2016年6月30日木曜日

The less includes the Greater(小事に忠実たれ)

兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。(1コリント7:29) 
そういうわけですから、・・・賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。(エペソ5:15〜16)

 私たちは広い範囲を扱う時、きわめてあいまいになりがちです。また一般的なことにねらいを定めていると実際的なことがらに到達することはありません。原理に対する忠実さは細部にあらわれる忠実さによって証明されるだけであることを忘れます。このあいまいさは、私たちの時間は神にささげれれるべきなのに、そうできないという弱い願いが、絶えざる無力さとなってあらわれることにつながらなかったでしょうか。

 霊的な事柄においてはより大切なことは必ずしもより小さいものをふくんでいるのでなく、逆説的だがより小さいものがしばしばより大切なものをふくんでいるのです。この場合において、時間は私たちの主のために用いられるように託されているのです。しかし私たちはそのことを総じて把握できません。私たちは時間を何かの目的のために使うことができる前に、本能的に時間を無駄にしてしまうのです。

 そのように新年がめぐってくる時、私たちは主に対して特別な熱心さをもって時間に専念します。けれどもそうする時、私たちは一年でさえ私たちが取り組むには余りにも多過ぎると言う感覚を意識しないでしょうか。そしてこの感覚、すなわち私たちが把握できるよりももっと大きなことを取り扱うという感覚は、現実感を損わないでしょうか。

 このようにして私たちにはより多くの御しやすい基準が与えられるのです。日曜の朝や月曜の朝がめぐってくるように、私たちは主に対して最初の週を感謝をもっておまかせし、助けを得、憩いを得る感覚が新たにされ、強くされるのです。しかし6、7日でさえ私たちの手許で十分完結してはいないのです。明日でさえ私たちのちっぽけな掌握を越えています。それゆえに明日の恵みさえ私たちには与えられていないのです。

 そこで私たちは私たちの生活を毎日の問題として熟慮する必要性を知ります。さらに私たちの時間を一般的にいかにもっとゆだね、ささげようとも、この場合には真実に当てはまらないことを知っています。ここにおいて私たちは大変な励ましと助けを十分知ったのです。そしてもし結果が完全に満足しないものであったら、少なくとも私たちがこの細分化した点に到達する以前よりももっと多くなるでしょう。

 しかし、もし私たちが一つの方向にある程度進むことによって助けと祝福を見出したのなら、私たちが同じ場合にもっと進むなら私たちはもっと多くのものを見つけるということはあり得ないのでしょうか。だから、もし私たちが主に日々をおゆだねすることができるなら、なぜ時間や瞬間瞬間をおゆだねしないのでしょうか。私たちはそのようにおゆだねして、新たなる特別な祝福を期待しないのでしょうか。

あなたの器官に
すべての時間を
あなたの祝福された奉仕に合わせて
整えてください
熱心な舌
力ある腕
技倆に富む手
そして
急ぐ足
つねに果たせる用意があります
すべてのあなたのおことばに
すべてのあなたの御意志に

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-30-the-less-includes-the-greater/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97346です。今日はハヴァガルの霊想一年の折り返し点であり、昨日一昨日とテーマがはっきりしていて、今日の分を期待したが、丸っきり歯が立たず、訳出に難航をきわめた。一層のこと白紙で載せようかとも思ったが、そのまま悪文・誤訳を載せている。読者諸兄のご助言を切にお願いする。

マライア・ハヴァガル自伝 幼年時代(4)
 コーレーを散策している時、ヴィカレージの父を覚えている老人に出会った。彼は父が貧しい副牧師だったが、気前が良かったと話してくれた。「お嬢さん、あんたはお父さんを思い出させるよ。そう彼は良く与え、良く生きる男だった。そうだ、おまえさんが生まれた時のことを覚えているよ。旦那は看護婦さんを呼ばせに確か9マイルか10マイルか夜遅くおれを使いにやったんだ。旦那さんは言ったね。ジェームズ、君の代金はいくらだい。いいや、いくらでも。じゃあ6シリングだ。まったく気前が良く、チャンとお代はいただいたよ。
 当時は教会に人々が一杯だった。日曜日ときた日にゃ、この道は馬車でごったがえしたよ。お父さんはキリストについてわかりやすく話してくれ、人はどうしたら栄光に達することができるかも話してくださった。その上、お父さんは音楽家で確かに素晴らしい声の持ち主だったよ。そうだ、お父さんは本の花飾りの頁には曲を書いていたし、新しい賛美歌集も作ったんだね。」)

2016年6月29日水曜日

あなたのためにある主の足

その足は、純金の台座に据えられた大理石の柱。(雅歌5:15)
そのことばは甘いぶどう酒。あの方のすべてがいとしい。エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。(雅歌5:16)

 主の御足はあなたのためにあるのです。御足は非常にしばしば疲れていました、傷ついていました、そして一度血を流されたのです。御足は主が正しいことをなさるために出歩かれた時、そして苦しみを受けるためにエルサレムに上られた時、明確な足跡を残されました。そしてこのような「主のもっともきよいいのちの祝福された歩み」は代用品として、模範として、どちらもあなたがたのためだったのです。

 私たちが待ち、学び、そして憩い、愛するところは主の足もとです。そして依然としてこの祝福された足は主が再び私たちを受け入れるために来られるまで、「彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。」(黙示録3:4)というみことばが実現されるときまで、あなたがたのためにあるのです。

おお救い主様 
私のわがままな
迷いだす心を
あなたに結びつけてください
そうすれば
私はあなたの祝福にしっかりと
つながっていられるでしょう
そしてもはや
あなた様、私の愛する贖い主、
あなた様、私の心の王から
離れることはないでしょう

そして
私に
日々あなたにつき従う恵みを
喜びと楽しみをとおして
あるいは憂いと悲しみをとおしても
お与えください
聖にして喜びのあるあなたの輝かしい故郷に入る
入口が私に与えられる時まで
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-29-his-feet-for-you/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97345です。

マライア・ハヴァガル自伝 幼年時代(3)
 私は1821年11月15日にグローセスターシャーのコーレー・ヴィカレージで牧師ウイリアム・H・ハヴァガルとその妻ジェインの間の三番目の子どもとして生まれた。私の洗礼は二巻の説教集といくつかの家庭礼拝の祈りの著作のある牧師エレミヤ・スミスによって翌年の3月19日に授けられた。まだ幼児であったとき、父はこの地での責任を離れてウォーセスターシャー、アストレーに赴いた。父が1870年に亡くなるまで私は誕生の地を再訪することがなかった。父の足跡は50年後も消えずにはっきり輝いていた。それらの記録を姉のミリアムによる父の思い出のために書き留めた。
 私が最初に罪を意識した生々しい思いは特異だった(あとで触れるが)。50歳の時、生まれた部屋の窓、そして洗礼を授けられるためにそこを通って連れて行かれた教会入口の門を懐かしさのあまりじっと凝視したものだ。確かに私自身の子ども時代の記憶は私が洗礼を授かっていても生まれ変わっていなかった、主のいのちをいただいていなかったことは明らかだった。

※たまたま、フランシス・リドレー・ハヴァガルの上記の霊想にはイエス様御自身のfootprintsが書かれ、姉のマライア・ハヴァガルの自伝には彼女たちの父のfootprintsが書かれていた。イエス様のfootprintsの訳は困らなかったが、後半のfootprintsの訳は自信がない。むしろこれは墓碑銘のようなものかと想像したのだが・・・でも、同時に別々のことを目的としたブログ記事で同じfootprintsが登場したなんて、こんな不可思議な一致があっていいものか。
 昨日も別件だが、吉祥寺の改札口を通ろうとした時に日頃お手紙を書かねばならないと思っていた方と駅構内でまたすれ違った。これで二回目の遭遇である。前回は一二ヵ月前に吉祥寺の雑踏する街中でやはり偶然にお会いした。昨年9月に初めて知己を得て、2月にもお会いした方なのだが、その後ご無沙汰しており、お会いする機会もないまま、この上はお手紙で福音を何とかお伝えできないものかと思っていた方との遭遇であった。このことも主の導きとしか言えない。)

2016年6月28日火曜日

私たちのくちびるは主のためにある

正しい者のくちびるは多くの人を養い、・・・正しい者のくちびるは好意を、知っている(箴言10:21、32)

「われらのくちびるはわれらのものだ」(箴言12:4)と言っていた日々は永遠に過ぎ去りました。今ではくちびるは私たちのものでないことを知っております。しかし、読者のうちでどれだけの方が「くちびるが軽率に話してしまった」ことにみじめな思いをされているでしょうか。どれだけ多くの方が、くちびるがもっともしたくないと思っていることはくちびるの戸が閉じられることだと知って、「私のくちびるの戸を守ってください。」(詩篇141:3)と祈られていることでしょうか。

 くちびるはわざと心で決心して、軽はずみな言葉や愚かな言葉あるいは大げさな言葉がそれぞれの誘惑にしたがってそのとびらをそっと抜け出て行き、その結果助けられない状態になるのです。そのような者の祈りのほんとうの目的はそれほど多くの言葉が抜け出て来ないようにというただそれだけでありました。信仰が進まなくなると同様に、その答えも進まなくなり、それゆえくちびるの戸は守られませんでした。

 問題にまっすぐ向き合いましょう。私たちは自らのくちびるを主にゆだねてきたのでしょうか、それともゆだねてこなかったのでしょうか。この問題がまず解決されねばなりません。そうしないで、さらに時をすごすことのないようにしましょう。

 くちびるをイエス様のところにあずけ、イエス様に取り上げてもらえるように頼みなさい。けれどもくちびるを主におゆだねした時、こんなふうになっていませんか、はたしておゆだねしたくちびるを主は守ることができるのだろうか、できないのではないのだろうか、と。もし主がおできにならないのなら、もちろんあなたはただちにあきらめたほうが良いです。なぜなら、あなた自身の経験によれば、あなたはできない、それゆえ助けようがないということは何度も明らかだったからです。

 でも、もし主ができるなら、いいえ神に感謝しなさい。「もし」ということはないのです。主はおできになる、むしろ、この永遠に続く失敗が避けられないという必要性はどこにあるのかと言いなさい。あなたは事実上自分はそうなるように運命づけられていると考えたのです。それがために、いかなる時も主の御腕は救えないほど短縮されることがないのに、ただあなたがイスラエルのきよい方の力を制限していたのです。

 正直なところ、今日あなたは主にあなたのくちびるを守っていただくように信頼しましたか。信頼には私たちがゆだねたものが守られるという期待が必ずふくまれています。あなたは何度も一生懸命試してみたかも知れません。けれどもあなたは信頼しなかったのです。ですから、あなたは守られなかったし、これまであなたのくちびるはあなたのたましいのわなとなったのです。(箴言18:7)

主を読みなさい
コニー 
主をもっとも愛する、そうです
あなたよりももっと愛する方について
読みなさい
その愛、すぐれた真実な
とこしえに続く、いつまでも新しい愛を
読みなさい
主の心以外の誰のために勝利が得られると
話すことができましょうか 

主を読みなさい
コニー
日曜学校の本は
導く星から流れて来る
確かな銀色の光線のように
記念となって光り輝きますから
冬の海の波を横切って
はるかにはっきりと

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-28-our-lips-for-him/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97344です。随分内面的な長文の文章である。くちびるの動きにこれほど敏感になっている文章は読んだことがない。ハヴァガルがいかに繊細であったかということだろう。しかもこの文は「コニー」が登場する。どんな女性か分からない。日曜学校の生徒であったのだろうか。

マライア・ハヴァガルの伝記 1章 幼年時代(2)
 私の最大の霊的恵みは神の永遠の愛を体験したことだった。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。 」〈エレミヤ31:3〉私の最大のこの世での最大の恵みは人生の防波堤となるべく訓練をしてくれた賢く、愛情深く、純潔な両親を抱いたことだった。しかし、私はあまりにもしばしば自分かってな道を選び、全面的に主に自分の意思をゆだねることに随分と遅れたことであった。
 私たちの教会の祈祷文には多くのあやまちをできるならば救おうとする意欲が正確に表現されている。「おおー神よ、私たちはあなたなしにはあなたをほめあげることができないのですから、あなたの聖霊が恵みによって万事において私たちの心をまっすぐにし、またご支配してくださいますように」
 今も私は主に対して無価値なしもべの一人として、へりくだって心から神への感謝に参加することができる。「 私たちはあなたをほめたたえます。私たちの創造、保持、この生涯のあらゆる祝福ゆえに、さらにはなかんずくあなたの測り知れない愛のゆえに。それは私たちの主イエス・キリストによって、恵みの管、栄光の望みとなるために、この世を贖ってくださったことです」)

2016年6月27日月曜日

民として立てられた私たち

EUはどこに向かうか アヴィニヨンの橋 2006年11月

主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。(申命記28:9)

 どこに、これより強力な約束があるでしょうか。今、主のおことばに従い、信頼しなさい 。そして今、「きょう、あなたを立ててご自分の民とする」(申命記29:13)神におまかせしなさい。あなたのたましいを支えてくださるように良きようにとりはからってくださる主にゆだねなさい。信頼できる創造者として、あなたが主におゆだねすることを主は支えてくださると確信できるのです。


さあ、主よ、私はあなたにおまかせします
私は全面的にあなたのものでありたいです
あなたが私にご自身を与えてくださり
あなたが全面的に私のものであるように
おお、私を受け入れてください
私をあなたのものとして聖別してください
完全にあなたのもの
あなただけのものとして 

( 今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-27-ourselves-established/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97343です。

 以下はAutobiography of Maria V.G.Havergalの私訳である。著者マライア・ハヴァガルは一月からずっとこのブログで訳し紹介し続けて来ているフランシス・リドレー・ハヴァガルのお姉さんにあたる人である。この自伝の中には随所にその妹について触れたところがある。読者にはその部分だけを紹介しようと思うのだが、中々私自身の語学力もあって適当にピックアップして紹介できないので、迂遠な方法だがこの伝記を始めから少しずつ訳すことにした。ハヴァガルの育った環境がわかり、彼女の霊想を側面から支えてくれるものだと確信する。

マライア・ハヴァガルの伝記 1章 幼年時代(1)
 「いつくしみと恵み」と「自分かってな道」こそ我が人生の縮図だ。その生涯の日々も閉じようとしている。今や夕暮だ。そして夕暮は真っ赤な日没へ移ろうとしている。もう少しで達せる天のふるさとの高みから振り返って見ると、夕方の日の輝きが来し方を照らしている。曲がりくねったり、わき道にそれたり、近道をとったり、誘惑に陥り、落とし穴に落ちたりした「自分かってな道」のあらゆる過誤を、あらわにしている。
 けれども我が目は再び神の永遠に続く、かわることのない圧倒的な愛の金色の光線を見る。なぜなら私は主が私を安全に導いてくださった「正しい道」そして確かに私のあとについてきた「いつくしみと恵み」を見ることができるからだ。そして今やまるでベウラ※の地に滞在しているかのように、過去の思い出を書き留めたい。願わくばこの書き物をとおして主のご栄光といつくしみがほめたたえられますように。

※イザヤ62:4残念ながら新改訳聖書にはベウラが訳されていない。ベウラは「配偶」と文語訳聖書には明記してある。主から離れていた罪人が主のところに帰らされことを歌い上げた聖句である。)

2016年6月26日日曜日

このイエス

初なりの いちじく乗せて ラッパ皿

キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を(神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりを)おささげになりました。(エペソ5:2)

 そうです。ご自身です。花嫁のほんとうの宝、中心である宝とは何ですか。何がもっとも深く、輝ける、甘美な愛と賛美の感動を引き起こすでしょうか。花婿の高価な贈り物ではありません。主のまばゆいばかりの義の衣ではありません。想像できない富の持参金ではありません。花嫁を連れて行く王宮の家のすぐれた様でもありません。花嫁が花婿と分かち合う栄光でもありません。それはご自身そのものなのです。

 イエス・キリスト、「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」(1ペテロ2:24)「このイエス」(使徒1:11)「見たことはないけれども愛しており」(1ペテロ1:8)神の御子、そして悲しみの人の子、私の救い主、私の友、私の主人、私の王、私の祭司、私の主、そして私の神。

 主は言われる。「私も、あなたにそうしよう。」(ホセア3:3)※何という「私」か。私たちは、その言葉の中に、いかなる人間の「私」とも大変異なる何という力とやさしさを感ずることでしょうか。なぜならあらゆる主の神性と主の人間性がその中に集約されているからです。そしてすべての「あなたに」。

 しかも「すべて」だけでなく、あなたのために「とこしえ」なのです。主の不変性はすべての特性のしるしです。主はとこしえに変わることのない「このイエス」なのです。死すべき人間の心はどのようにこの大きな約束を見積もることができるのでしょうか。人の心は「私も、あなたにそうしよう。」ということばのなかに包まれていることをどのように考えることができるというのでしょうか。

「このイエス 」

おお、このことばほど甘く耳に落ちることばはありません
静かで憂鬱な寝付かれない夜にはるかかなたから聞こえる音楽のように
疲れている者にやさしく呼びかけられる主
 「来なさい、そうすれば休ませてあげます」
小さな子ども愛した主は腕に彼らを抱き祝福された

孤独な悲しみの人である主は私たちの罪を負い呪われ低くかがまれ
不誠実な友によって苦しみの最も暗黒な時間に捨てられた
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-26-this-same-jesus/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97342です。

※今日は尊いみことばの取り次ぎのご用を預かった。その中心の一つに「とどまる」〈ヨハネ15:4他〉ということばがあった。帰って来てこのハヴァガルの文章を読んでいたら、その「とどまる」があった。これぞ、「このイエス様」が呼びかけてくださることばだと思い感謝した。記念に書き写しておく。「私は彼女に言った。『これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。』」〈ホセア3:3〉)

2016年6月25日土曜日

Cherished and Pillowed to Rest


だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。(エペソ5:29)

 教会は「ひとつのからだ」であるだけでなく、「多くの部分があり」ます。というのは「からだはひとつの器官でなく、多くの器官からなるからです」そして全体に対して真理であることは、もっとも小さい部分にとっても真理であります 。個人は大きな全体の中で忘れられているとだれかが思わないように、私たちの神のやさしいことばは可能なあるいは束の間のおびえに合わせるためにくだってきて、言うのです。「あなたがたは」キリストのからだであるだけでなく、「ひとりひとりは各器官なのです」(1コリント12:27)と。

 あなたを「Cherisheth(養い育てる)」というこの一語をとおしてやさしく輝く愛のすべての啓示を受け取ることをためらわないでください。なぜなら、あなたが自分はキリストの最も弱い器官であると思い、栄光あるからだの一員たる価値がないと感じれば感じるほど、ますますそのことばはよりぴったりとまたやさしく当てはまるからです。

 なぜなら、そのことばは一方で必ず、弱さや劣等や欠乏を示唆しているからです。もし私たちが全く強く、有能であり、自分に満足しているなら、私たちにとってそのことばは何の意味も持たないでしょう。主は決してそのような人々のために書き留めようとは配慮されなかったでしょう。そういう人たちはそのことばを必要としないし、またそのために主に感謝しないでしょう。

 私たちは樫の木や運動選手や「意志の強い婦人」を「養い育てる」ことについては話をしないものです。この美しいことばを心から待つことやそれを大切にする感覚は、主は他の人たちがたとえ私たちをどんなふうに思おうともお構いなく、小さいものや弱いもののなかにおられる感覚とちょうど合っているのです。結局、何千人を追跡する者であっても、小さな者でないでしょうか。ゴリアテを殺す者であっても、弱い者ではないでしょうか。彼ら自身は偉大で権能あるお方、救い主との真の隠れた交わりを経験しているだけなのです。

 キリストにある一人の父、あるいはイスラエルにある一人の母も、やさしく、感謝にあふれ、大変疲れを覚える小さな子どもの心のまま、大事な主に心を向けることでしょう。その結果、すばらしい慰めを得て、新たに元気づけられるのです。そして大変慣れ親しんだ聖句の小さな枕の上に静かに憩うことでしょう。
 
私はこんなふうになるとは
決して思わなかった
毎月毎月知らされる
あなたにある平安の川が 
流れの中に一点の波紋もなく
信頼の中に一度のゆらぎもなく
幸福感の中に一点の陰りも 
ないことを

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-25-cherished-and-pillowed-to-rest/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97341です。今日の箇所もやはりきわめて訳出の難しい個所がありました。そのために日本語もおかしくなっています。読者諸兄のご寛容をお願いします。あわせて適切な訳を教えていただければ大変感謝です。内容的には大変すばらしいハヴァガルの霊想になっているように思うのですが・・・。なおpillowはハヴァガル愛用の用語だと思います。) 

2016年6月24日金曜日

賜物ゆえに主に感謝せよ


神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)
主に感謝し、御名をほめたたえよ。(詩篇100:4)

 あなたは今ただちに感謝をささげることによって永遠のいのちという偉大な賜物を受け入れたことを証明なさいませんか。また、あなたのためにそれを完成するために死なれた救い主を賛美することによって、あなたの確信が完成されたみわざにあることを証明なさいませんか。 

憩え、主の悲しみによって
私たちの罪のために打たれたお方
見よ、神の小羊を
主の死は私たちのいのち
さあ あなたの頭を上げよ 
おお門よ
主がはいられる
まことによみがえられたキリスト
戦いの勝利者
感謝 感謝 
勝ち取られた主
愛の勝利を遂げ
墓を凌駕し 
凱旋された主に

2016年6月23日木曜日

署名され、封印され、支持され、確証される


神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。(2コリント1:20)
 
 どの方にあってですか。主にあって、神の御子にあってです。主はご自身の右の手にこれらの恒星のごとき約束を支えておられます。主は私たちのために永遠のいのちという偉大な約束を維持して来られました。それは神が私たちのために世界が始まる前に御子にいのちを与えられたことによります。そして、あらゆる他のすべてのものはいのちにふくまれているのです。

 そして、その約束を確かにするのが主のお働きの一つであります。このようにして、署名され、封印され、支持され、確証されることは「書かれている」(エステル8:8)ことが私たちの現在にとって十分な「光と、喜びと、楽しみと、栄誉」(エステル8:16)となるのです※。

私たちの心が
最も真実な喜びが見出されるところに
確かに結びつけられますように

そして
私たちの燃えあがる愛の賛美を
もっともっと豊かにしてくださいますように

そして
「見えないもの」(ヘブル11:1)天にある永遠を
見つめながら「栄光から栄光へ」と
おおー救い主よ 私たちを引き上げてください

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-23-signed-sealed-held-confirmed/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97339です。

※訳者注 この短い霊想はハヴァガルがエステル記の8章を思い浮かべながら、新約のパウロの書簡のこの個所を繙いていたと想像してほぼ間違いないであろう。参考までに以下そのあたりの旧約聖書の個所を引用する。「あなたがたはユダヤ人についてあなたがたのよいと思うように、王の名で書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができないのだ。」そのとき、王の書記官が召集された。それは第三の月、すなわちシワンの月の二十三日であった。そしてすべてモルデカイが命じたとおりに、ユダヤ人と、太守や、総督たち、およびホドからクシュまで百二十七州の首長たちとに詔書が書き送られた。各州にはその文字で、各民族にはそのことばで、ユダヤ人にはその文字とことばで書き送られた。モルデカイはアハシュエロス王の名で書き、王の指輪でそれに印を押し、その手紙を、速く走る御用馬の早馬に乗る急使に託して送った。〈エステル記8:8〜10〉) 

2016年6月22日水曜日

あなたの問題を父の御手にゆだねなさい

主がみこころにかなうことをなさいますように。(1サムエル3:18)

 エリは自分の家に確実に重い裁きがくだるという恐ろしい状態のもとでこれらのことばを語りました。なぜなら、主がそのことをすでに話されていたからです。しかし、一般に、神に愛されている子が、確実にやってくるそのようなできごとの不安の下にいなくても、無条件に「主がみこころにかなうことをなさいますように」と言うのを恐れていることがどれだけ多いことでしょうか。

 主がなさることについて、不安や不確かな時よりは、実際に壊滅的な打撃を受けた時のほうが、そう言うのはもっと簡単であります。多かれ少なかれ、不安と不確かなこの要素がつねにあります。人は頭上高く空がもっとも澄んでいる時でさえ、地平線内に小さかろうと大きかろうと、雲がない人生をほとんど想像することができません。

 私たちは絶対的な宝を地上には持っていません。私たちの前にあることが得か損か、失敗か成功か、安楽か苦痛かどうかは決して分からないのです。そして、もし私たちが、不確かだとわかり、私たちが選んだようにそれから向きを変えることが許されたなら、より近いものを獲得することによって、いくつかの究極的な目的を駄目にし、より劣ったものをつかむことによって、いくつかのより大きな価値を妨害することは確かであるはずです。

 もし、私たちがそのような経験を試みることが許されていたら、すぐに全く困惑し退屈になり、誤りの混乱に乗ぜられる自らを知らねばならないと思います。もし、いかなる感覚も残らなかったら、父の御手に全部もどすことを求め、「主がみこころにかなうことをなさいますように」と言わねばなりません。そうすれば安心し安らぎを感じることでしょう。 

 それでは、なぜ、ただちに安心と安らぎがないのでしょうか。なぜなら、なさるのは「主であり」私たちは何も知らないからです。それは豊かです。あなたを愛される主、あなたのことを考え、あなたのために面倒を見られる主、あなたを理解される主、過ちをなさらない主、あなたのためにご自身の御子を惜しまず与えられた主。

 あなたは、主に主の良いと思われることをしていただかないのですか。その時、あなたが主にしていただこうと思うのは何なのか考えなさい。恐らく、それはあなたの視点から出ているもので、主の見られる視点からではないでしょう。なぜなら、あらゆる場合に発端となるべきことばは「主の目に良いとされること」であるからです。

 主の目は徹底的に、あらゆる周囲のものを見、またすべてを越えたものです。そのように主の目に良いことは絶対的にまた完全に良いもので、私たちの最善のものよりはるかに良いものであるに違いありません。主は正しいことをなさるが、その正しさを良きもので飾られるのがわかると大変な平安があります。そして、私たちがこれを見る時、残りのものは喜びで飾られるのです。その時にはもはや「 主がみこころにかなうことをなさいますように」と言うのは大変むつかしいことではないはずです。
 
しかし、私たちは心に描く拒絶される良いものを 
しばしば空しく求めます
それは押し迫った必要が依然として
与えられないままだとみなしたものです
しかし、あらゆる隠された危険から
このようにして私たちの最善の友である方は
盾となられます
主はいかなる良いものも拒絶なさいません
神はあなたがたの必要を全部供給なさるのです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-22-put-your-case-in-your-fathers-hand/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97338です。今日の文章も難解で訳出は極めて困難であった。) 

2016年6月21日火曜日

主は私たちと食事をされる

百合の花 一年経ちて 咲き揃い 摂理の不思議 人に伝えん※
この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。(ルカ15:2)

 私たちが主イエス様と食卓を共にした時、「食卓の下のパン屑さえ集める資格がない 」(参照:マルコ7:26他)と感じていたとしたら、これらのことばはどんなに貴重なことでしょうか。私たちが罪と罪過のうちに死んでいたことを心に刻んでいるなら、ラザロがよみがえらされて「イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた」(ヨハネ12:2)ことを思い起こすことでしょう。

 私たちが、疲れはするが勝利を目ざして戦場から戻って来た時、私たちの平和の王がパンとぶどう酒をもち、ご自身の祭司としての祝福をもって会いに来てくださるのを待つことができます。その結果、私たちはご自身によって強くされ、かつ新たにされるのです。

語られていない必要を誰が
深く感じて知るのだろうか
それはほとんど知られないのに  

神お一人以外に誰が餓えている魂を
満たし、支え、導くことができるだろうか 

何たる祝福のともなう約束であろうか

この世の友だちに力がなく
この世の泉はすぐに渇くのにくらべて
「神」はあなたの必要をことごとく満たされる

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-21-he-dines-with-us/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97337です。

             植物に感謝せよ(下)

 世界に生まれ出たものただわれ一人のみならば別になんの問題も起こらぬが、それが二人以上になるといわゆる優勝劣敗の天則に支配されてお互いに譲歩せねばならぬ問題が必然的に生じて来る、この譲歩を人間社会に最も必要なものとしてその精神に基づいてたてた鉄則が道徳と法律とであって、ほしいままに跋扈する優勝劣敗の自然力を調節し、強者を抑え弱者を助け、そこで過不及なく全人間の幸福を保証したものだ、これが今日人間社会の状態なのである。
 ところがそこにたくさんな人間が居るのであるから、その中には他人はどうでもよい、自分独りよければそれで満足だと人の迷惑も思わず我利な行ないをなし、人間社会の一人としてはじつに間違った考えをそのとおり実行するものがあって、社会の安寧秩序がいつも脅かされるので、そこで識者はいろいろな方法で人間を善に導き社会をよくしようと腐心している、今たくさんな学校があって人の人たる道を教えていても続々と不良な人間が出てきてひどく手を焼いている始末である。(1956年 94歳)

 ちょっと異質とも思える牧野富太郎の文章を三回にわたって写させていただいたが、著者である牧野氏の世界観が短い文章の中にもあらわされていて興味深かった。「植物と人生」とでも標題をつけるべき内容であるが、同時に牧野氏は「植物を神様だと尊崇し礼拝しそれに感謝の真心を捧ぐべきである」とまで言っていた。牧野氏がその植物のすばらしき造化の妙に日々感嘆しておられながら、生けるまことの神様をどのように尊崇しておられたのか知りたいと思った。
 2600年前のイスラエルの預言者エレミヤは偶像と生けるまことの神を峻別して「これらはみな、名匠の作。しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王」〈エレミヤ10:9〜10〉と言っている。
 牧野氏は植物をとおして世相を見ながら、人間社会の優勝劣敗の姿、それと同時にますます悪に加担して行く人間社会に心を痛めておられたに違いない〈学校がたくさんあって云々の言はそれから60年後に生きる私たちは何と言うべきなのだろうか〉。その証拠に道徳・法律がつくりあげられていくことを理想とされたようだ。その延長線上に神なる存在も当然想定されていたと思う。下から描く人間中心主義のヒューマニズムのうちにおられたのではないか。
 聖書は植物が人間より先に存在していたことを明らかにしている。しかも、それは上からする、絶対的な「啓示の神」のみわざである。牧野氏が94歳でこのような若々しい文章を書かれることに敬意を表したいが、私としては、「神と植物と人生」とでも題する名文を牧野氏に書いて欲しかった。

※去年の6月18日に「われもまた百合のごとくあれかし」と題してブログ記事を書いている。今日は6月21日、ほぼ2、3日前に花の開花に気づいたのだから、きっかり一年だ。) 

2016年6月20日月曜日

豊けき尊さ

招く友 鉄砲百合の 奥にあり※

なぜなら、神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されたからである。(ヨハネ3:16)

 どちらがより素晴らしいのでしょうか。そのような贈り物を遺贈した愛か、それともそのような愛によって遺贈された贈り物か。おー、その栄誉ある価値を認識することができますように。

 主の恵みによって、私たちの救い主として御子という神様の贈り物の何ほどかを知っている私たちが、日ごとに、主が油注がれたお方の贈り物の最高の尊さを、私たちの王として、ますます知ることができますように。

主とともに
おーそれはイエスとともにだ
いかなることばが
そのような祝福となろうか
イエスとともにある
永遠の喜び
永遠の安息

イエスとともに
あらゆる空しい心は
主の完全な愛で満たされた

イエスとともにある
地上にあっては完全な平安
天上にあっては完全な喜び 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-20-magnificently-precious/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97336です。

※日曜日お訪ねした友の庭。さて、昨日載せられなかった牧野富太郎の文章の続き・・・
            植物に感謝せよ(中)
 われら人間はまずわが生命を全うするのが社会に生存する第一義で、すなわち生命あってこそ人間に生まれ来し意義を全うし得るのである。生命なければまったく意義がなく、つまり石ころとなんのえらぶところがない。
 その生命をつないで、天命を終わるまで続かすにはまず第一に食物が必要だが、古来から人間がそれを必然的に要求するために植物から種々様々な食物が用意されている。チョット街を歩いても分かりまた山野を歩いても分かるように、街には米屋、雑穀屋、八百屋、果物屋、漬物屋、乾物屋などがすぐ見付かる、山野に出れば田と畠とが続き続いていろいろな食用植物がじつに見渡すかぎり作られて地面を埋めている。その耕作地外ではなお食用となる野草があり、菌類があり木の実もあれば草の実もある。眼を転ずれば海には海草があり淡水には水草があってみなわが生命をつなぐ食物を供給している。
 食物のほかにはさらに紡績、製紙、製油、製薬等の諸原料、また建築材料、器具材料などがあって吾人の衣食住に向かって限りない好資料を提供しているのである。そこで吾人はこれら無限の原料をよく有益に消化応用することによっていわゆる利用厚生の実を挙げ幸福を増進することを得るのである。
 人間のかく幸福ならんとすることは人間の要求で、またその永く生きて天命を終わることは天賦である。この天賦とこの要求とがよく一致並行してこそそこに始めて人間のこの世に生まれ出て来た真の意義がある、人間はなぜに長く生きていなければならぬ? また人間はなぜに幸福を求むることを切望する? の最大目的は動物でも植物でもおよそ生きとし生けるものはみなあえて変わることはない。畢竟人間はわが人間種類すなわちHomo sapiensの系統をこの地球の滅するきわみ、どこまでも絶やさないようにこれを後世に伝えることと、また長く生きていなければ人間と生まれ来た責任を果たすことができないから、それである瞬間生きている必要があるのである。) 

2016年6月19日日曜日

主の手にさわられて

かつて歯科医院、今「主の宮」※

イエスが手にさわられると、熱がひきました。(マタイ8:15)

 主ご自身の御手の接触には何かがあったにちがいありません。人は主イエスの接触は大変力に満ちあふれていても、やさしいものだったと想像しています。主は力とやさしさを兼ね備えていらっしゃるのではないでしょうか。主がペテロの姑さんにさわられた時、彼女は立ちあがってもてなしたのです。あなたはイエスがまさしくおさわりになったその手によって彼女はお仕えできたにちがいないと思いませんか。私たちが、主に自らの唇に生ける火ばさみで触れていただき、主のために役立つ話しができるように求める時、私たちは主に手に触れていただき、効果的に仕え、主のためになそうと思うすべてにまさるようにと求めないでしょうか。そうすれば、私たちの手はヤコブの神の全能の手によって強くせられるでしょう。

 私たちの手がまことに主の手であるかのように感ずることは楽しいことです。私たちは主に手を導いていただき、強くされ、教えていただくことを求めたいものです。私は決して比喩として言っているのでなく全く文字どおりそう思っています。彼らが主のためになすあらゆることにおいて(そしてそのことは私たちがかつて取り組んだすべてのことであらねばなりません)私たちはそれをよくしたいですし、もっともっとよくしたいのです。「熱心に求めなさい」(1コリント14:12)私たちは主が私たちに定められた生まれながらの賜物を私たちに与えられたが、実際にはそれらを改善するものは何も持っていず、自分でそのために残しているとあまりにも思いがちなのです。

 なぜ主に私たちのこれらの手を主の御用のためにもっと使いやすいようにしたり、「次の何か」として示されているものをもっと熟練したものにしていただくよう求めないのですか。「支えられた」手は不器用な手である必要はありません。もし主がダビデの手を戦争に、指を戦うように教えられたのなら、主は私たちの手指にも主がなしたいと思われることを教えられないでしょうか。

 神の御霊はベツァルエルの頭はむろんのこと手を教えられたにちがいありません。なぜなら主は彼が抜け目ない仕事を工夫するだけでなく、石を切ったり、材木を切ったりすることができるように満たされたからです。そして、かしこい心の持主であった全婦人が手で紡ぐ時、その手は美しい衣装やカーテンを用意するために賢くされた心はもちろんのこと技倆あるものとされたにちがいないのです。 

主よ あなたのために偉大な仕事をするためには
私の手はあまりにも弱過ぎます
あなたはふさわしいものをお与えになります
それはいくつかの小さな削りくずです
注意深く微細に切ったり、染めたり、掘ったり、磨き上げたりする

他の人たちは切り出された白い大きな大理石の前に立ち
あなたが描かれた大きなデザインの生涯の作品を仕上げる 
あるいは広い宮、栄光あふれるように計画されたものを
建てあげるために多くの技術が結び合わされる

それでも私が労した小さな石を一つまた一つと取ってください 
まるでそれらはあなたによって与えられたようです
あなたの賢明な考えの次にやって来たことも知らないで

あなたの恵みという主の手によってそれぞれの石を置き
あなたが私のために意図されるようにモザイクをつくり
そしてあなたの宮の舗道に場所を与えます

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-19-the-touch-of-his-hand/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97335です。
 今日の文章も極めてむつかしく特に詩文は歯が立ちませんでした。辛うじてハヴァガルの言わんとする意味はつかんだつもりです。この話しを今日礼拝後、帰路途中下車し訪れた友人にペテロの姑さんになさったイエス様のみわざを伝えることが出来た。
 彼は末期の癌の病をかかえ、今腰痛に悩まされている。イエス様のなさるみわざは姑の熱を下げられただけでなく、すぐに姑がイエス様をもてなすために立ち上がったことにある。主はその力を与えられるお方だと話した。彼は何となく受けとめてくれた。彼のためにこれからも祈り続けたいと思わされ帰って来た。

※この「宮」にはそれぞれ手作りの造作をたくさん見ることができる。それもそのはず、歯科医であるご主人は主の宮のためにその手の力を主に用いていただいている。まさしく文中のベツァルエルのようでないか。出エジプト38:22「ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルは、主がモーセに命じられたことを、ことごとく行なった。」とある。それもまさしくイエス様の手に触られての結果であることに間違いがない。) 

2016年6月18日土曜日

私たちのものでない美しさに装わされて


私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。(詩篇90:17)

 「それは、なんと麗しいことよ。」(ゼカリヤ9:17)とゼカリヤは言いました。私たちの上に主のご慈愛はどのようにあらわれるのでしょうか。

 二つの方法によります。それらを理解するようにつとめなさい。それからどちらの方法においても主であり私たちの神である方のご慈愛が私たちの上にあるように求めなさい。

 一つの方法は主がイエス・キリストの義の衣であなたをおおってくださることによります。つまり、あなたが全く罪深く不潔であるあなた自身のうちにいる者としてでなく、まるで救い主の麗しく聖められたいのちが自分のものであるかのように自分を見て、主のために生きるあなたとみなされるということです。

 この方法で主は私たちを「わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物をとおして完全」(エゼキエル16:14)だと呼ばれます。

 もう一つの方法は実際にあなたに聖なる美しさを与えることによってです。なぜならそれが主ご自身の美であるからです。私たちは主をありのままに見るまで、主に決して全く似ない者であっても、主は私たちを今でも主に似る者に作り始めることがおできになるからです。

あなたのうちにある我慢強さは 
主ご自身を反映するために
作り上げられないでしょうか
主のやさしさがあらゆる考え
顔つきそして語調を
柔らかくするでしょう
するとあらゆるまわりのものが
主をほめあげるでしょう
主のへりくだりを見るように

このようにして今この場でさえ
どれほど祝福があることでしょう
それがあなたの確かな報いです

 (今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-18-dressed-in-beauty-not-our-own/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97334です。
 百花繚乱の季節である 。以下は牧野富太郎の1956年94歳の時の文章と言う。様々な花の写真をブログ冒頭に飾らせていただいている。この機会にハヴァガルの文章と照らし合わせて植物学者牧野の文章をとおしても様々なことを考えたい。
          植物に感謝せよ(上)
 植物と人生。これはなかなかの大問題で、単なる一篇の短文ではその意を尽くすべくもない。堂々数百ページの書物が作り上げられるべきほどその事項が多岐多量でかつ重要なのである。
 ところがここには右のような竜頭的な大きなものは今にわかに書くこともできないので、ほんの蛇尾的な少しのことを書いてみる。
 世界に人間ばかりあって植物が一つもなかったならば「植物と人生」というような問題は起こりっこがない、ところがそこに植物があるのでここに始めてこの問題が擡起〈たいき〉する。
 人間は生きているから食物をとらねばならぬ、人間は裸だから衣物を着けねばならぬ。人間は風雨を防ぎ寒暑をしのがねばならぬから家を建てねばならぬのでそこで始めて人間と植物との間に交渉があらねばならぬ必要が生じてくる。
 右のように植物と人生とはじつに離すことのできぬ密接な関係に置かれてある。人間は四囲の植物を征服していると言うだろうがまたこれと反対に植物は人間を征服しているといえる。そこで面白いことは植物は人間が居なくても少しも構わずに生活するが人間は植物がなくては生活のできぬことである。そうすると植物と人間とを比べると人間の方が植物より弱虫といえよう。つまり人間は植物に向こうてオジギをせねばならぬ立場にある。衣食住は人間の必要欠くべからざるものだが、その人間の要求を満足させてくれるものは植物である。人間は植物を神様※だと尊崇し礼拝しそれに感謝の真心を捧ぐべきである。〈※キリスト者としては富太郎博士をしてこのように思わしめている人間に本来備わっている偶像崇拝の根深さを知り、ぎくっとさせられるが、一方全文脈をとおしてこの博士の純真な心を受け取りたい。この項、明日に続く〉)

2016年6月17日金曜日

まことに驚くべき愛


主が私たちのために死んでくださった(1テサロニケ5:10)

 私たちのために死なれたのですか。その他に誰があなたのために同じことができたでしょうか。かつて誰がまたあなたを愛したでしょうか。今はほんとうにそのことが意味することを考えるだけにしなさい。なぜなら、そのことはまことに真理であるからです。そして、そのような大きなことをされていながら、人がそのことについて考えることさえしないのは確かにもっとも恩知らずなことです。

 主があなたにすぐれた愛を示されたことは主がなすことができた最大のことでした。彼にはそうする義務はありませんでした。彼は如何なる瞬間にも十字架から降りることができたはずなのです。釘は主がその道を選ばれる意志をこえては、もはや一瞬たりともそのからだを支えることができなかったはずです。主の愛とあわれみこそ、主を固く十字架に釘つけたまことの釘でした。それはまさしく極みまで、すなわち、「完了した」(ヨハネ19:30)と言い、主が「私たちのために死ぬ」までなされたのです。

 主がなさったことは、主が父を愛されたからだけでなく、私たちを愛されたゆえんでありました。なぜなら、聖書は「 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」(1テサロニケ5:10)と続いているからです。そのように主は私たちを大変愛されたので、主は私たちが主とともに生きることを望まれたのです。

 どんな罪も主の天の家には入ることができないように、主は私たちが天に行くまでに私たちの罪は取り去られねばならないと知っておられたからです。そして主の血潮だけが罪を取り去ることができ、死だけが罪の償いとなり得たのです。ですから、主は私たちが主の最も尊い血潮で洗われるように血を流されたのです。主は 「私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるため」に死なれたのです。

その時もっとも高きにある栄光が
彼にありますように
私たちの力とほめ歌が
あらゆる心が引き上げられますように
深く長い祝福のうちに 
私たちが生きるために死なれた主をとおして
神への私たちの感謝が高く上がりますように
王の王 主の主 私たちの救い主にして私たちの友である方に 

2016年6月16日木曜日

愛という磁石


私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります。王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。(雅歌1:4)

 イエス様に向けられる愛ほど深くかつ広い愛はありません。その愛は主をとおしてのみ流れる時、より豊かに、より徹底的に流れるものであります。その時、その愛はまた主に対する力となるでしょう。愛は必ず無意識に主に向かって働いているのです。 

 その愛によって他の人々を私たちのところに引き寄せるには、必ず私たちの愛の泉により近く引き寄せることであって、決してそれから引き離すことではありません。唯一どんな心の持主も主のところに引き出すことができるのは主の愛という偉大な磁石であります。しかし、私たちの愛が全くその力ある影響にさらされる時、他の人たちは大変引きつけられるのです。主はこんなふうにへりくだって、人々を用いられるのです。

 主イエス様が受け入れ維持されるだけでなく、実際に私たちの愛を用いられると考えることは驚くべきことでないでしょうか。私たちは「御手から出たものをあなたにささげた」(1歴代29:14)のです。なぜなら「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(1ヨハネ4:19)

主を愛するために
また主を知る愛のために
選り分けなさい
過ぎ行くものに
愛情を費やさず
主にいのちと心を与えるために
召されている
隠された宝を注ぎだすために
召されている
他の何物も測る力とてない
主の愛する御手に
三重に祝福される
「 選り分けなさい」

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-16-the-magnet-of-love/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97332です。
The Autobiography of Maria Vernon Graham Havergall 第4章1846〜1848(11)
1848年6月
 愛する母は申しました。「私は今痛みのどん底にあります。もし私があらかじめどんな痛みを経験しなければならないかを話されていたら、私は痛みに耐えることができるとはとても信じることができなかったでしょう。おおー私は私が召される時、あなたがたが私のために賛美し喜んでくれることを望んでいます。その時私のために鐘は鳴り響くことでしょう。私が罪と悲しみから解放されるので私には死を悲しむ思いはありません。すべて備えられています。私は小羊の婚宴の夕食へと招かれているのですから。」
 6月20日
 姉のミリアムとその夫が母の体を支えていた時、切れ切れに母は言いました。
「おおーこの痛みは何とひどいことでしょう。でも私は主の恵みが私をだめにしないことを知っています。キリストは私の救いのためにすべてのことをしてくださいました。その他のどんなものも今私を慰めることはできません。私の救い主が私の力です。私の歌です。全くそれはすばらしいので、私には死の恐れは全く消え去っています。私は今死を憧れ望んでいます。なぜあなたはとどめておられるのですか」
 愛する父が言いました。「愛するママ、あなたが主にお会いする日はもう間もないよ。」
 母は答えました。「主の御名をほめあげます。私がもうすぐ主に、私の(罪の)ために刺し通されたお方にお会いできることを知らされるとは何という栄誉あることでしょう」その晩、母はだんだん楽になり、姉のミリアムがいくつかの賛美歌を弾くのを喜んで聞きました。「いざみなきたりて よろこばしく こえをひとつにし ほめたたえよ こひつじイエスに みさかえあれや(訳注:聖歌477番の歌詞を拝借、ただしメロディーは日本のものとイギリスのものとは異なるようだ)http://www.hymntime.com/tch/htm/c/o/m/e/comeletu.htm」など、そして小ミリアムが母の側で歌いました。「幸せな地に来なさい」
 この時を境に母の言葉はきわめて少なくなりましたが、心は聖なる平安に満たされていました。時々母は声高に言いました。「私の主よ、来てください。主イエス様、早く来てください」と。
 完全な平安のうちに、私たちの愛する母は1848年7月5日の夕方に召されました。)

2016年6月15日水曜日

逃れ道


ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟にはいった。(創世記7:7)
だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。(ヨハネ10:9)

 ノアは箱舟に入るのを延ばしませんでした。ノアと家族は同じ日に箱舟に入りました。ノアの知り合いの者たちの誰も洪水が襲った時、近づいてくることや、また次第に段々近づいていることを考えなかったのでしょうか。

 ノアだけが生き残り、ノアと一緒に箱舟にいた彼らだけが生き残ったと語られています。

 ですから、あなたも箱舟に入りに来なさい。大きな恐ろしい日が来る時、あなたは平和のうちに主に知られ、主のうちにいることでしょう。 

わき上がる暴風が空を覆い
雨が落ち 風音が高くなる
水かさが増え
死と恐れがあなたの道を取り囲む
どの逃れ場も近くにない 
急ぎなさい 旅人よ 急ぎなさい
おお 急ぎなさい
避難所を獲得するように
嵐と雨からの隠れ場
隠れ場所 休息所 ホーム
来ようとする怒りからの避難所 
急ぎなさい 旅人よ 急ぎなさいーW.B.Collyer※

洪水を起こされる主は箱舟を用意されていた
そしてドアーは今開かれている 
しかしいつか閉じられる
明日閉じられるかもしれない
もしあなたが入れないで閉め出されている
自分を見出すなら どうしますか
もし入らず救われないなら
それは誰のせいですか
あなたはいのちを得るために
主のところに来ないのですか 
あなたはなぜ死のうとするのですか

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-15-the-way-of-escape/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97331です。
※W.B.Collyerについてはhttp://www.hymnary.org/text/haste_traveller_haste_the_night_comes_onが明らかである。

The Autobiography of Maria Vernon Graham Havergall 第4章1846〜1848(10)
1848年1月 母は愛するファニーをそばに呼んで言いました。「さあー、おまえはママが死を間近にしているベッドを見ているのだけれど、おまえもいずれ死を迎えるのよ。もしその時おまえがキリストに信頼していないならどのように感ずるだろうか。私は姉たちよりおまえのことがもっと心配なのよ。お姉さんたちはその心が救い主である神様にしっかり結びついているのが望みだからなのよ。いつも覚えていてね。おまえが天にあるものを愛しているのを見るのがお母さんの最上の喜びであることを。おまえが悪いことをしたくなるように誘惑されたら、聖霊に導いてくださいと祈ってね。キリストの尊い血潮以外には何もおまえを神様の目から見て愛らしくできるものはないのよ。私の心からの願いはおまえがキリストのとこしえなる救いによって救われることよ。さあ、あの賛美歌「人生は主に仕えるための時だhttp://www.hymntime.com/tch/htm/l/i/f/lifetime.htm」と言いなさい、そしてよくそのことを考えるのよ」
 数回の非常に強い痛みのあと、愛する母は言いました。「神が私に注意を向けてくださるとは、私に苦しみさえ与えられるとは、私は何者なのだろう。おおー、主はなぜにかくまでして私を聖めようと心配りしてくださるのだろうか。またなぜ私をこんなにも愛されるのだろうか。『※かよわきものをもかえりみたもう わが主のめぐみはこのみにたれり にぎおうさとにも さびしき野にも 主のてにすがりて よろこびすすまんhttp://cyberhymnal.org/htm/c/o/comethou.htm』そう、恵み、豊かな恵みは私の歌だ。忝き救い主よ、私を聖めてください。あなたと顔と顔をあわせることのできるように備えてください。おおー、私をこの罪と苦痛の肉の重荷から速やかに解放して私をあなたにあって喜ばせてくださいますように」

※この歌詞の本文中の原語は' Oh to grace how great a debtor, Daily I'm constrained to be! 'であったが本ブログでも同じみの笹尾鉄三郎が1897年明治30年に訳出した聖歌292番『きょうまでまもられ』の歌詞がもっともふさわしいと思い、あえて笹尾の歌詞を掲載した。なおこの曲については以下の解説がくわしい。https://en.wikipedia.org/wiki/Come_Thou_Fount_of_Every_Blessingまたこの曲は以下のYouTubeが正確でありすぐれている。https://www.youtube.com/watch?v=ax_NMWLEb6U

2016年6月14日火曜日

稀なる宝があなたに用意されている

わたしは甦りです 生命です わたしを信じる者は死んでも生きるのです※

このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。(コロサイ2:3)

 そして主はこれらの宝をあなたに開かれるのです。善と寛容と忍耐の宝が私たちの罪と怒りと繰り返される強情に比例して無限の恵みとなって与えられるのです。それは今や私たちの貧しさに引き換え恵みのすばらしい宝、そしてあらゆる永遠をつらぬき栄光ある能力のすべての必要を満たして余りある栄光ある宝であります。

 主にあっては「すべてあなたがたのものです。」(1コリント3:22)信仰はこの無限の宝にとって鍵であり、私たちに信仰を与えて、主は私たちに宝に宝を与えてくださいます。主は私たちを「信仰に富む者」(ヤコブ2:5)とし、それから「信仰を増」(ルカ17:5)して「理解をもって豊かな全き確信に達」(コロサイ2:2)するように備えてくださるのです。

 この黄金の鍵を求めなさい。そしてそれから主が錠前に鍵を差し込めるように主の手にその鍵を置きなさい。

鍵は錠前に必要です
急いで間違いなく入るのに

視界から隠されている
複雑な鍵穴の突起のすべてに合い
他のどんなものも見つけたり動かせない
あらゆる秘密のバネを動かします

イエス様は魂にとってそうなのです

主の助ける力を
主は証明されます 


The Autobiography of Maria Vernon Graham Havergall 第4章1846〜1848(9)
1847年11月1日
 娘の一人が尋ねました。「お母さんはよくなりたいですか、それともそうなるように祈っていますか 」
 「いいえ、そのようには祈っていません。私はこれよりももっとひどい痛みに備えられるように祈っています。私には神様が私のために用意されていることはわかりません。でも神様が命令なさることは最善に違いない。全部まったく正しいし、あらゆる苦痛は私の善くなるためにあるのです。私は痛みにひるみません。もし痛みが神様のみこころなら、私はもっと耐えることができ、私に示されたひどいどんな試みも経験できるでしょう。忍耐は絶えず聖書に述べられているが、そのとおりに主の民には必要なことにちがいないからです。」
 その晩母は叫んだ「どんなに美しいことでしょう!」「美しいこのものはいったい何でしょう!」「シオンの丘、ワッツ博士の賛美歌『来たれ友よともにイエスの〈聖歌486番〉https://www.youtube.com/watch?v=TJ_C_tHbHh8』は私をたいへん幸せな思いにしてくれたの。それから私はずっとオークハンプトンの美しい庭のことを考えていたのよ。かわいい小さなミリアムのことを、それから黄金の通りをあの子と一緒に歩くことをどれだけ願ったか。そう、私は痛みの中でも幸せなの、救い主をまるで顔と顔を合わせるかのようにみておられるから。」

※火曜学び会は「霊的認知症にならないために」と題して申命記8:11〜14を引用聖句として、初めの愛を忘れることの危険性はじめ多くの症状が指摘され、そこから脱出する方策が明らかにされた。午後は知人のご主人の葬儀があった。「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行く方がよい。」とは有名な旧約聖書伝道者7:2のみことばだったが、司会者の方は葬儀の締めくくりにこのみことばを引用された。集った者の共通の思いだった。そこには晴れ晴れしいご遺族、残された奥様、二人のお嬢さんからなる喜びに満ちた証しに、心の底からの涙があり笑いがあったからである。妻が救われ、夫が中々救われず悩むというパターンをこのご夫婦も経験された。しかし、ご主人は85歳にして死の間際に救われて天に召されなさった。祈りは聞かれた。家族が一つになって主をほめあげる、そのまたとない感謝なひとときに、私もお相伴にあずかった思いがした。)

2016年6月13日月曜日

腐敗せる者の間にある聖なるお方

合歓の木の 花弁あざやか 吸い込まる 虫あまたあり 造化妙なり(図書館前)※

 神のことばは、私たちに主の生涯の初期のころについて次の一つのことを語っていたに過ぎません。すなわち、主は一人の聖なるこどもであったということです。聖とは何でしょうか。聖とはすべて汚れるものが何一つもなく、完全に美しく、良く、愛すべき存在だということです。これは主が子どものようであったことです。

 主は、やさしく勇敢であり、思いやりがあり無欲であり、気高く真実で、従順で愛情あふれ、親切で寛容であります。あなたがかつてどんな他のものよりも敬服でき愛することができると考えたことがすべて、主のうちには、そして外見だけでなく内面にいたるまで、すべて見出されたということです。まさしく主は聖かったのです。

 そして主の善いことと聖さはすべてあなたに当てはまるのです。なぜなら、あなたはあなた自身のものは何も持たないからです。神様は主のためにまるであなたが全く従順で誠実で無欲で善いかのようにあなたに微笑みかけ、あなたには決してふさわしくなくても、あなたのために主がふさわしいとされるイエス・キリストの報酬を与えようと願っておられます。

 十字架の上で主はあなたの罪を受けられましたが、今やあなたに主の正しさを与えられます。主はあなたの懲らしめを受けられましたが、主の報酬を与えてくださるのです。もし、あなたがその交換を受け入れるなら、あなたは全く(聖なる人として)転換されるのです。

あなたの受ける分は 解放のともなわない せっかんであった
それに対して 私の受ける分は 平和
傷つき残酷な縞は あなたのものだった
それに対して 癒しが私のもの
あなたのものは 刑罰であり 有罪宣告であった
私のものは無罪放免であり 完全な救い
あなたには悪態 ののしりの群衆
私には天使の歌
あなたには顔をしかめ 顔を隠される
私には恵みの笑み
地獄の悲しみともっとも厳しい死が あなたに
そして天国と永遠のいのちは 私に

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-13-unspoiled-among-the-spoiled/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97329です。

The Autobiography of Maria Vernon Graham Havergall 第4章1846〜1848(8)
 けれども、危険状態は過ぎ、母は時たま再び私たちに加わることができたのです。日曜日には教会の礼拝の集いに耳をとおして参加することが母の喜びでありました。聖ニコラス教会にある母の窓の一つは教会に向けて開かれていました。それは聖書朗読や讃美が聞こえるようにするためでした。そして母は教会で読まれるのと同じ聖書箇所を知り、病室で一人きりであっても、聖徒たちとの交わりを楽しめるのはどんなに大きな楽しみであることでしょうかと言いました。父もまた必ず説教の聖書箇所とアウトラインを母に話すのでした。
 一番上の姉であるミリアムがオークハンプトンから花と果物を持って訪れたことは大いなる喜びでありました。そしてそれらを父が運んで行き、多くの小屋住まいの病人たちにも分けられたのです。
 1847年の8月には母はレインボー・ヒルの転地療養に出かけることができました。新鮮な空気とマルヴェルン丘陵の眺めはたいそう喜ばれました。かつてまだ朝ぼらけの時、立って、流れ行くもやを眺めていた時、母は言いました。「もうすぐ私の影は全部消え去り、私にはとこしえなる夜明けの輝かしい朝がやってきます」またこうも言いました。「聖なる神様と罪深い人間とのへだたりを考えてごらん、大変な割れ目があるのよ!  でも、すべては贖いの愛によって満たされ、橋渡しされるの。生まれながらの心に大きな変化が起こるのです。そうでなければ、神の右の座で喜ぶことはできないのよ。」
 別の時には1ペテロの1章8節あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており」を読みながら母は言いました。「私は昨晩そのことをかすかに経験し、言うに言われぬ喜びと栄光の満たしを味わった。ほんとうに、ほんとうに幸せだった」
 聖ニコラス教会〈今では壊されているのですが〉にもどり、母は再び礼拝に連なり、父の説教壇からなされる話しを聞くこともできたのです。のちに母は言いました。「説教者には祈りが何よりも必要です。神の御霊がその語ることばにともなってくださり、神様が説教者をとおして語ってくださるためにです」

※図書館で『牧野富太郎 なぜ花は匂うか(平凡社)』を借りてきた。久しぶりに名文を読んだ気になった。「花は黙っています。それなのに花はなぜあんなに綺麗なのでしょう? なぜあんなに快く匂っているのでしょう? 思い疲れた夕など、窓辺にかおる一輪の百合の花を、じっと抱きしめてやりたいような思いにかられても、百合の花は黙っています。そしてちっとも変わらぬ清楚な姿でただじっと匂っているのです。(中略)あなた方はただなんの気なしに見過ごしていらっしゃるでしょうが、植物たちは、歩くことこそできませんがみな生きているのです。合歓の木は夜になると葉をたたんで眠ります。・・・」それだけでなく、思わぬ記事を目にした。「イチョウの精虫」と題するイチョウの木の雄木と雌木についての男女の結婚生活に比すべき生態の不思議さを巧みに描き、「花粉が朦々たる煙りのように飛んで来て、よくも狙い誤またずにちょうどその小さい孔に飛びこむとは、じつに造化自然の妙に驚嘆せざるを得ないのである。」と述べる文章だが、その中に我が母校の草創期の教師の一人である平瀬作五郎氏がイチョウの精子の発見者として言及されていた。しかもこの文章は富太郎氏の1953年91歳の文章だと知るから恐れ入る。) 

2016年6月12日日曜日

あまりにも心が萎えて語ることままならず

沈黙の 花びら開く ミルトスよ 6月10日

主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。(詩篇37:7) 

 ひとりの病人がある晩一人でしばらくの間、放置されていました。激しい痛みを多くの日々経験した後、小康状態になりました。「さあ」とその女性は思いました。「これから少し祈ることができる」と。けれども彼女は余りにも弱り過ぎており、この病気のために疲れ果てていました。実際に体験しなくては認識できない心と体の絶対的な弱さを感じていたのです。まさしく唇そのもののささやく力が衰えていたのです。あまりにも考える努力が要りすぎて、語られないことばを口にのぼせないように思われるのです。

 一言のささやきを出すのが精一杯でした。「主イエス様、私は疲れました」。 彼女はもはや祈りませんでした。彼女は嘆願さえも口に言い表わすことができず、主に話しかけることができなかった時、主の方から話しかけられたのでした。

 けれども、主イエス様はあらゆる安息をご存知でありました。主は彼女がどれだけ待って、主とのすばらしい心からの交わりを、すなわち、心の中にある全部のことを主に文字どおり話しかけ話すのを求めていたかをご存知でありました。それだけでなく、さらに主は、彼女が静かで比較的痛みのない時間がやってきたのに、たいへん疲れていて、考えることもできなくなっているということをご存知でした。

 弱っている者に折にかなったことばをどのように話しかけるべきかを知っておられる主は、その小さなささやきに答えるメッセージをまことにやさしく選ばれました。「主の前に静まりなさい」その声は母が元気づけるために子になす「静けさ」のようにやって来たのです。御霊が与えられたことばはことごとく全く十分でありました。そして、静かに黙って従う心は完全な平和で満たされたのです。

 ほんとうの友だちだけが沈黙を理解するのです。

私はあまりにも頑張るには弱過ぎます
休ませてください 
甘美な従順の静けさのうちに
あなたの御胸のもとに

主イエス様 私はこの痛みを 
あなたご自身の贈り物として
受け取ります
そしておののく讃美をとおして
今真実をおささげします

私は弱り果てて歌うことができません
けれどもあなたは聞いてくださいます
枕元ののささやきを
あなたはこんなにも身近におられるのですもの  
 

The Autobiography of Maria Vernon Graham Havergall 第4章1846〜1848(7)
 伯母に向かっては「私はよくあのところの文章を考えるのよ『娘よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。』(マタイ9:22)私もまた主の衣のふちにさわるだけで良いのよ。全部ゆるされているのだから。あなたは繰り返し歌ってくれる?『キリストのきよき御名を〈聖歌287番https://www.youtube.com/watch?v=NoPlwPUYWaw〉』」その時ヘンリーが「この罪と悲しみの世にあって」と復唱した。「そうよ、その賛美歌はいつも私を元気づけてくれたわ。ヘンリー、歌ってよ。お母さんも歌うから」
 よく、私は他の人にうまく話すことができないことを嘆いたものですが、繰り返し歌う賛美歌が私の感情を表現するのにどれだけ役立ったことでしょう。
 それから、母は歌って欲しい曲を選びました。「おお、シオンよ、私があなたを思う時http://www.hymnary.org/text/o_zion_when_i_think_on_thee」「おお、神よ、私たちの助けは過ぎにし昔もあなたから来る〈賛美歌88番〉」「みたみの住む地は〈聖歌643番〉」「私の空想は描くのに懸命だが、それは空しい〈ジョン・ニュートンの作詞http://www.hymntime.com/tch/htm/i/n/v/invainof.htm〉」「人々の喜びが飛び抜けて爆発するところhttp://www.christmysong.com/1339/index.html」そしてそれが私にとってふさわしい歌なのよと言いました。

昨日、友夫妻の車に乗せていただいて、一人の方をお見舞いした。事情があって病床で賛美歌こそ歌うことはできなかったが、実質的に同じ交わりを主によって持たせていただいた。その上、その帰りにこれまた旧来の友を訪ね久方ぶりに、今度は三組の夫婦で交わりを持った。その折り、賛美歌が信仰に欠かせないものであることを改めて教えられた思いがした。上記の文章の引用でわかるように、フランシス・リドレー・ハヴァガルの家族は聖書と讃美歌で固く結ばれていたことがわかる。この病床の母とその子どもたちの交わりの次第は上記記載の5、6曲をとおして後世の、しかも異国の私たちも知ることができるのだ。探り得る限り英文歌詞を参考にその原曲にまで遡って調べたので大いに利用していただき、原曲名の訳など間違っているところがあれば教えていただきたい。

2016年6月11日土曜日

口約束でなく実際に与えられるもの

あらわせり 絶えなるいのち ミルトスを イザヤ語りて 我が庭に咲く 6月8日※a

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネ10:11)

 おお、何とすばらしい贈り物であろうか。約束でないのだ、与えられたのだ。しかも、友に対してではない、敵に対してなのだ。条件もつけず、保留もなく、お返しを求めることなく与えられたのだ。探されたものでも、求められたものでもないのに、主の贈り物、主はご自身のいのちをあなたがたのために与えられた。王の報奨金とくらべものにならない、神様が遺贈することのできた最大の贈り物である。

 おお、何と偉大な愛であろうか。「わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」(10:15)ところが、私たちは主が与えてくださったイエス様のために私たちのいのちを差し出すことをとまどったり、躊躇したりしている。それはとても主のためにでなく、主に対してだった(主は私たちがそうするようには求められなかったけれど)。けれどもそれは過去である。主は愛のない、感謝のない保留をやさしく赦してくださり、貧弱な小さい束の間の息やちりにすぎない私たちを寛大に受け入れて下さった。それは私たちが差し出さねばならないすべてであった。そして、今や主の尊い死と栄光あるいのちは、全部「あなたがたのため」なのである。

主を見よ 
栄光ある主を

主は 
あなたのいのちを勝ち取るために
死を味わわれた

その驚くべき話を見つめて
あなたはたたかうのを
ためらえるか

主が あなたを
それほど愛されたことを
知るのが
新生のいのちではないか 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-11-not-promised-but-given/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97327です。

※a ミルトスについてはhttp://www.seinan-gu.ac.jp/shokubutsu/list_search/877.htmlに詳しい説明がある。

The Autobiography of Maria Vernon Graham Havergall 第4章1846〜1848(6)
 数時間して母はどれだけその時を楽しんだか話しました。「そうなの、私は大変元気をいただいているのよ。私にとってはキリストが何よりも大切です。私は主が約束なさることすべてにおいて忠実であられるのを知っています。まことに主にあっては『しかりであり、アーメンなのです』〈2コリント1:20〉」
 それから私たちは全員で賛美歌を歌いました母は私たちに賛美歌や聖書を繰り返し読んだり讃美することによりどんなにしばしば元気を見出したかを話しました。
 兄のヘンリーは特に母に仕えました。それは隣の部屋で聖書を繰り返し読んだり賛美歌を演奏したりしてです。ヘンリーの洗礼名づけ親であるジョン・イーストについて彼女は次のようによく話しました。「私たちと親しい彼は地にあって大いなる祝福であった。まことに神の人であった。ヘンリーよ、あの方のあなたのための祈りがことごとく答えられますように」
 母の感謝の思いは絶えず立ちのぼるものでありました。「わが朝餉、主の朝ごとの恵みはどれほど新しいことだろうか、私は何事につけてもそう思うのよ※b」 
 私が母を元気づけるためになすべきことをしなかったことを恐れていると言ったら、母は答えて言いました。「マライアよ、私は、おまえが何もかも面倒を見てくれていることに十分満足しているよ。でも、私にとって気がかりなのは、私がおまえに見てもらっているようには仕えてくれる人が誰もいない、気の毒な人々のことよ。」 
※b 恐らく、エレミヤ哀歌3:22〜24「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。」が含意されているのであろう。 

2016年6月10日金曜日

The Unkept Pledge(祝福されない約束)

EXPOSITION Arrangement de HISA (Le Midi)※a

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。(黙示3・19)

 だが、あなたは、主の愛するこどもたちがいったん真実な心からする献身という祝福された道に入ったのに、そのうちの誰かがほんの少しでもわき道にそれるなら、必ず主は何らかの小さなこらしめを与えられることが主の奥義の一つであることを知っていましたか。主は、たとえどれほど隠されていたとしても、強い注意をせずに、もとに戻されることはなされないでしょう。

 あなたは、主に対していったん完全に銀と金を指し出したあとに、主にかまわずほんの少しでも過ごしてみなさい。そしてそのことに対して、何らかの形で叱責を受けないかどうか注意しなさい。あなたが犠牲をささげることがまちがっていたり、また何らかの方法でそれは神様が成功させるのではないことを気づかせるために許されたことだと知ることが多いのです。

 もしあなたがこれらのことを観察するなら、私たちが主とともにより密接に行動をともにすればするほど、私たちが主が召された全き献身から少しでもずれる時には、さらに主の憐れみ深い叱責は即座に間違うことなくなされることを知るでしょう。

 だからもしあなたがすでに私たちを個人的に取り扱われるこの面をすでに経験もし、認識しているなら、あなたは私たちがどれほど主に愛され祝福されているかもまた知ることでしょう。

確かに、試練があります
しかし、あなたの力は
試練を喜びでもって調整することができます

とげがあります
しかし、とげは私たちを狭き道に保ったのです
その道は王の聖さと平和の公道です

懲らしめがあります
しかし父の愛は懲らしめを通して流れるのです
いかなる信頼の心が
懲らしめを差し控えるでしょうか
愛を差し控えるでしょうか

だからあらゆる歩みが力から力へと
「ますます」導かれるのです
あなたにある旅人は
地上にあっても栄光から栄光へと 
次々導いてくださる主を讃え
讃美しながら通って行くのです 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-10-the-unkept-pledge/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97326です。今日の箇所も省略語があり訳出に困難を極めました。引き続き読者諸兄の適切な助言をお願いします。

The Autobiography of Maria Vernon Graham Havergall 第4章1846〜1848(5)
 母は前もって私たちの聖餐とカトリック教会で行なわれるextreme unction〈終油の儀式とを比較して言った。「extreme unctionはどんなに役に立つと言うのでしょうか。私にとっては私がキリストの中に完全にいることで十分です。輝く光の中に飾られていることばを見せていただくようです。『完了した。』(ヨハネ19・30)イエス様は私のために贖いのすべてのみわざを完了してくださったのです。」(何年も後に、こども〈であるフランシス〉は書いたのです。「『完了した。』ということばは永遠の中心です」と※b)
 ファニー〈訳注フランシスの愛称〉を呼んで、母は彼女にワンピースのドレスに着替えてくるように話しし、言った。「いとしいおまえよ、私たちが聖餐にあずかるのをよく見ているのよ。おまえが大きくなったら、そのことの意味を知り、心の内に恵みのおすそわけをいただけるのよ。おまえのお母さんが死にかけていた病室で最初に見たこのことを忘れてはいけないよ。聖餐はおまえの(罪)のために死なれたキリストの愛の象徴〈emblem〉なのよ。もちろんお母さんの(罪)のためにも死なれたのよ。」

※b 6月7日の本ブログの項目を参照のこと。偶然だけど、その日の詩でフランシス・リドレー・ハヴァガルはthe central word of eternity was uttered, "It is finished," と書いていた。まさしくこのことを姉Mariaは指してここで書いたものと思われる。

※a 火曜日、谷口幸三郎展の後訪れた、小林尚子さんの主催するLe Midiの展示の一部分。ここでは様々な珍しい「木の実」が所狭しと展示され、フランス・プロバンス地方を中心にオーナーである小林さんが採取された小道具をもとに創作された作品が展示されていた。展示は日曜日までである。Le Midiについては以下のサイトhttp://lemidi-jp.com/で場所などわかる。

2016年6月9日木曜日

一切心配のないところ

As an eagle...fluttereth over her young...※

あなたは、その翼の下に身を避ける。(詩篇91・4)

 まだ羽が生えていず飛ぶことのできない小さな鷲の子が 、両親の鷲の大きな翼の下にあるなら、彼らはどんなに安全であることでしょうか。誰が彼らに恐れなく触れることができるというのでしょうか。もしも向こう見ずな登山者が巣に手を突っ込もうものなら、その時こそ瞬時のうちに力強い打擲が彼を見舞い、岩壁に落とされ粉みじんに打ち砕かれることでしょう。

 そのようにあなたは主の翼の下で安全であり、そこではどんなものも如何なる手段によってもあなたを傷つけることはないでしょう。荒々しい雪嵐が高所の巣のまわりを襲い、その時は防御されず眠りこけているものには死であっても、巣の中にいる小さな鷲の子はどれほど暖かく守られていることでしょうか。 するどい衝撃をもって迫る矢も、か細い小さな羽を持たない鷲の子に迫ることはありません。冷たい雪片も触れることがないのです。いかに悩みの冷たい暗い日が来ようとも、またいかなる不親切や孤独という突然の小さな衝撃が来てさえ、主の翼のもとにあってはどれほど暖かなことでしょうか。

 主の翼の下であなたは信頼することができるのです。あなたは知らないのですか。もし鷲の子の中の一羽が起きていることを見たがり、しばらく注意することができると思い、翼の陰の下から躍り出たなら、安全でも暖かくもならないでしょう。鋭い風が鷲の子を冷え上がらせ、その時非情な手がむんずとつかむかも知れないのです。

 そのようにあなたは主の翼の下で信頼し、落ち着いて心安らかに休むことです。そこにとどまりなさい。ちらっと外を見て、神様が果たして自分を注意してくれるのかどうか知りたいと思わないことです。あなたはいつもそこで安全であり幸福であります。

 私は安全です。なぜなら、主なるあなたの御翼の陰に私は避けどころを求めるからです。私は幸せです。なぜなら「御翼の陰で、私は喜び歌う」(詩篇63・7)からです。

あなたのみことばの上に休みます
それはどんなに力強く確かなことでしょう
どんなに元気づける祝福で一杯でしょうか
また甘美で純粋でしょうか
変ることがなく、決して崩れないみことば
私の王様である主よ 
私はあなたのみことばの下にとこしえに憩います 
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-9-where-no-anxiety-exists/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97325です。今日のカット写真は予定を変え、しかも時期外れのクリスマスカードではあるが、ハヴァガルの霊想にふさわしい絵柄を選んだ。絵の下の引用聖句は申命記32・11〜12、詩篇5・8である。

The Autobiography of Maria Vernon Graham Havergall 第4章1846〜1848(4)
1846年11月 母の病気は重かったので、いなかった子どもたちが呼びやられ、伯母のストラットンがやって来た。兄のヘンリーが先ず到着し、母の側でひざまずいた。母は兄の柔らかな髪の毛に手をやりながら言った。「主イエス様を愛することに比べられる愛は何もないよ。イエス様はほんとうの宝、すばらしい救い主だから。私は16の時からずっと真心からイエス様を愛してきた。でもそれは私の力じゃない。私に生きる恵みの最小限の力を与えてくださったのは、神様の出し惜しみされないあわれみだった。私には何の良いところも、正しさもなかったのよ。」
 (病床にあって)順序立ててなされることを指図しながら、母はつけ加えた。「天国にはどんな秩序があるのだろうね」 食べ物を手にする時には「いのちのパンは私のもの。私はもうすぐ小羊の婚宴の席に連なることが許されているのよ。」父に向かっては「私は天国に行けるように望んでいます。私自身の中には信頼できるものは何もありません。汚れていて、価値がなく、自分自身で満足できるものは何もありません。でもキリスト様の御功績(いさおし)と義を私は唯一信頼しています。昨晩も私にはまるで天国が開かれたように見えましたよ。ステパノのように私のためにとりなしをしていてくださるイエス様を見たのです」私たちが全員でまわりを取り囲んでいた時、母は言いました。「子どもたち。あなたがたのうちにいる私ほど祝福された母親は少ないのよ。でもそれも神様の愛のあらわれだった。」)

2016年6月8日水曜日

私たちはイエス様を見る

谷口幸三郎展より(東京・西荻「数寄和」画廊にて※)
目に見えない方を見るようにして(ヘブル11・27)

 もし私たちがつねに何事も、愛するお方を見たことがないのに、まるで主を見たかのように行動するならどれほど私たちの生活はちがったものとなることでしょうか。またどれだけより幸せであることでしょうか。

 冒頭のみことばはモーセについて言われたものです。そして信仰によってこの主を見ることは三つの効果を持ちました。

(1)「彼はエジプトを立ち去りました。」彼は神と神の民のためにはどんなことも諦める用意ができたのです。そのことが、彼をして神様がお勧めなさることに対して真実にして忠実な態度を取らしめたのです。彼は「目に見えない方」を見ている限り、他の事柄に対してどんな心配をしたと言うのでしょうか。

(2)そのことは彼の恐れをすべて取り去りました。主が彼の側におられる時、彼にとって「王の怒り」はどういうものであったでしょうか。何について恐れる必要があるでしょうか。

(3)そのことにより彼は「忍び通す」ことができ、砂漠の中に40年間耐えに耐えて待ち望み、荒野で40年間働くことができたのです。80年間あらゆることに耐え忍ぶことができたのも、その信仰により見ることがどれほどの力を与えることであるか、そのことしか頭になかったに違いないのです。

 今日、あなたもモーセにとってそのように大きな助けとなった(信仰によってイエス様を見る)ことを自分自身に試して見なさい。
 
「栄光から栄光へ」(2コリント3・18)
たとえ苦難に陥っても
苦難は私たちの宝に触れることはできません
キリストがすべてのすべてであります
私たちの目の前にどんなことが横たわっていようとも
恐れる必要はありません
イエス・キリストが近くにおられる時
痛みや悲しみは何ほどのものでしょうか

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-8-we-see-jesus/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97324です。

The Autobiography of Maria Vernon Graham Havergall 第4章1846〜1848(3)
 もっとも小さい子どもであるフランシスの母に対する強い愛や深い悲しみは、フランシスの「四日間の幸せな日々」〈隠された影響をあらわしている〉のうちに力強く語られています。それはのちになって子どもの生活とことばとなって大変豊かな実を結んだのです。そしてまさしく同じ聖書の約束は母と子にとって同様に宝だったのです。その上、まさしく同じ賛美歌が母とフランシスの臨終に選ばれ、小さい時からの祈りが文字どおり答えられたのです。
 私を連れて行ってください
 私をあなたの光ある家に
 そこで私は愛する母と一緒に住まうのです
 そして永遠にあなたのいます輝きを喜ぶのです
 あなたの愛をほめあげさせてください
 あなたはすべてのことを良きにはからってくださるお方です
             フランシス・リドレー・ハヴァガル 詩 

※昨日は、火曜学び会だった。学び会ではイエス様はまことの教会を建てられる。それは決して宗教としてのキリスト教会のかたちではなく、それどころか、逆にイエス様抜きの教会は裁きの対象であり、新生の霊をいただいた者の集まる小さな群れ(Little Flock)をとおしてあらわされるのだと語られた。引用聖句はマルコ4・30〜34であった。
 そのあと二つの個展を訪ねた。いずれも同じ道路線上にある会場であった。今日の写真はその中の最初の展示であるが、明日はもう一つの展示の写真を載せたい。
 最初うかがった個展の作者の作品はここ20数年間鑑賞させていただいているが、いつ見ても心がリラックスさせられることは感謝である。ともにキリストにあっていのちをいただいた者同士、まさしく「小さな群れ」の一員である。オーナーとは初めてお会いしたが私たちと同県人であることに限りない親しみを覚えた。)