖書知識は驚くほど、ほとんど進歩を見ないのです。私たちの霊的成長は、聖書の知識の進歩と伴います。(聖書学者でも霊的成長しない人はあります。新たに生まれ変わらぬゆえです。しかし霊的に成長し神様に用いられた人で、聖書の勉強を怠り、おろそかにした人はありません。)信者のうちほんの僅かの人のみ聖書それ自身の勉強をします。僕たちの売る聖書はこの国で、多分世界中で一番聖書そのものの知識をひろめ、かつ一般の人たちにも容易に用いられ得るようにできている聖書でしょう。・・・・

1941年5月25日

(『ひとり旅』742〜744頁より引用。 あの対日関係が悪化する前夜、米国でこのような若人のキリスト者が祖国日本と米国の人々の救いと成長のために祈りながら働いていたとは想像もしなかった。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」1ペテロ2・2

2014年3月28日金曜日

リビングストンの生涯(完)

ビクトリア瀑布? 有島本挿絵
リビングストンの最後の誕生日(1873年3月19日)は変わらざる苦難の中に迎えられた。「全能なる人類の保持者に、かくも長く旅行の生涯において私を守り給いしことを感謝する。私は最後の成功を望み得るだろうか。非常に多くの障害が起こった。私をしてサタンの虜とならしめ給うなかれ。おお我が善き主イエスよ。」二、三日後(3月24日)「私の働きを失望の中に断念せしむるこの世の何物もない。私は我が神なる主にありて自らを鼓舞する。ただ邁進あるのみ。」

4月の始めにおいて、病んでいた腸より出血した。その量は多く、彼の衰弱は増し、憐な状態となった。しかしなお彼は彼の働きの完成に努力せんとした。かかる状態にあっても、なお博物の研究をつづけ、日曜の集いも休まなかった。

4月21日容態が改まった。彼は震える手で「驢馬に乗らんと試みた。しかし倒れ落ちた。従者は私を村に連れ帰った。全く力を失ってしまった。」と書いている。担架が彼を運ぶために作られた。それは実に心配な仕事であって、彼の痛みは加わり、衰弱は増すのみであった。4月27日彼は衰弱の極みにあって、最後の筆をもって日誌を書いた。「全く打倒された。留まる=元気が出る。乳ある山羊を買うために人を遣わした。我等はモリラモ川の堤にいる。」(※)

4月29日は彼の旅行の最後の日である。朝、彼はスシに小屋の一方を壊すことを命じた。担架が戸口から入らないので、そこより入れて乗るためである。彼は全く歩むことが出来なかった。かくて川や沼や水たまりの中を進んだ。やっと一行が乾いた平地に来ると、彼は度々地上に下ろさして休んだ。遂に一行はイララのチタンボの村に彼を運んだ。そこで彼は彼らが小屋を建てるまで雨がビショビショ降るので、家の軒下に置かれた。

小屋が出来ると彼らはその中の粗末な寝台に彼を運び、リビングストンはそこで世を明かした。翌日は静かに休んだ。彼は二、三のとりとめもない質問をなし、従者たちはもはや最期の遠くないことを知った。夜の始めのころは別に変わったこともなかったが、朝の4時になって戸の所に寝んでいた少年が、驚きの声をもってスシを呼び、主人は召されたのではないでしょうかと言った。蝋燭はなお燃えていた。彼は床の中におらず、その側に跪き、枕の上に組み合わせた手の中に頭を埋めていた。これは彼が常になす祈りの姿である。一同しばらく無言のまま佇んでいたが、起き上がる様もないので、従者の一人が静かに近寄って額に手を当ててみると、すでに冷たくなっていた。彼は召されたのである。

一人の従者をも従えずして、最も遠い旅へと旅立ったのである。しかし彼は最も敬虔なる祈りの態度において召された。その祈りは彼の霊を、愛する凡てのものと共に主の御手に託するために、またアフリカを—彼自身の愛するアフリカを—彼女の悲しみも罪も誤りも凡て共に、圧するものの報い主、失われたものの贖い主に委ねん、と祈りつつ召されたのである。

ライオンに襲われる1844年のこと 
このあと、9ヵ月の長い期間をかけてリビングストンの遺骸がどのようにしてアフリカ人の従者と言われる人々の手で港まで運ばれ、ついに英国まで帰って行ったか、それだけでも驚嘆に価するできごとである。生前リビングストンを尊敬していた人々の中で、その遺骸がアフリカの中央からロンドンまで運ばれたことを疑う者もあったので、それを調べて見ると、果たせるかなその腕にかつてライオンに噛まれた跡を認め、リビングストンであることが証明されたと言う。1874年4月18日、土曜、彼の遺骸はウエストミンスター寺院の墓地に埋葬された。最後にその墓碑銘についての記述を紹介したい。

リビングストンの永眠の地を示す黒き墓石には次の如く刻まれている。

海山を忠実なる手に運ばれし
デビッド・リビングストン ここに眠る
伝道者、探検家、博愛家、
1813年3月19日、ランナックシャイヤーのブランタイヤーに生まれ、
1873年5月4日、イララのチタンボの村に瞑す。

30年間の彼の生涯は、土人に福音を伝うるために、未開の秘密を開くために、中央アフリカの奴隷売買を禁止するために、屈せざる努力をもって費やされた。その最後に記したる言葉は次の如くである。

「余が天外の孤客として言い得る凡ては、世界の開かれたる傷を癒さんと助力する、アメリカ人、英国人、トルコ人の一人一人の上に天来の祝福豊かならんことを。」

墓石の右側にはラテン語で

「余は他の何物にもまさりて真理を憧憬す。多年秘密に包まれし河源の探索の如き、これに比すれば価値少し。」とあり左側に次の聖句が刻まれている。

「我にはまたこの檻のものならぬ他の羊あり、これをも導かざるを得ず、彼らは我が声を聞かん。」

(『リビングストンの生涯』298〜305頁より抜粋引用。※有島・森本の共著になる『リビングストン』には以下の記述がある。「この条理なき一文こそ、実にこれ彼の絶筆なりき、彼は今やその感慨を記し得ぬまでに、衰弱せしなり、この文を読み来る者、誰か一滴同情の涙なからんや、彼は当日全く食糧に欠如したりければ、乳牛を買わしめんとせしも、遂に得ざりき、28日の如きは人を四方に派して、食物を求めしが皆手を空しうして帰りぬ。」(同書214頁)私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。ローマ14・7〜9)

2014年3月27日木曜日

リビングストンの生涯(9)

明治34年版表紙絵
リビングストンの将来の生涯を決定した大いなる精神的変化が起こったのは、二十歳の時であった。もちろんそれ以前にもキリスト信仰に対しては熱心なる考えを持っていた。彼が著した最初の書物に「私の心にキリスト信仰を染み込ますために両親は苦心した。救い主の贖いによる自由救済についての理論を理解するのは困難でなかった。しかし私自身の場合において、贖罪の備えの人格的適用の必然性とその価値を感じ始めたのは、ほぼこの時である」と言っている。この言葉を裏書きするのに、彼が伝道のため献身したいと願って、ロンドン伝道会社の理事より下付してきた質問に対して、提出した書面がある。
彼は十二歳の頃、自己の罪人の姿を反省し、心の中に真理を受け入れることによって、充ち溢れる精神状態の実感を熱望するようになったと言っている。しかし彼は聖霊による超自然的の働きが、彼の中に起こる時までそんな大いなる恵みを受くる価値なしとの考えに妨げられて、福音において恩恵の無制限に提供されるという信仰を抱き得なかった。聖霊によりて打ち貫かれる時を待つべきだとは思いつつも、なお希望の根拠を内に見出さんと焦って、罪人の唯一の望み、キリストにおいて完成された業を認め得なかった。そうして彼の確信は消え、知覚は鈍って来た。しかもなお彼の心には平安がなく、如何なるものによっても充たされることの出来ない渇きが残された。

かかる状態にあった時、彼はディックの「未来王国の哲学」を読んだ。この書は彼の誤りを正して真理を示した。「私はキリストの救いを直ちに受けるという義務と、量り得ざる特権を知った。大いなる憐れみと恵みを通してこの救いを受けることができると謙遜に信じ、今なお堕落して偽っている心に、この信仰の体験を幾らか感じさしていただいた。私の生涯を主の御事業に捧げ、私のために死に給いし主の目的に対する私の愛慕を示すことが私の願いである。」※

ここにおいてデビッド・リビングストンの霊は疑いもなく、その内に注ぎ込まれた新しき生命によりて徹底的に打ち貫かれた。彼は単純に真理を理解したのでなく、真理が彼を捉えたのである。聖パウロもアウガスティンや、その他かくの如き人々に溢れた聖なる恩寵が、彼の心にも溢れたのである。この世的な欲望や願いはなくなった。彼はその著書において「神の制限なき恩寵が、血をもって贖い給いし神に対する愛と深き責任感とを起こさしめる。今までは自分自身の愛によって行動していたのであるが、今こそはこんな者を通して最も尊い神の愛の現われることを知った」と言っている。


1901年日本の江湖に登場
良心の鉄則の下に苦しんでいた自己否定の行為は、溢るる神の愛の下に感恩の奉仕となった。彼は内部的体験を現わすこと少なく、霊感に打たれた言葉もあまりないが、彼が静かにしかも力ある内的なものによりて、彼の生涯の終わりまで動かされたことは明らかである。幼い頃、父の家で彼の心に起こった愛は、荒涼たるアフリカ旅行の間も、そしてついに、かのイララの小屋のベットの側に、跪いて、寂しき夜半祈りにみたされてその霊が父とキリストのみもとに帰る時まで、彼を動かしつづけたのである。

最初彼は伝道者になろうとは考えなかった。「人の救いは各々クリスチャンの主な願望と目的に因る」と考え「彼の生活に必要なものより以上の金を得て、伝道のために捧げようと決心した。」その彼が自分自身を捧げようと決心したのは、グッヅラフ氏が支那のために英国と米国の教会に訴えた書を読んでからである。それは「幾百万の同胞が求めている。しかるに適当なる伝道者少なくして手不足を感じている」と言うのであった。これが彼にこの任務につかんとの熱望を起こさしめたのである。この時から—それはちょうど二十一歳の時であったが—彼の「努力は常にこの目的に集中されて少しも変わらなかった。」

工場において数年間単調なる労働に従事したことを、リビングストンは決して後悔しなかった。むしろ反対にこの時の経験を重要なる訓練の時期と考えている。そしてもし出来得るならば「再び同様な低い階級の生活をなし同様な困難を通ってゆきたい」と願った。彼が得た少年労働者に対する同僚愛はスコットランドにおいて、あるいはアフリカにおいて、同じ階級の人々を感化するに量りがたく尊いものであった。前にも言った如く、彼は本性的に平民であった。しかし決して高い階級を嫌ったのではない。晩年に彼は、人生の善いことを楽しんでいる平安と隙のある人をみるのもよい、しかし重荷を負える大衆に最も同情が起きる、と言っている。彼は生涯のすべての労苦と試練の中にあって、プランタイヤーでの少年時代の訓練が善かったことを感謝している。

2000人の人口を有するプランタイヤーの村には、奉仕的に少年たちに信仰の重要性を伝える立派な人たちがいた。特にトマス・ブルクとデビッド・ホッグは人々から尊敬されていた。リビングストンもこの二人より多くの感化を受けたが、特にデビッド・ホッグから大いなるものを受けた。彼は臨終において「少年よ信仰を君の生涯の日々の務めとせよ、一時的の熱心では駄目である。この信仰によって誘惑や他の困難も反って君をより善くなすであろう」と教えた。

リビングストンの最も好まなかった人は、言葉のみ多くて実行の伴わない人である。これに対する憎悪は年進むとともに増して、信仰告白とか形式的な信仰箇条を軽んじ、主のみことば「その実によりて彼らを知るべし」との信仰を益々強く抱くようになった。

(『リビングストンの生涯』第1章少年時代10〜13頁より引用。※1原文は"I saw the duty and inestimable privilege immediately to accept salvation by Christ. Humbly believing that through sovereign mercy and grace I have been enabled so to do, and having felt in some measure its effects on my still depraved and deceitful heart, it is my desire to show my attachment to the cause of Him who died for me by devoting my life to his service."である。http://www.gutenberg.org/files/13262/13262-h/13262-h.htm#CHAPTER_I.明治34年1901年刊行の『リビングストン』有島武郎・森本厚吉共著警声社版では同じ箇所が次のように訳されていた。「余はキリストによりて、直ちに救済を受くるの義務と、無限の特権あるを知れり。余は虔みて、主の恩恵を享くるによりて、救わるるを感じ、そして罪に汚れたる余の心も、なお救わるるべきを感じて、全生涯を余のために死せし主に献じ、クリストの跡に従うの希望を得たり」※2)

2014年3月26日水曜日

リビングストンの生涯(8)

リビングストンの家族に対する愛情がいかに深いかを今まで見てきたが、彼の家族外の人々に対する愛を思うとき、その愛がどこから来るのかわかる思いがする。次の文章はそのことを雄弁に語っている。このような愛は決して博愛主義者が持つ愛では断じてないと私は思う。

リビングストン博士は、最高の賜物を与えられている人に属する、驚くべき能力を持っていて、しかもそれは、一つの主題より主題へと移るのでなく、一つの気分あるいは調子から全く異なったものに瞬間的に変化してゆくのである。このころ彼の家庭に出した手紙に、よくこの特徴が表われている。

紙の一面に、熱病で死去した若き従者に対する、優しきクリスチャン愛の爆発と悲しみが書かれており、他の面にはバクハトラの地図が、山や川まで入れて、極めて地理的詳細に書かれている。その上部には幾分感傷的に、また半ば滑稽な詩が記されている。しかしそのために如何なる理知的な人も、彼の悲しみが浮薄で真面目さを欠いていると想像することは出来ない。我々が静かにそれを読むと、それは彼のこの黒人に対する愛の深さと優しさとを表明し、しかもその愛は永遠の世界に対する生ける見解と、唯一の救い主としてのキリストに対する信仰によって強められた、卓絶せるクリスチャン愛であることを証しする。また同時にこの可憐なる土人が彼に対して、如何なる愛をもって報いたかを示している。またこの若者の霊のためになさねばならぬ事をもなし得なかったと言うが如き、彼の自己詮索の真剣さと、自己批判の厳粛さが彼の伝道の義務に対する強き良心とともに表われている。

「可憐なるセハミよ、汝は今どこにいるか。汝の霊は今宵どこに宿れるか。かつて苦難の中に徘徊せる時、私が汝に語った言葉を思い出しているか。私は出来得るならば、今如何なることでも汝のために為さんとする。私は汝の霊のために泣く、しかし今如何なることをか為し得よう。汝の運命は定まった。ああ可憐なる愛するセハミよ、私はお前の霊に罪を犯したのではなかろうか。もしそうならば私は如何にして審きの日に汝に見(まみ)えんや。しかし私は汝に救い主について語った。お前はその救い主を覚えたであろうか。そして主は汝を暗黒の谷をも導き給うたであろうか。主は主のみなし得給う慰めを、汝に与え給うたであろうか。ああ主よ、願わくば私をして人々に忠実ならしめ給え。私が多くの霊に罪を犯すことなきように導きを垂れ給え。この可憐なる青年は一行の指導者であった。彼はよく他を導き特に私に対して忠実であった。私の欲するものは言わざる先に察してこれを整えた。夜は枕元に水瓶(みずがめ)を用意し、私が目覚むれば直ちに水を与えてくれた。肉を煮れば善き所を私に与え、夜眠るには善き場所を備え、何にても一番よいものを私にくれた。ああその彼は今何処に居るや。」

(『リビングストンの生涯』46〜47頁より引用。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪者に、『悪者よ。あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もし、あなたがその悪者にその道から離れるように語って警告しないなら、その悪者は自分の咎のために死ぬ。そしてわたしは彼の血の責任をあなたに問う。あなたが、悪者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。」エゼキエル33・7〜9)

2014年3月23日日曜日

リビングストンの生涯(7)

昨日は妻の死がどのようなものであったか、リビングストンの書いたものを見た。アフリカ宣教は様々な戦いがあったが、その一つに現地における熱帯病との果てしない戦いがあった。したがって抵抗力のない子どもの同行はままならず、家族一緒に暮らすことは出来ず、それぞれ夫妻で英国とアフリカに離れて別々に暮らさねばならない時もあった。以下の記述はそのような折りに妻マリーが夫リビングストンへ寄せた思いを明らかにした箇所である。彼女の死の6年前のことであるが、余りにも預言めいている記事の思いがする。

リビングストン博士がケープタウンにおいて、愛する妻に別れを告げてより過ぎ去りし年月は、夫人にとっては実に悩み多き日々であった。二人の間に交わされた書信の多くは途中で紛失し、手に落ちるものは稀であった。住み慣れぬ英国において家もなく、健康は損われ四人の子どもに対する心遣いもあり、その上夫よりの消息は長らく途絶えがちであって、心配と不安より来る悩みは、時には彼女の信仰には余りに大き過ぎて彼女を非常に疲れさした。アフリカにおいて「牛者の女王」と言われた時や、彼女の全生涯において、精神力に充実した夫人を知っている人は、この英国における夫人を同人とは思い得ないほどであった。リビングストンが長い間彼女より消息を聞かなかった時には、彼女もまた深い悩みに沈んでいた。しかし祈りによりては心の平和を取り返すのが常であった(※)。彼女は夫をサウザンプトンに待っていたが、タニス湾における出来事のため彼はドーバーに上陸した。されど彼は彼女が再び別れまいとの希望を歌った歓迎の歌を読みながら、間もなく逢うことが出来た。

百千の歓迎、我がうちに溢(あふ)る、
遠い遠い異国(とつくに)より帰ります我が夫よ、君の故郷に、君の家庭に。
思えば君去りてより、如何に長らく別れしことぞ。
その年月、夢見ざる夜なく、思い悩まざる日なかりき。

憂いをもて君に近づかんとは、君かつて思いしや。
されば我が悩みを去り、再びここに君と見(まみ)えん。
我がうちにただ喜びと愛とのみ、すべては消え去りぬ。
そして再び君と別れじとの望み、楽しく、力強く、我が心に充つ。

百千の歓迎、我がうちに迸(ほとばし)り出づ、
愛と喜びと驚きをもて、再び君の顔を見ん。
君在(いま)さざる、長き長き年月、如何に悲しく過ごししことよ。
再び君と別るるは、殺さるるが如き思いす。

君よ再び私より去り給うな、君の目にはその約束あり。
私は生くる限り君を守り、君は私の死を護り給え。
されど死が優しく私を、いと高き祝福の家に導きなば、
百千の歓迎をもて、御国に君を待たん。
                    マリー

(『リビングストンの生涯』145〜147頁より引用。※推測するに、恐らく次のみことばも彼女のその時の心情にぴったりなものの一つだろう。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。ピリピ4・6〜7 それにしても、昭和8年に、このブレーキーの本を狭い家屋に住む藤本氏が子どもたちが寝静まった夜半、これらの訳文を読み上げ、幼子を抱える妻がそれを清書したとすると、このマリーの夫に対する賛歌をどのような思いで書き連ねたことだろうか、言わずもがなの思いがする。そしてこの讃歌にはいかなる困難にも動ずることのない天の御国に凱旋する幸せが全編をおおっており、それをこのような格調高い文語体に定着した藤本氏に感謝したい。)

2014年3月22日土曜日

リビングストンの生涯(6)

話が前後するが、リビングストンはすでに1861年、彼の48歳の時に妻を亡くしている。その当たりの記述を今日は見てみよう。

4月21日、リビングストン夫人は病気にかかった。25日には注意を要する容態となり、嘔吐は15分おきくらいに続いて薬は一つも胃に残らないのであった。26日にはさらに悪く譫言(うわごと)を言った。27日の日曜の夜、スティワート博士はリビングストンより、臨終が近づいた旨の報せを受けた。

「彼は箱で造った粗末なベッドの側に跪いていた。ベッドの上には軟らかい褥(しとね)が将に死せんとする夫人を覆うていた。彼女はすべての意識を失って深い昏睡状態にあった。その昏睡より醒すためのあらゆる努力は無効に終わった。強い薬の働きも、夫の声も、そこにまだいる霊に達する力がなかった。その霊は今は眠りの深みに、暗黒に、そして死へと沈み行くのであった。容顔はすでに固定し、呼吸の苦しく重いのは最後の近づいたのを明らかに示していた。多くの人の死に接し、多くの危険を冒して来た勇者も、今は全く子供のごとく泣き崩れた。」

リビングストン博士は、スティワート博士に彼女の霊を神の御手にささげるために祈ることを願った。側にいたキルク博士と共に、彼らは彼女の側に跪いて祈った。それから一時間もたたない内に、彼女の霊は神のみもとに帰った。それより三十分の後スティワート博士は、彼女の姿がその父モファット博士(※1)に似ているのに驚いた。彼はそれを話し出して一層リビングストンを痛めしめぬかと心配したが、ついに「容貌の変わったことに気づきますか」と言った。彼は彼女の顔から目を離さないで「そうです、その容貌表情が父そのままです」と答えた。

「ザンベジー河とその支流」において、リビングストン博士が妻の死に対して平静であるのに誰でも驚かされる。しかしこの書物は国民に対して彼の職務を報告するために書いたもので、彼の個人的気持ちに触れることは出来ない。彼の日誌あるいは手紙の数カ所の引用は彼の心の状態をよりよく示すであろう。

「これは私の遭った悲しみの中、最も酷い打撃である。私の力を全く奪ってしまった。私の多くの涙を受くるに足る彼女のために私は泣いた。私は彼女と結婚する時に愛し、共にいること久しきに従ってますます彼女を愛した。神よ彼女に深く懐いていた子供たちを憐れみ給え。私は私の一部と思っていた彼女を失って、この世界に一人残った。私は神の憐れみによりて、御国を我が家となし、彼女はただ一足先にその旅に出たのであることを知るべく導かれることを望む。ああ私のマリーよ、私のマリーよ、御身と私とコロンベにおいて漂浪しはじめてより、如何に度々静かなる家庭を持たんことを願ったであろうか。たしかに、我等の願いを熟知せられし優しき父なる神は、御身を今や永遠の御国の最もよき家庭に召してその願いに報い給うたのである。

祈りが彼女の紙片に書かれている。『主よ、私をありのままにて受け入れ給え、そうして御心に適うごとく私をなし給え』と。この祈りを彼女に教え給うた主は救いの事業を完成せずにはおき給わない。また彼女は手紙に『他の者をして恩賞を求めしめよ。私は金なくしても富むことができると友人に書いた。利害関係なき動機より、私はこの世界に貢献せんと願う。私は百の恩賞にも代え難き動機を、私自身の行為の中に持っている』と書いている。」

「彼女をシュパンガにおいて、60フィートの周囲を有する大きなバオバブの樹下に埋めた。従者は墓を建てるまでその地を守ることを願った。我等は古い廃屋より煉瓦を掘って来て墓をつくった。」

「5月11日コンゴネにて。私の愛するマリーは今宵で14夜を天国に過ごす—肉体を離れて主の御前に。今日汝は我とともにパラダイスにあるべし。天使は彼女をアブラハムの懐に運んで行った。—キリストとともにあるははるかにまさることなり。アダムより七代目のエノクは「見よ主は一万の聖徒とともに来る」と預言している。汝も主とともに栄光の中に現われるであろう。主は彼とともに来たり給う。ゆえに彼らは今主とともにある。我は汝らのためにところを備えに行く。神の栄光を見るべく、我がいる所に汝らもいるべし。Moses and Elias talked of the decease He should accomplish at Jerusalem; then they know what is going on here on certain occasions. They had bodily organs to hear and speak. 私の生涯において死することを願ったのはこれが初めてである。」(※2)

(『リビングストンの生涯』209〜212頁より引用。※1リビングストンは26歳のとき、モファット博士Robert Moffat (missionary)の南アフリカ伝道の話を聞き、それが彼のアフリカ伝道のきっかけになった。後年彼はその博士の娘と結婚したのであった。※2実に崇高な箇所である。ほぼ赤字で示したのが聖書本文である。その合間に愛する妻マリーが天の御国にいる確信と喜びが語られており、どこからどこまでがリビングストンのことばでまた神のことばであるか分からない。それだけリビングストン自身の心は聖書と一体であったことが分かる。訳者である藤本さんはなぜかブレーキーの原文の英字部分は訳しておられない。煩雑と思われたのかもしれないが、読者はルカ9・30〜36をひもとかれたし。英文はその箇所を指していると思われる。)

2014年3月21日金曜日

リビングストンの生涯(5)

リビングストンは1813年に生まれ、1873年60歳で亡くなる。私はこれまでこの人物についてほとんど何も知らなかった。漠然と彼がアフリカを探検したためヨーロッパ諸国が進出してアフリカを資本主義の餌食としてしまった、したがって帝国主義のお先棒を担いだ人としか理解していなかった。しかし、この訳書を読んでそのような通り一遍の理解でなく、彼の真摯な主にある生き方に眼を見開かされ、何度も読み返したい思いに駆られ、今も読んでいる。

彼は1866年を回顧して、その年は彼が望んでいたほどの成果が得られなかったことを知った。「もう1866年も終わりである。私が願ったほどの結果を得なかった。1867年にはさらによく努めよう、もっと親切に、もっと愛情深く。私の前途をゆだねている全能の神よ、私の願いを受け入れ成就なさしめ給え。1866年の私の罪を主イエスによりてきよめ給え。恵みと誠に充ち給う主よ、そのご性格を私に深く教え給え。恵みー愛を現わす熱心、真実ー誠と真摯と栄、主の憐れみによりて覚えしめ給え。」

リビングストンは勇気と恐れなき性質とを生まれながらに持っていたけれども、なおたびたび自ら鼓舞することと、見えざる真理に対する信仰の働きなくしては、彼の心の平和を支えることは出来なかったのである。彼の書いているものの中にその気持ちがたびたび現われている。

「神を我等の些細なることには注意し給わぬほど、高い所にい給うと考えるのは大いなる誤りである。我等人間にありても、偉大なる心は常に詳細なことにも注意を向ける。天文学者は、その心がいかに小さきものをも把握し得なければ、偉大ではあり得ない。もしそれが出来なければ彼の研究は不可能である。偉大なる将軍はその軍隊の最も小さな出来事にも注意する。ウエリントン公の手紙には、彼がいかに小さいことにまで心を用いたかが現われている。

同様に宇宙の絶対者の意志も、その御一人子を通して我等に啓示される。『汝等の頭の髪の毛も数えられる』『一羽の雀も汝等の父なる神の許しなくては地に落ちない』『誰も近づき難き光の中に住み給う主』はへりくだりて我等に必要な小さきものまでも備え給う。また我等自身の最大の愛の達するよりも、さらに無限の心遣い、優れる関心をもって、いかなる瞬間をも我等を導き、守り、助け給う。しばしも微睡(まどろ)むことなき愛の目は常に我等の上にある。私は確かに私の目的に進ましめられ、異邦の地に、平和と恵みの音づれを持ち行かしめられるであろう。神の子供たちを売ったり殺したりすることの御旨ならざるは、誰も認めることである。さらば私は行く。全能の神よ、私を助けて信仰深くあらしめ給え。」

1867年2月1日、息子トマスに手紙を書いて恐るべき飢餓を訴えている。
「住民は少量の黍(きび)の粥と菌(きのこ)の外、売るものを何も持っていない。ああ私は昔英国においての焼肉を夢見るのみである。私は非常に痩せた。以前にも痩せている方であったが、今では全く骨のみとなった。もしお前が私を量れば容易に人間の骨の重量を知り得るであろう。」

1867年は大いなる災難と、二つの重要なる地理学的功績によりて、特筆すべき年であった。災難とは彼の薬の箱を失ったことである。その箱は平生、彼の最も注意深き従者に託していたのであるが、ある日信用なき運搬人を雇ってそれを持たせ、他のものを従者の擔夫に運ばした。ところが間もなく運搬人も薬の箱も姿を消してしまった。「私は今マッケンジー監督のごとく、死の宣告を受けたように感ずる」とリビングストンは言っている。薬の箱を失ったことは、熱病を癒す力を失ったことであって、薬の効き目はそれほど顕著なものであった。我等は久しからずして、全身打ち倒れて、地上より起き上がらんとしつつ、頭を箱の上に打ちつけて無意識になれる彼を見出すのである。薬を失うことはこれが初めの終わりとなった。彼の身体は今まで常に示していた驚くべき復活力を失い、他の肺、脚、腸などの病は、今まで旺盛なる元気をもって抑えていたのであるが、この時以後はそれが起こり始めた。

(『リビングストンの生涯』260〜262頁より引用 。藤本正高著作集第5巻46頁以下には次の言がある。「昭和8年3月からは、私はブレイキの『リビングストンの生涯』の翻訳に力を集中した。実にこの訳には苦心した。4月28日に大体出来上がり、それから清書した。これは自分が訂正しながら読んで妻に筆記させたのである。ついには疲れて床の中に横臥しながら読んだ。12時過ぎることはほとんどで、1時、2時になることも珍しくなかった。しかし私と妻はこの書によって大きな恵みをうけた。飢餓は常に目前に迫っている。思い悩んで筆の動かなくなることも幾度かあった。しかしその度ごとに励まされたのはリビングストン自身の姿である。飢えに苦しめられながら、如何にもしてアフリカの土人にキリストの福音を伝えたいと奥地をめがけて突進する姿に、私は涙が流れて仕方がなかった。私もこの書を訳すことが出来たら餓死してもよいと考えたのである。」藤本氏29歳、二人の子どもがいた。家は借家、無収入であり、独立伝道者として家庭集会を開いていた。そのような集会に小林儀八郎氏はその後何年かして集い、交わりに加えられた。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2014_02_01_archive.html

2014年3月20日木曜日

リビングストンの生涯(4)

奴隷拘束に用いられた棒(サイトより引用)
一行は東方に迂回してシュワル湖、「壮大なる島の湖水」を発見した。この湖はポルトガル人には全く未知のものであった。彼らはシレー河に入ることさえも土人に許されなかった。リビングストンは度々一行はポルトガル人でなく、英国人であることを説明せねばならなかった。湖水発見後彼らは船の所に帰り、それより軍艦に会って糧食を得るためにコンゴネまで下った。しかしそれは失望に終わった。

このころ、彼は幼い娘アグネスに次のごとき手紙を送っている。
「シレー河にて、1859年6月1日。私どもは塩の貯えを得る目的で、軍艦に会うためにザンベジーの河口に下った。しかし指定した日に艦の姿は見えなかった。私が長官に出した手紙は、軍艦が出るまでに受け取られなかったのであろう。ここには郵便局がないので、手紙を入れた壜をコンゴネ港の入口の島に埋めておく。これは私が軍艦に会わなかった時には、そのようにすることをあらかじめ長官に話してあるからである。それで誰かがその壜を探して、次の指定日が7月30日であることを知るであろう。この手紙は他の郵便物とともにクイルマネに運ばれる。私はあなたから手紙を受け取りたいと願っている。私どもはリバプールを立ってからのち、故郷よりの報せに接しない。ヨーロッパやインドが如何になっているか知りたいと熱望している。

私は今テッテに行っている。しかしその前に一行のために米を買うべく、シレー河を40マイルほどさかのぼった。チャールス叔父さんはそこにいる。彼は熱病にかかっていたがもう大分よい。私どもはおよそ二ヵ月前に彼とそこで別れた。キルク博士と私は15人のマコロロ人 とともに、マロバート号で百マイルほどこの河を上り、そこから船を残して徒歩で進み非常に美しいシュルワという湖を発見した。その湖は非常に大きくて向こ うの岸が見えない。その周囲はスコットランドでは見ることのできない高い山脈に囲まれている。一つの山は湖水の中にあって、その上にも人が住んでいる。他にゾムバと言われる6000フィート以上の高い山があって、その上にもまた人が住んでいる。その頂きに彼らの田園が見える。それはグラスゴーからハミルトンまでよりももっと広く、15マイルから18マイル位もある。 土地は全く高原地帯であって、その中には多くの人が住んでいる。

その住民の大部分は我等を恐れる。婦人たちは小屋に逃げ込んで戸を閉じてしまい、子供たちは泣き叫び、鶏さえ雛を棄てて逃げ去る。彼らは私どもを奴隷売買人と思ってかく恐れる。しかし間もなく我等はポルトガル人でなく、英国人であることを知る時が来るであろう。私は奴隷売買人が買ってきたての奴隷を馴らす棒(※上図)を見た。その長さは8フィートほどあって、その先が二つに別れ、その間に頭というよりはむしろ首をくくりつけ、他の奴隷がその一方の端を持って行く。彼らは馴れたと認められた時に、それを外して鎖に繋がれる。私はこの恐るべき状態を取り除くことができるとの望みをもって働いている。すべては全智の神の御手にある。彼は結局においてすべてを正しく導き給うことを信ずる。

愛するアグネスよ。神を父としまた導き手として持ち、彼にあなたの心にあるすべてを語り、彼を信友とせよ。彼の耳は常に開かれている。彼は謙遜なる嘆息を軽しめ給わない。彼はあなたの最善の友であって何時でも愛し給う。イエスのしもべとなるのでは十分でない。あなたは友とならねばならない。彼を愛しあなたの全生涯を彼に開け渡されよ。もっと彼を信じあなたのすべての注意を彼に向けより以上に彼を喜ばしまつるように。彼は彼自らの栄光のためにあなたとあなたの生涯を導き給うであろう。主、御身とともにあれ。お祖母様やあなたの友だちによろしく。あなたの目がよくなって、書物が読めるようになることを望む。

トムに私どもはシレーに下っていた、若い象を捕らえたことを語られよ。その象はは大きな犬くらいの大きさであった。しかしマコロロ人の一人が興奮していて、象の鼻を切ったので、出血多く二日ほどして死んだ。もし生きていたら、英国ではアフリカの象を見ることができないので、女王陛下に贈りたいと思っていた。お母様やオスウエルからは何の報せもない。」

彼が子どものことを如何に思ったかは次の日記の中にも表われている。
「1859 年6月20日、私は私自身の知識や力に向かって喚起されている世間の注意の如何なるものにも属することはできない。また属しようとも思わない。大いなる神の力が私の助け手である。私は常に私の成功はすべて神の恵みであることを語ろう。私は神の力の通路である。私は、神の恵みの感化が私を貫いて、私のすべてをこの堕落せる世界に、神の愛の支配が発展するために、用いられんことを祈る。

ああ御霊の温和なる感化が、私の子供たちの心に宿り、その霊を貫かんことを。キリスト・イエスにある神の不滅の愛、彼らの全性格にひろまらんことを。聖なる、恵みある全能の力、私は汝の全能の御子を通じて汝の蔭にあり。私の子供たちを汝の守りにおき給え。彼らを潔め、汝の御用にふさわしき者となし給え。義の太陽の光を、春に、夏に、刈り入れの秋に、汝のために彼らの中にあらしめ給え。」

(『リビングストンの生涯』182〜185頁より引用。リビングストンの熱情はすべて主の愛に生かされたものであった。冒頭の図は人間が人間を奴隷としてあつかった棒※http://www.gutenberg.org/files/13262/13262-h/13262-h.htm#CHAPTER_XII.である。彼ほど人間が悪魔の奴隷として滅びて行くのを黙って見ていることができず、とうとう辺境の地まで福音を伝えに来たまことの宣教師である。その彼は同時に離して来た家族のことを絶えず思い、主イエスを信じ祈り切っていた人物である。日本で言うと江戸時代幕末の人であるが・・・。
年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。神よ。あなたの義は天にまで届きます。あなたは大いなることをなさいました。神よ。だれが、あなたと比べられましょうか。詩篇71・18〜19

2014年3月19日水曜日

主は「懇願」されている!

馥郁と 香れ福音 春の世に
久しぶりの家庭集会(※)を開かせていただいた。今日は遠方からお証に一人の方がご夫妻で来て下さった。10時過ぎても人々は集まられず、このご夫妻がほぼ一番乗りであった。家庭を開放する者にとっては集まる人々が少ないとわざわざ遠くからお招きした方には失礼になるのではと、そればかりが気になるものである。しかし、10時半前後にはそれぞれ各地から人々が集まって来られ、あっという間に部屋は人々で満ちた。主の集会には心配は無用である、と思い知らされる。そう言えば、先週名古屋で日曜の朝、祈り会でひとりの兄弟はその日の全国各地に出て行くメッセンジャーのために祈られた。こうして背後でいつも祈られているのだと改めて思わされた。もちろん、この日の家庭集会のためにも、この兄弟をはじめ全国各地で心ある人々が、私が知らないだけで祈っていてくださるのだ。

メッセージは「主の懇願」という題名でヨハネの福音書4章に登場する女をイエス様がどのように導かれたかを語らせていただいた。その話の中で初めと終わりでバンヤンの『天路歴程』の文章を読ませていただいた。それは天路歴程に登場する「無知」氏が天国に喜んで迎えられた「クリスチャン」氏と異なり、天国への旅路を送っていたはずなのに、肝心の天国の門でその入門を断られ、地獄に落とされるというショッキングな結末を迎える。一体そのようなちがいをもたらしたのはなぜか。それは端的に言うなら、「無知」氏が自分自身の姿・罪人である姿について無自覚であり、それゆえに主イエス様を本当の意味で知らず、主の提供される神の義という衣を身にまとっていなかったということであった。その話は私にとっては井戸の傍らに来て水を所望された女が逆にイエス様に懇願する者として変えられイエス様を主として礼拝する者と変えられて行くまでのプロセスを理解するのにふさわしいと示されたので引用させていただいた。

果たせるかな、集会が終わって遠くからお見えになり、最近熱心に求道中のご婦人が先ほど紹介された本が読みたいと言われた。私としては大変嬉しかった。もとよりメッセージは不完全であるし、『天路歴程』を初めから終わりまでどなたか読まれれば益するところ大であると思ってご紹介させていただいたからである。「懇願」されたご婦人には、たまたまその本を余分に持っていたので差し上げ喜ばれた。『天路歴程』というこの本は有名ではあるので、購入はされるが、その実、読まれることが少ない書物のひとつではないだろうか、古本に出される機会が多いように思う。ざっと古書目録で調べただけでも値段も高額のものから低額のものまでまちまちであるが、結構手に入りやすい古書の一つであることがわかるhttp://www.kosho.or.jp/book/keyword/%E5%A4%A9%E8%B7%AF%E6%AD%B4%E7%A8%8B

みなさん、食事をしながら、それぞれ交わられ、三々五々帰って行かれたが、最後までかの一番乗りをしてくださった遠来の方が残られ、そのご夫妻を囲んでさらに10人ほどで小一時間ほど親しい交わりが与えられ、この日の望外の余徳となった。長い教会生活を経験されたご夫妻ではあったが、子どもたちをふくめ家族の救いのためにこのままじっとその時を待つだけでいいのかという煩悶が奥様に与えられ、そのころにひょんな機会からキリスト集会の本を手にして、この集会には何かがあると思って集われたということであった。私も前からその話を承っていたが、初めてお会いになる方々と一緒に再度お話をお聞きできたのはお証を一方的に聞くだけと違ってさらにご夫妻を良く知ることができて、まことに幸いな互いの交わりの一時となった。人格ある生きたお方であるイエス様を中心に集まる「家庭集会」はやはり何とも言えない霊の満たし、馥郁とした霊の香を与えるものだと感謝した。

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4・13〜14)

(※次回は4月2日午前10時半からの予定です。) 

2014年3月9日日曜日

リビングストンの生涯(3)

名古屋ウィメンズマラソン
1859年の始めにシレー河の探検を始めた。この河は今まで全く知られていなかったのである。その流域の村は肥沃で産物に富んでおり、土人は敵意は持たなかったが疑い深くあった。彼らは多分今まで、人間を盗みに来る者以外の訪問を受けず、また白人を見たことはなかったのである。シレーの谷は非常に好戦的なマンガンジア人が住んでいた。ザンベジー河と合流している所より数日上ると、シレー河が山脈の裂け目より流出している所に来た。一行の進行はその激流によって止められた。彼らはそれにマーチンソン瀑布の名を与えた(地理協会長ロデリック・マーチンソンを記念して)。土人の疑い深いのを考えると食料を持たずして、彼らの中に入り込むことは、その時には無謀のように思われた。土人は昼は土手に群がりて彼らを警戒し、夜は弓と毒矢を持つ衛兵をもって、自警するという有様であった。しかしながら彼らを文明化することにおいて幾らか進歩を見たので、将来においてもっと探検を進めるべく望みが与えられた。

リビングストンの日記の数節に、この時彼の心に浮かんで来た真剣な考えをうかがうことができる。
「1859年3月3日※、もし我等が惜しみなく自己を神に捧ぐれば、神は我等にその栄光を分かつべく、何かの御用に用い給うであろう。彼は祈りに応えて我等を導く知識を与え給うであろう。彼は何かに役立つように導き給う。ああ、しかし私は如何に心より自らを捧げ得ざることよ! 罪人なる我を憐れみ給え。

3月6日、マココロ人に主の祈りと信条を教えた。祈祷会は平常の如く午前9時半より始めた。忙しい旅行にある時には、私の心意は固くなり、心情は冷えて死せる如くなる。されど暫く静かにしていると、心情は力を回復し私はより霊的になる。これは私が先に経験せる恵みである。もしなすべき義務があれば、感情の如何を問題とせず私は断行しよう。たとえ心意は霊的ならざることにたづさわる時も、主は常に私とともにあり給うを信ず。私は全生涯を神の栄光のためにのみ用いられんことを願う。私の熱心な祈りは神の受け給うところとなりて、聖霊によりて主の栄光を祈るようにされねばならない。

私は最近今までよりも熱心に、探検のため、家族のため、ある誤れる伝道がキリストの福音を傷つけることのなきため、またこの暗黒の大陸を、祝福された福音に向かって門戸を開くことを、私に許されるために祈らされる。私はすべてを神に捧ぐ。主よ、私の上に祝福を垂れ給え。私を捨て去り給うなかれ。彼は過去において私を導き給うた。私の行く手も汝に捧ぐ。私はすべてのものを神より受けている。彼は彼の栄光のため憐れみの中に私を用い給うであろうか。私はそのために祈る。イエス自身も『求めよ、さらば与えられん』と言っておられる。神に真実であり得ない多くのくだらぬものが我がうちにある。神に真実を尽くし得ない。されど彼は真実そのものであり、昨日も今日も永遠に変わり給わない。単純に神を信じ得ないことは自惚れのためである。されどなおこの心は度々不信を思いて畏れ戦く。私はそれを思うて恥じる。ああ、しかし神は恵みによりて信仰と愛と幼児の霊を与え給う。おお、主よ、私は汝のもの、真に汝のもの、私を受け給え。汝の目に善しと見給うことを私になし給え。すべてのこと御心にしたがうため、全く自己を放棄せしめ給え。」

二ヵ月後(1859年5月)シレー河を再び遡って、賢い酋長チビサと親しくなった。彼は「よく笑う愉快な人間である。—このことは常によい兆候である。」リビングストンはチビサに大いなる感化を与え、彼も他の酋長のごとくリビングストンの力ある言葉の下に跪くようになった。

(『リビングストンの生涯』180〜182頁より引用。※陰暦とは言え、その一年後に我が国では開国をめぐり争論があり、当時の大老は桜田門外で暗殺された。 )

2014年3月8日土曜日

リビングストンの生涯(2)

彼は各方面より別れの手紙を受け取り、また送別の席に招かれた。いよいよ英国での最後の日は、旅行の準備、家族の処置、別れの挨拶などで多忙であった。夫人と一番幼いオスウェルとを伴うことにした。リビングストン博士は他の子供たちと別れることを深く悲しんだ。その多忙な時にありて、わずかな時を得てほとんど毎日子供たちに向かって手紙を書いた。

「1858年2月2日、ロンドンにて。 愛するトムよ、私は間もなく出発しようとしている。お前たちをまどろみ寝み給うことなき神の守りに残しておく。その神により頼みて、まだ誰も失望した人はない。もしお前が彼を友とするなら、いかなる人もなすことのできない、最もよいことをなしてくださるであろう。兄弟よりも、もっと近い友である。彼を求め彼に仕うるならば恵みを与え給う。私はお前に神を父とし、イエスを救い主とし、聖霊を潔主として持てというより他に、言うべき良き言葉を知らない。よく勉強して早く、この世界における神の働きに、用いられるにふさわしき者となれ。」

「1858年3月10日、マージー川において、パール号にて。愛するトムよ。我等は再び別れねばならない。波をも鎮め給う主は、我等も、そなたも等しく守りて我等を祝福し、又我等の同胞に祝福を送らしめ給うことを信ずる。主はお前とともに在(いま)して大いなる恵みを与え給う。罪を憎み避けよ。罪よりの救い主としてイエスに頼れ。お祖母様に我等が再び去ることを告げよ。ジアネットは私どものことについて種々話すであろう。」

1858年3月10日、リビングストン博士は、夫人および末子オスウエルをともなって、探検隊員とともに英国植民船パール号にてリバプールを出発した。(略)リビングストン博士はこの企画の長として、明らかに困難な地位を感じていた。彼は陸海軍人よりなる探検隊と比較して、一般市民を伴うことの困難を知っていた。軍人におけるがごとき訓練も服従心も彼らにはなかった。彼自身英国政府の下にその訓練を受けたことがないと同時に、今彼が従えているごとき人々に命令を与えた経験もなかった。そのため種々なる困難があった。彼はただ一つのことを決心した。すなわち彼自身の義務を全く遂行して、探検隊の誰にも彼のなすべき重荷を負わすまいとした。(略)我等は彼が気高くとも、自己を抑制し他を慰撫したあとを明らかに見ることができる。一方には隊長の地位を保ち、一行を兄弟の交わりに結ばんとすると同時に、親切な心で、各自の領分においての独立を認め、凡てを好意好感をもって処理していたことが明らかに表われている。彼が後に著した「ザンベジー河とその支流」は、主に政府と国民に対する彼のなしたことの報告であって、彼らに委任された範囲の事柄に限定しているのであるが、その中にさえ、衰えざる熱心をもって上よりの知恵と力を求め、また今まで同様、凡てを神の栄光のためになさんとの、彼の努力が多く表われている。

船の快速は彼をその家より遠く遠く運んで行った。彼は残しておいた子供たちを思わずにはおられなかった。3月25日船がシエラレオネに近づいた時、彼は長男に次の手紙を送った。

「我等はリバプールを出てから一日二百マイルの速力で走っている。あわれみある神の摂理によりて天候は非常に恵まれている。可哀想にオスウエルはビスケィ湾で揺られてひどく酔っている。 三日ほど何も食べない。しかし我等は間もなく氷と雪の国から、美しい夏の国に至るであろう。我等もまた、見事に雪解けになろうとしている。夜は船窓を開いて寝む。昼は日覆の楽しみを味わっている。夜になると南十字星の瞬きを見る。お前たちの上に高く輝いている北極星は、ここからあまり低いので霧のために見えない。私どもは再びその星を見ることができないであろう。しかしあわれみ深き全能の神は、変わりなく凡てのものの上にありて、彼を愛する者の側近く居り給う。お前はこの世で一人ぼっちである。だから主の友情と導きを求めよ。もし彼に頼らねばお前は迷うであろう。神に背く者の道は困難である。主の愛を受くるに価せぬ者であっても、主はお前をあわれみて受け入れ給う。」

14日の後シエラレオネに到着した。

(『リビングストンの生涯』167〜173頁より、抜粋引用。圧倒的な困難の中、主を愛すること熱く、沈着冷静に守られ、子供たちを主にゆだねて上なる方から知恵を求めての敢然として隊を率いての探検行。二人の日本の独立伝道者が息せき切って訳出した思いが伝わって来る。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」詩篇121篇)

2014年3月7日金曜日

リビングストンの生涯(1)

1857年の末ケンブリッジを訪ねた時、ここでなした講演ほど、非常なる興味と重大なる結果をもたらしたものはなかった。彼がケンブリッジに着いてセント・ジョン教会のウイリアム・モンク牧師の客となったのは12月3日であった。翌朝、評議員会館において、大学の卒業生、在校生および町やその近傍から来た多くの来訪よりなる大いなる聴衆に講演した。副総長が司会して彼を紹介した。リビングストン博士の講演は、アフリカ大陸と、その民族習慣宗教などを述べ、あわせて彼の旅行の主な出来事を語ったのであった。そして特に力説したのは彼の大目的であるところの、彼の開いたこの大陸に商業とキリスト教とを伝播せねばならぬということであった。彼は講演の最後の部分において、アフリカ伝道のため熱心に訴えた。

「伝道者として立つ人は、教育あり、自立心あり、進取の気性をもち、しかもまた熱心で敬虔なる人でなければならない。私はかくのごとき人々が、この栄誉ある目的をもたれることを願ってやまない。教育は救い主の知識を愚昧なる人々に知らしめるために、上より与えられるものである。もし諸君がかかる義務をなす喜びを知り、また同時に伝道者がつねに感じねばならない、かかる尊い事業のために選ばれた主の聖なる召の感謝をもつならば、諸君は躊躇することなくこの目的に進むべきである。

私のことについて言うも、私はかかる仕事に神より任ぜられたことを、欣(よろこ)ばしいと思わなかったことは一時もない。人々は私が私の長い生涯をアフリカにおいて犠牲にしたと言うが、それは犠牲と言い得るだろうか。私はただ、到底払い得ぬ神からの大負債のごく一部を返却したに過ぎない。健全なる活動、善をなす意識、心の平和、光栄ある後生涯への輝ける希望の中に、祝福された酬いを与えられるるものを犠牲と言い得るだろうか(引用者註: Is that a sacrifice which brings its own bless reward in healthful activity, the consciousness of doing good, peace of mind, and a bright hope of a glorious destiny hereafter? )。かかる見解の中にある言葉と思想を捨てよう。それは決して犠牲ではないのである。それはむしろ特権である(Away with the word in such a view, and with such a thought!  It is emphatically no sacrifice. Say rather it is a privilege. )。

伝道者の生涯の恵みと便益の前に幾度か心労、病疾、苦難、危険がわれらを躊躇逡巡せしめ、また深く失望の底に落とすことがある。しかしそれはしばらくである。かかる苦難は後に与えられるる栄光に比ぶべくもない。私は決して犠牲をなさない。主が高き御座より下りて、われらのために彼自身を与え給うた大いなる犠牲を思うとき、どうしてかかることばをわれらの口より出し得ようか。

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

私は諸君の注意がアフリカに向けらるることを望む。数年ならずして私は今開放せる国に死するであろう。その国を再び閉づるなかれ。私はアフリカに帰りて交易とキリスト教伝道のために道を開かんとする。諸君は私の始めた事業を進行せらるるや。私はその事業を諸君に遺す者である。」

(『リビングストンの生涯』畔上賢造・藤本正高共訳向山堂書房160〜162頁より引用。同書は昭和9年に訳され抄訳である。それ以来W.G.ブレーキーの書いたこの本を完訳した本は残念ながら日本にはない。そういう意味でわれわれ日本人がリビングストンを知るには貴重な書物である。訳者の一人藤本氏は前回のブログでご紹介した小林儀八郎氏が師事した方であり、この当時藤本氏は30歳そこそこで九州から上京し独立伝道に踏み出されたばかり、生活の保障もなく、長女を9ヵ月で亡くし大変な苦労ある生活の中でこの本を翻訳されている。恐らく「リビングストンの生涯」は共訳者である畔上・藤本のふたりの独立伝道者を慰め、鼓舞したものではなかっただろうか。なお、原文は以下のサイトで読むことができる。http://www.gutenberg.org/files/13262/13262-h/13262-h.htm )