2016年6月11日土曜日

口約束でなく実際に与えられるもの

あらわせり 絶えなるいのち ミルトスを イザヤ語りて 我が庭に咲く 6月8日※a

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネ10:11)

 おお、何とすばらしい贈り物であろうか。約束でないのだ、与えられたのだ。しかも、友に対してではない、敵に対してなのだ。条件もつけず、保留もなく、お返しを求めることなく与えられたのだ。探されたものでも、求められたものでもないのに、主の贈り物、主はご自身のいのちをあなたがたのために与えられた。王の報奨金とくらべものにならない、神様が遺贈することのできた最大の贈り物である。

 おお、何と偉大な愛であろうか。「わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」(10:15)ところが、私たちは主が与えてくださったイエス様のために私たちのいのちを差し出すことをとまどったり、躊躇したりしている。それはとても主のためにでなく、主に対してだった(主は私たちがそうするようには求められなかったけれど)。けれどもそれは過去である。主は愛のない、感謝のない保留をやさしく赦してくださり、貧弱な小さい束の間の息やちりにすぎない私たちを寛大に受け入れて下さった。それは私たちが差し出さねばならないすべてであった。そして、今や主の尊い死と栄光あるいのちは、全部「あなたがたのため」なのである。

主を見よ 
栄光ある主を

主は 
あなたのいのちを勝ち取るために
死を味わわれた

その驚くべき話を見つめて
あなたはたたかうのを
ためらえるか

主が あなたを
それほど愛されたことを
知るのが
新生のいのちではないか 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-11-not-promised-but-given/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97327です。

※a ミルトスについてはhttp://www.seinan-gu.ac.jp/shokubutsu/list_search/877.htmlに詳しい説明がある。

The Autobiography of Maria Vernon Graham Havergall 第4章1846〜1848(6)
 数時間して母はどれだけその時を楽しんだか話しました。「そうなの、私は大変元気をいただいているのよ。私にとってはキリストが何よりも大切です。私は主が約束なさることすべてにおいて忠実であられるのを知っています。まことに主にあっては『しかりであり、アーメンなのです』〈2コリント1:20〉」
 それから私たちは全員で賛美歌を歌いました母は私たちに賛美歌や聖書を繰り返し読んだり讃美することによりどんなにしばしば元気を見出したかを話しました。
 兄のヘンリーは特に母に仕えました。それは隣の部屋で聖書を繰り返し読んだり賛美歌を演奏したりしてです。ヘンリーの洗礼名づけ親であるジョン・イーストについて彼女は次のようによく話しました。「私たちと親しい彼は地にあって大いなる祝福であった。まことに神の人であった。ヘンリーよ、あの方のあなたのための祈りがことごとく答えられますように」
 母の感謝の思いは絶えず立ちのぼるものでありました。「わが朝餉、主の朝ごとの恵みはどれほど新しいことだろうか、私は何事につけてもそう思うのよ※b」 
 私が母を元気づけるためになすべきことをしなかったことを恐れていると言ったら、母は答えて言いました。「マライアよ、私は、おまえが何もかも面倒を見てくれていることに十分満足しているよ。でも、私にとって気がかりなのは、私がおまえに見てもらっているようには仕えてくれる人が誰もいない、気の毒な人々のことよ。」 
※b 恐らく、エレミヤ哀歌3:22〜24「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。」が含意されているのであろう。 

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