2014年3月28日金曜日

リビングストンの生涯(完)

ビクトリア瀑布? 有島本挿絵
リビングストンの最後の誕生日(1873年3月19日)は変わらざる苦難の中に迎えられた。「全能なる人類の保持者に、かくも長く旅行の生涯において私を守り給いしことを感謝する。私は最後の成功を望み得るだろうか。非常に多くの障害が起こった。私をしてサタンの虜とならしめ給うなかれ。おお我が善き主イエスよ。」二、三日後(3月24日)「私の働きを失望の中に断念せしむるこの世の何物もない。私は我が神なる主にありて自らを鼓舞する。ただ邁進あるのみ。」

4月の始めにおいて、病んでいた腸より出血した。その量は多く、彼の衰弱は増し、憐な状態となった。しかしなお彼は彼の働きの完成に努力せんとした。かかる状態にあっても、なお博物の研究をつづけ、日曜の集いも休まなかった。

4月21日容態が改まった。彼は震える手で「驢馬に乗らんと試みた。しかし倒れ落ちた。従者は私を村に連れ帰った。全く力を失ってしまった。」と書いている。担架が彼を運ぶために作られた。それは実に心配な仕事であって、彼の痛みは加わり、衰弱は増すのみであった。4月27日彼は衰弱の極みにあって、最後の筆をもって日誌を書いた。「全く打倒された。留まる=元気が出る。乳ある山羊を買うために人を遣わした。我等はモリラモ川の堤にいる。」(※)

4月29日は彼の旅行の最後の日である。朝、彼はスシに小屋の一方を壊すことを命じた。担架が戸口から入らないので、そこより入れて乗るためである。彼は全く歩むことが出来なかった。かくて川や沼や水たまりの中を進んだ。やっと一行が乾いた平地に来ると、彼は度々地上に下ろさして休んだ。遂に一行はイララのチタンボの村に彼を運んだ。そこで彼は彼らが小屋を建てるまで雨がビショビショ降るので、家の軒下に置かれた。

小屋が出来ると彼らはその中の粗末な寝台に彼を運び、リビングストンはそこで世を明かした。翌日は静かに休んだ。彼は二、三のとりとめもない質問をなし、従者たちはもはや最期の遠くないことを知った。夜の始めのころは別に変わったこともなかったが、朝の4時になって戸の所に寝んでいた少年が、驚きの声をもってスシを呼び、主人は召されたのではないでしょうかと言った。蝋燭はなお燃えていた。彼は床の中におらず、その側に跪き、枕の上に組み合わせた手の中に頭を埋めていた。これは彼が常になす祈りの姿である。一同しばらく無言のまま佇んでいたが、起き上がる様もないので、従者の一人が静かに近寄って額に手を当ててみると、すでに冷たくなっていた。彼は召されたのである。

一人の従者をも従えずして、最も遠い旅へと旅立ったのである。しかし彼は最も敬虔なる祈りの態度において召された。その祈りは彼の霊を、愛する凡てのものと共に主の御手に託するために、またアフリカを—彼自身の愛するアフリカを—彼女の悲しみも罪も誤りも凡て共に、圧するものの報い主、失われたものの贖い主に委ねん、と祈りつつ召されたのである。

ライオンに襲われる1844年のこと 
このあと、9ヵ月の長い期間をかけてリビングストンの遺骸がどのようにしてアフリカ人の従者と言われる人々の手で港まで運ばれ、ついに英国まで帰って行ったか、それだけでも驚嘆に価するできごとである。生前リビングストンを尊敬していた人々の中で、その遺骸がアフリカの中央からロンドンまで運ばれたことを疑う者もあったので、それを調べて見ると、果たせるかなその腕にかつてライオンに噛まれた跡を認め、リビングストンであることが証明されたと言う。1874年4月18日、土曜、彼の遺骸はウエストミンスター寺院の墓地に埋葬された。最後にその墓碑銘についての記述を紹介したい。

リビングストンの永眠の地を示す黒き墓石には次の如く刻まれている。

海山を忠実なる手に運ばれし
デビッド・リビングストン ここに眠る
伝道者、探検家、博愛家、
1813年3月19日、ランナックシャイヤーのブランタイヤーに生まれ、
1873年5月4日、イララのチタンボの村に瞑す。

30年間の彼の生涯は、土人に福音を伝うるために、未開の秘密を開くために、中央アフリカの奴隷売買を禁止するために、屈せざる努力をもって費やされた。その最後に記したる言葉は次の如くである。

「余が天外の孤客として言い得る凡ては、世界の開かれたる傷を癒さんと助力する、アメリカ人、英国人、トルコ人の一人一人の上に天来の祝福豊かならんことを。」

墓石の右側にはラテン語で

「余は他の何物にもまさりて真理を憧憬す。多年秘密に包まれし河源の探索の如き、これに比すれば価値少し。」とあり左側に次の聖句が刻まれている。

「我にはまたこの檻のものならぬ他の羊あり、これをも導かざるを得ず、彼らは我が声を聞かん。」

(『リビングストンの生涯』298〜305頁より抜粋引用。※有島・森本の共著になる『リビングストン』には以下の記述がある。「この条理なき一文こそ、実にこれ彼の絶筆なりき、彼は今やその感慨を記し得ぬまでに、衰弱せしなり、この文を読み来る者、誰か一滴同情の涙なからんや、彼は当日全く食糧に欠如したりければ、乳牛を買わしめんとせしも、遂に得ざりき、28日の如きは人を四方に派して、食物を求めしが皆手を空しうして帰りぬ。」(同書214頁)私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。ローマ14・7〜9)

0 件のコメント:

コメントを投稿