2014年3月26日水曜日

リビングストンの生涯(8)

リビングストンの家族に対する愛情がいかに深いかを今まで見てきたが、彼の家族外の人々に対する愛を思うとき、その愛がどこから来るのかわかる思いがする。次の文章はそのことを雄弁に語っている。このような愛は決して博愛主義者が持つ愛では断じてないと私は思う。

リビングストン博士は、最高の賜物を与えられている人に属する、驚くべき能力を持っていて、しかもそれは、一つの主題より主題へと移るのでなく、一つの気分あるいは調子から全く異なったものに瞬間的に変化してゆくのである。このころ彼の家庭に出した手紙に、よくこの特徴が表われている。

紙の一面に、熱病で死去した若き従者に対する、優しきクリスチャン愛の爆発と悲しみが書かれており、他の面にはバクハトラの地図が、山や川まで入れて、極めて地理的詳細に書かれている。その上部には幾分感傷的に、また半ば滑稽な詩が記されている。しかしそのために如何なる理知的な人も、彼の悲しみが浮薄で真面目さを欠いていると想像することは出来ない。我々が静かにそれを読むと、それは彼のこの黒人に対する愛の深さと優しさとを表明し、しかもその愛は永遠の世界に対する生ける見解と、唯一の救い主としてのキリストに対する信仰によって強められた、卓絶せるクリスチャン愛であることを証しする。また同時にこの可憐なる土人が彼に対して、如何なる愛をもって報いたかを示している。またこの若者の霊のためになさねばならぬ事をもなし得なかったと言うが如き、彼の自己詮索の真剣さと、自己批判の厳粛さが彼の伝道の義務に対する強き良心とともに表われている。

「可憐なるセハミよ、汝は今どこにいるか。汝の霊は今宵どこに宿れるか。かつて苦難の中に徘徊せる時、私が汝に語った言葉を思い出しているか。私は出来得るならば、今如何なることでも汝のために為さんとする。私は汝の霊のために泣く、しかし今如何なることをか為し得よう。汝の運命は定まった。ああ可憐なる愛するセハミよ、私はお前の霊に罪を犯したのではなかろうか。もしそうならば私は如何にして審きの日に汝に見(まみ)えんや。しかし私は汝に救い主について語った。お前はその救い主を覚えたであろうか。そして主は汝を暗黒の谷をも導き給うたであろうか。主は主のみなし得給う慰めを、汝に与え給うたであろうか。ああ主よ、願わくば私をして人々に忠実ならしめ給え。私が多くの霊に罪を犯すことなきように導きを垂れ給え。この可憐なる青年は一行の指導者であった。彼はよく他を導き特に私に対して忠実であった。私の欲するものは言わざる先に察してこれを整えた。夜は枕元に水瓶(みずがめ)を用意し、私が目覚むれば直ちに水を与えてくれた。肉を煮れば善き所を私に与え、夜眠るには善き場所を備え、何にても一番よいものを私にくれた。ああその彼は今何処に居るや。」

(『リビングストンの生涯』46〜47頁より引用。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪者に、『悪者よ。あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もし、あなたがその悪者にその道から離れるように語って警告しないなら、その悪者は自分の咎のために死ぬ。そしてわたしは彼の血の責任をあなたに問う。あなたが、悪者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。」エゼキエル33・7〜9)

0 件のコメント:

コメントを投稿