2016年6月17日金曜日

まことに驚くべき愛


主が私たちのために死んでくださった(1テサロニケ5:10)

 私たちのために死なれたのですか。その他に誰があなたのために同じことができたでしょうか。かつて誰がまたあなたを愛したでしょうか。今はほんとうにそのことが意味することを考えるだけにしなさい。なぜなら、そのことはまことに真理であるからです。そして、そのような大きなことをされていながら、人がそのことについて考えることさえしないのは確かにもっとも恩知らずなことです。

 主があなたにすぐれた愛を示されたことは主がなすことができた最大のことでした。彼にはそうする義務はありませんでした。彼は如何なる瞬間にも十字架から降りることができたはずなのです。釘は主がその道を選ばれる意志をこえては、もはや一瞬たりともそのからだを支えることができなかったはずです。主の愛とあわれみこそ、主を固く十字架に釘つけたまことの釘でした。それはまさしく極みまで、すなわち、「完了した」(ヨハネ19:30)と言い、主が「私たちのために死ぬ」までなされたのです。

 主がなさったことは、主が父を愛されたからだけでなく、私たちを愛されたゆえんでありました。なぜなら、聖書は「 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」(1テサロニケ5:10)と続いているからです。そのように主は私たちを大変愛されたので、主は私たちが主とともに生きることを望まれたのです。

 どんな罪も主の天の家には入ることができないように、主は私たちが天に行くまでに私たちの罪は取り去られねばならないと知っておられたからです。そして主の血潮だけが罪を取り去ることができ、死だけが罪の償いとなり得たのです。ですから、主は私たちが主の最も尊い血潮で洗われるように血を流されたのです。主は 「私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるため」に死なれたのです。

その時もっとも高きにある栄光が
彼にありますように
私たちの力とほめ歌が
あらゆる心が引き上げられますように
深く長い祝福のうちに 
私たちが生きるために死なれた主をとおして
神への私たちの感謝が高く上がりますように
王の王 主の主 私たちの救い主にして私たちの友である方に 

0 件のコメント:

コメントを投稿