2016年6月21日火曜日

主は私たちと食事をされる

百合の花 一年経ちて 咲き揃い 摂理の不思議 人に伝えん※
この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。(ルカ15:2)

 私たちが主イエス様と食卓を共にした時、「食卓の下のパン屑さえ集める資格がない 」(参照:マルコ7:26他)と感じていたとしたら、これらのことばはどんなに貴重なことでしょうか。私たちが罪と罪過のうちに死んでいたことを心に刻んでいるなら、ラザロがよみがえらされて「イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた」(ヨハネ12:2)ことを思い起こすことでしょう。

 私たちが、疲れはするが勝利を目ざして戦場から戻って来た時、私たちの平和の王がパンとぶどう酒をもち、ご自身の祭司としての祝福をもって会いに来てくださるのを待つことができます。その結果、私たちはご自身によって強くされ、かつ新たにされるのです。

語られていない必要を誰が
深く感じて知るのだろうか
それはほとんど知られないのに  

神お一人以外に誰が餓えている魂を
満たし、支え、導くことができるだろうか 

何たる祝福のともなう約束であろうか

この世の友だちに力がなく
この世の泉はすぐに渇くのにくらべて
「神」はあなたの必要をことごとく満たされる

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-21-he-dines-with-us/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97337です。

             植物に感謝せよ(下)

 世界に生まれ出たものただわれ一人のみならば別になんの問題も起こらぬが、それが二人以上になるといわゆる優勝劣敗の天則に支配されてお互いに譲歩せねばならぬ問題が必然的に生じて来る、この譲歩を人間社会に最も必要なものとしてその精神に基づいてたてた鉄則が道徳と法律とであって、ほしいままに跋扈する優勝劣敗の自然力を調節し、強者を抑え弱者を助け、そこで過不及なく全人間の幸福を保証したものだ、これが今日人間社会の状態なのである。
 ところがそこにたくさんな人間が居るのであるから、その中には他人はどうでもよい、自分独りよければそれで満足だと人の迷惑も思わず我利な行ないをなし、人間社会の一人としてはじつに間違った考えをそのとおり実行するものがあって、社会の安寧秩序がいつも脅かされるので、そこで識者はいろいろな方法で人間を善に導き社会をよくしようと腐心している、今たくさんな学校があって人の人たる道を教えていても続々と不良な人間が出てきてひどく手を焼いている始末である。(1956年 94歳)

 ちょっと異質とも思える牧野富太郎の文章を三回にわたって写させていただいたが、著者である牧野氏の世界観が短い文章の中にもあらわされていて興味深かった。「植物と人生」とでも標題をつけるべき内容であるが、同時に牧野氏は「植物を神様だと尊崇し礼拝しそれに感謝の真心を捧ぐべきである」とまで言っていた。牧野氏がその植物のすばらしき造化の妙に日々感嘆しておられながら、生けるまことの神様をどのように尊崇しておられたのか知りたいと思った。
 2600年前のイスラエルの預言者エレミヤは偶像と生けるまことの神を峻別して「これらはみな、名匠の作。しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王」〈エレミヤ10:9〜10〉と言っている。
 牧野氏は植物をとおして世相を見ながら、人間社会の優勝劣敗の姿、それと同時にますます悪に加担して行く人間社会に心を痛めておられたに違いない〈学校がたくさんあって云々の言はそれから60年後に生きる私たちは何と言うべきなのだろうか〉。その証拠に道徳・法律がつくりあげられていくことを理想とされたようだ。その延長線上に神なる存在も当然想定されていたと思う。下から描く人間中心主義のヒューマニズムのうちにおられたのではないか。
 聖書は植物が人間より先に存在していたことを明らかにしている。しかも、それは上からする、絶対的な「啓示の神」のみわざである。牧野氏が94歳でこのような若々しい文章を書かれることに敬意を表したいが、私としては、「神と植物と人生」とでも題する名文を牧野氏に書いて欲しかった。

※去年の6月18日に「われもまた百合のごとくあれかし」と題してブログ記事を書いている。今日は6月21日、ほぼ2、3日前に花の開花に気づいたのだから、きっかり一年だ。) 

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