2016年6月7日火曜日

ささげ方が価値を決定する

イスラエル人は、男も女もみな、主がモーセを通して、こうせよと命じられたすべての仕事のために、心から進んでささげたのであって、彼らはそれを進んでささげるささげ物として主に持って来た。(出エジプト35・29)
 
彼は、彼の父が聖別した物と、彼が聖別した物、すなわち、銀、金、器類を、神の宮に運び入れた。アサの治世の第三十五年まで、戦いは起こらなかった。(2歴代誌15・18〜19)
 
 献身に束縛はない。献身と束縛は相反することであり、共存し得ない。ましてや混合することもあり得ない。献身について私たちが束縛感を何らか感ずるなら、私たちの献身が正しいかどうかを疑い、偉大な相談相手である主のところに、改めて直接、赴(おもむ)かねばならぬ。

 私たちが計算書(account book)についていらいらして無視されている感覚を持ち、私たちが何をまたどれだけ与えねばならないかを思案し、ささげものをそれほど熱心に差し出さなかったのが人に知られたくない願いであるのは、「私の金銀を受け取って下さい」と私たちが無条件に言わなかったことによるのだ。とすれば、主に対して真心からささげられなかったものを、主はどのようにして守ることができると言うのだろうか。

ああ 
もし私たちが十字架のもとに立ち
私たちの贖いの巨大な支払いのために
キリストの尊い血が流されたのを
見つめていたら

もし私たちが語られた恐ろしい値積もりや
キリストの我慢強い額や
砕かれた両手両足から
流れ出るひとしずくひとしずくを見、
その上すべてが支払われ
永遠についての中心の言葉
完了した。」(ヨハネ19・30)
が発せられるまでを見たならば

私たちは「私は少しも保留したくはない!」と
軽々しく言えなかったはずだ

冷淡で、不誠実な者たち!
私たちは警告に心をとめよう
全体だけが完全に真理でありうるのだ

すべてのささげものを持って出よ
さげすんでいるあらゆる内気な考えを
心からの場合に限り忠実さをも


冷淡な者たちよ! 
救い主は差し控えられねばならなかったのではないか
すべてを与えることをためらうあなたに分け前を与えるなんて 
(Halfhearted! Savior, shall aught be withholden,
Giving Thee part who halt given us all?)


あふれでる祝福
黄金の約束が果たされる
決して保留も撤回もないのだ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-7-giving-determines-value/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97323です。

 このところ難解な文章が続く。今日のところもその最たるものだ。ただ訳者としては一ヵ所ここに書かれている意味を補完するかのようなことに遭遇したので忘れないように記録しておく。
 今週の日曜日、一組のご夫妻と一緒にALSで病臥中の方を久方ぶりに訪ねた。初めて会われたご夫妻にその方は自らがすべての囚われ、束縛から解放された。私はLibertyを経験したのです、主イエス様に出会って、主イエス様を信じて全き自由を得た、と証しされた。体の行動の自由を全く奪われた人のことばだけにその「束縛から解放された」ということばは印象的であった。ハヴァガルは文頭でThere is no bondage in consecration.と言っている。まさしくタイムリーな言辞でないかと思った。

The Autobiography of Maria Vernon Graham Havergall 第4章1846〜1848(2)
 私は母が全く少女であった時に母について書かれた一人の高名なキリスト者からいただいた長い手紙を持っている。その手紙は母自身が困難さについての陳述の答えとなっている。まことに母のたましいにあっては恵みのわざやまた回心の時への言及がどれほど深く本当であったかが、明らかにされていた。
 母は私に次のように話した。「私が12歳の頃、立派なご夫人であるKさんが私に大層面倒を見てくださった。ロンドンの数人の友だちを訪ねに行った時、その方の助言は私にダンスパーティーに行くのは断るようにという固いものだった。私も一番上の姉の家を訪ねた時、部屋にスコットの聖書註釈を部屋に持ち込んで喜んで読んでいたことを思い出す。まことに子どもの時から母は私に聖書を大切にするように教えてくれた。それで私はいつも聖書を読むために静かな時間を確保していたのを思い出すことができる」
 この母の聖書に対する愛は生涯を通じての輝かしい道しるべであった。また母の賛美歌に対する知識と愛は大きく、声は魅惑的ではっきりしていた。教区副牧師の妻、牧師の妻として母は家庭を隅々に至るまで立派に導いた。いなかの農民たちは母を愛し、アストレー教区を1841年に離れるときは教区民により純銀のケーキ箱が贈られた。父がウオーセスターのセントニコラスの教区牧師になってすぐに健康が衰えた。しかし母の日曜学校の話しの中の一つは「一人のかしこいきよらかなこども」の小さな回顧録の形で読まれるような特別な実を生み出した。) 

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