2010年10月31日日曜日

代理権威に服従する ウオッチマン・ニー

(Edinburgh Castle)
神がご自身のためにもろもろの権威を立てることは何と危険な冒険でしょう!  神の立てた権威が、神を間違って代行したとしたら、どれほど神は悩まなければならないことでしょう!  しかし、神はご自身の打ち立てる権威を確信されます。神が代理権威を立てる際の確信よりは、わたしたちが代理権威に服従する際の確信のほうがはるかに容易です。神が人に権威を与える際に確信しておられる以上に、わたしたちもやはり人に服従する際に確信すべきではないでしょうか?  

神が打ち立てられる際に確信しておられる権威に、わたしたちは服従する際に確信すべきです。もし間違いがあるとしたら、それはわたしの間違いではありません。それはその権威の間違いです。主は、すべての人はその上のもろもろの権威に従うべきであると言われます。困難は神の側よりもわたしたちの側にさらに多いのです。神が人にゆだねておられるなら、わたしたちもゆだねることができます。神がその委託について確信しておられるなら、わたしたちはさらに確信すべきです。

イエスは、・・・、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、彼ら(=弟子たち)に言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。・・・」(新約聖書ルカ9:47~48)

主が御父を代行することに何の問題もありません。なぜなら、父は主にあらゆるものを託されたからです。わたしたちが主を信じることは、御父を信じることです。しかし主の目には、これらの子どもたちでさえ主を代行しています。主はこれらの子どもたちにご自身を託すことができます。こういうわけで主は、これらの子どもたちを受け入れることは主を受け入れることであると言われたのです。

ルカによる福音書第10章16節で主は弟子たちを遣わし、彼らに言われました。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。」弟子たちの言葉、命令、決定、意見は、すべて主を代行しました。主はすべての権威を弟子たちに託したことに、とても確信がありました。彼らが主の名の中で語ったことは何であれ、主は承認されました。弟子たちを退けることは、主を退けることでした。主は全き平安をもって彼らにご自身を託すことができました。主は、彼らがその言葉に注意すべきであるとか、出て行って語る際には失敗をすべきではない、などとは言われませんでした。主は彼らが失敗をして何かが起こるとしても少しも気にかけませんでした。主には、弟子たちに確信をもって権威を渡す信仰と勇気がありました。

しかし、ユダヤ人たちはそのようでありませんでした。彼らは疑い、言いました、「どうしてこんなことがあり得ようか。あなたが言ったことがみな正しいとどうして知ろうか、わたしたちはもっと考える必要がある!」。彼らはあえて信じようとはしませんでした。彼らは非常に恐れました。

仮に、あなたがある会社で一管理職として働いているとします。そしてあなたは一人の人を派遣して次のように言うとします、「あなたの最善を尽くしてしっかりやりなさい。あなたが行なうことは何であれ、わたしは承認します。人々があなたの言うことを聞くとき、それはわたしの言うことを聞くのです」。もしこうであるなら、あなたはおそらく彼に、毎日その仕事の報告をすることを要求するでしょう。それは、何かの間違いがあるといけないからです。

しかし、主はその代理者であるわたしたちに任せることができます。これは何と大きな信任でしょう!主がご自身の代理権威にそれほど信頼されるとしたら、わたしたちはさらに一層そのような権威に信頼すべきです。

ある人は、「もしその権威が間違いをしたらどうしますか?」と言うかも知れません。もし神が代理権威とした人たちに信頼されるとしたら、わたしたちはあえて服従します。その権威が間違いかどうかは、その人が主の御前で直接責任をとらなければならない問題です。権威に服従する者たちは、絶対に服従することだけが必要です。たとえ彼らが服従したことで間違いを犯したとしても、主はそれを罪と見なされません。主はその罪の責任を代理権威に問われます。

不従順は、背くことです。このゆえに、服従する者は神の御前で責任を持たなければなりません。この理由により、人間的要素は、服従とは何の関係もありません。もしわたしたちが人に服従しているだけなら、権威の意味は失われます。なおまた、神はすでに彼の代理権威を立てた以上、神はこの権威を維持しなければなりません。他の人たちが正しいか正しくないかは、彼らのことです。わたしが正しいか正しくないかは、わたしのことです。すべての人は主に対して自ら責任を負わなければなりません。

(『権威と服従』86~89頁の「わたしたちは代理権威に服従することに確信をもつべきである」より抜粋引用 )

2010年10月28日木曜日

よみがえった希望 L.B.カウマン

(「人間をとる漁師にしてあげよう」 フィリンゲン・教会扉より)
悪名高いパリのこじきピエールは、来る日も来る日も、町かどに立って、哀れっぽい声で通行人に小銭をねだっていました。通行人は、ただもうこの忌まわしい社会の落伍者からのがれたいという気持ちから、気前よくピエールにお金をくれてやるのでした。

ピエールの立っている場所から何メートルも離れていない所に、有名な画家の仕事場がありました。画家は一日じゅう、魅せられたようにじっとこじきを見つめていました。とうとう彼は、ピエールをかいてみたいという欲望を押えることができなくなりました。彼は画架とカンバスを窓の近くに持ち出し、熱に浮かされたように夢中でかきだしました。

絵ができ上がって、それに満足すると、画家は窓を強くたたいてピエールの注意をひき、正面の入り口からはいって来るようにと合図しました。彼は無言のまま、ピエールを、掛け布でおおわれた画架の前に案内しました。彼が手で掛け布を払いのけると、掛け布は床に落ち、完成された作品が現れました。

「これはだれですか」。

ピエールは驚いて尋ねましたが、やがて、おぼろげながら、それがだれであるかがわかってきたらしく、あえぎながら、信ぜられないとでもいうように叫びました。

「私ですか」。
「私の見たこじきのピエールです」と画家は答えました。
「もしあなたがそのように見ておられるのなら、私はそのような人間になります」。


(金色の秋 フィリンゲンの池)
聖書には、姦淫の場でつかまえられた女の物語が生き生きと描かれています。彼女はさばかれ、刑を宣告されるために、宮に連れて来られました。彼女が優しいガリラヤの主の御前に立った時、主は彼女の落ち着きのない目を見つめられました。そして、そこに、打ちひしがれ、傷つけられた女を見られたのです。主のその長い注視は、女の内部に深く突き刺さりました。主は、平安(それは生ける救い主を信ずることによってもたらされるものです)を叫び求めている、罪に陥った魂を見られたのです。

イエスは、彼女を訴える者たちを、ひとりまたひとりと見つめられました。ついに彼らは、イエスに注視されて、自分たちの狡猾の罪を自覚し、彼女を非難することをやめて、こっそりと立ち去ってしまいました。

恐れに満ちた沈黙は、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」というイエスの低い声によって破られました。

この主のお言葉は、彼女にとって生涯の大憲章となりました。彼女は、自分をとらえていた罪のきずなから解放されました。いまや彼女は、頭を高く上げて、恥じることなく隣人たちの間を動き回ることができるようになったのです。

私たちの神は、なんと優しく、また親切であられることでしょう!彼は見捨てられた女をさげすむようなことはされませんでした。また、彼女に罪に満ちた過去を思い出させ、彼女を責めるようなこともされませんでした。そうではなく、できる限り優しく、彼女の心に希望をもたらすことばを語られたのです。

私といっしょに、ヨハネによる福音書1章42節の聖句を思い起こして下さい。「そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、『あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする』」。

イエスは私たちを、驚くほどに知っておられます。彼は私たちの心を知り、「あなたは・・・である」と言われます。もしこれが彼のお言葉の全部であるなら、私たちはなんという悲惨な、望みのない敗北の中に置かれることでしょう! しかしイエスは、そのすぐあとに、急いで、「あなたを・・・と・・・する」と付け加えられました。うぬぼれの強いシモンは、ペンテコステにおいて岩の人ペテロとなりました。私たちも、イエスが私たちの未来を形造られる時、喜んでそれにあずかる特権を持っています。イエスが「あなたは・・・である」と言っておられるだけでなく、「あなたを・・・と・・・する」と言っておられることを思い起こして下さい。

(『一握りの穂』松代幸太郎訳36~38頁より引用)

2010年10月27日水曜日

第11日 栄光の主を仰ぎ見る喜び

(ナナカマド スコットランド・エジンバラにて)
いよいよ、最終日第11日目(現地10/12Tue)について述べる時が来た。この日は集会も何もなく朝早くから二コースに別れ、チューリッヒ空港、ミュンヘン空港へ向かい帰国への旅路を急ぐことになっていた。現地にはなお30名の方が残られ、引き続いて日本から来られる後半のグループの方と更に一週間「喜びの集い」を持たれることになっている。朝8時の出発を控えたあわただしく、気ぜわしい早朝、去る者、留まる者を問わず集まり、祈り会がこの日も持たれた。ただ6時15分から始まる早朝の祈り会に果たして人々は集まって来れるのかと思ったが、ほとんどの方が集まられた。30分間、それぞれが賛美し、聖書のみことばを味わい、出席者が輪になって心を合わせ祈った。一人でできないことも、友と励ましあいながらできることがある。期間中途中からではあったが実施され、良き習慣となったこの祈り会は、私たちにとって大きな財産となった。

去り難いフィリンゲンの宿舎であったが、台所などで奉仕されたシュベスター(英語でシスターに当たる)や現地に残る人々の暖かい見送りを受けて私たちは一路日本へとそれぞれの空港へ出かけた。私たちの帰りのコースはミュンヘン空港に向かうものであった。宿舎からは4時間ほどかかった。最初はボーデン湖畔を走り、その後南ドイツの平原を横断する旅であった。車窓の両側には黄葉した樹木や延々とぶどう畑やりんご畑が展開し、黒いぶどうの実、赤いりんごがその緑野に彩を添えて点在する。私のこの感覚は、ドイツ人が日本の水田風景を見て感嘆することがあるとしたら、その感覚と好一対をなすものではないだろうか。

空港に着き、およそ12時間ほどの飛行時間、考えることはこの12日間の旅のすべてであった。一つ一つの事象は風の如く飛び去って今や記憶のかなたにある。しかし主なる神様が生きて働かれるお方であることは旅の前と後とでは大いに異なって、私にとってよりリアルな実在感を持って迫ってくるのであった。長い長いと思う空の旅はどなたも経験されることと思うが、帰りは、「帰心矢の如し」のことばのとおり早いものだ。成田空港に無事到着した折には再び日本の雑然とした風景の中に放り込まれた思いがしたが、これこそ現実だと思い歩足を強める。

到着ロビーを歩く時、「喜びの集い」でお声をかけたかったお一人で中々お交わりする機会のなかったその方から、思いもかけないことばをいただいた。「○○さんは真珠婚だったのですね。おめでとうございます。実は私たちもそうなんですよ。夫は13年前に亡くなりましたが、1970年の10月に結婚したのですよ」という言葉だった。確かに家内は自らの証の際に少しだけこのことに触れた。それを聞き知られたのであろう。しかし、ご自身の悲しみ、寂しさを越えてこのように祝福してくださることを嬉しく聞くことができた。出発する前にはただ結婚40周年(1970.4.26)だと周りの者に言われ互いに出てきたが40周年に呼名があること、しかもそれが「真珠」という素晴らしい名前を冠していることをこの時初めて知った。その後、ネットで調べてみたら、実際はその方の勘違いで真珠婚は30周年で、40周年はルビー婚だと知った。

今回の旅は私たちは口で言うほど特別自分たちの結婚40周年を意識していたわけではない。しかし、このお方の何気ない言葉を通して、旅の間ずっと気になっていた、ご主人を亡くしたり、様々な事情でご主人と別れたりして一人淋しく参加されているが、ともに主イエス様に愛され愛する方々が多くおられることを思った。また体のご不自由なご主人がいかに手厚い奥様の介護のもとで行動されているか、また同じように体のご不自由なご婦人がまわりの方の助けをいただきながら行動されるかをつぶさに見させていただいた。たとえどんなに夫婦が健在であってもいずれの日にかその関係は解消される。その時私たちはそれらの方々の寂しさを本当に自分のものとすることができるのだろう。

病を押して参加され、先週木曜日後半の「ドイツ喜びの集い」を終えてお帰りになったベックさんは今日入院されることになった。そのベックさんが、「大変ですけれど嬉しい」と題して、昨日、次のみことばをもとに新築なった吉祥寺の会堂でメッセージされた。

あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだますように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(2コリント6:4~10)

そしてメッセージを閉じるにあたり、一つのバッハのエピソードを紹介され、次のような意味のことを語られた。それは召される直前バッハは目が見えなくなったが、ある時目が見えたそうだ。その時奥さんが一輪の美しい薔薇を示し、「あなた、この薔薇が見えますか」と言われたら、「見えるよ」と言い、続いて「お前と私がもうじき見るであろう薔薇に比べたら、この薔薇は言うに足りない。もうじきお前と私が聞くであろう音楽に比べればこの世の音楽は言うに足りない。そして私はこの目で主、イエス・キリストご自身を見る。」と答えたそうです。これこそ信仰の確信に満ちたことばでないでしょうか、と。

お聞きしていて目頭が熱くなった。これは病の中、何よりも主イエス様の再臨に備え、天国を仰ぎ見るベックさんの信仰のすべてを物語っているからである。このことを事、私たちの結婚というものに当てはめて考えるなら、たとえ、地上での結婚の恵みがどんなに素晴らしくても、どちらかが先に召されれば、その喜びはいずれは崩れ去る。しかし永遠の天の御国に住まう確信を夫婦がともに備えているなら、その喜びは永遠に続くことを証している。そのようなご夫婦にとって目に見える現実(地上での一時的な別れ)は取るに足りないと言えるのだ。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ8:18)


もし年数だけで私たちがルビー婚を自負しており、堅固な主イエスキリストの十字架に信頼する信仰の上に立っていないなら、それらは砂上の楼閣に過ぎない。これが、愚かな私たち夫婦にベックさんを通して与えられたみことばの真理であることを証してこの稿を閉じる。長い間愚考につきあってくださった目に見えない読者の方々に同じ神様の祝福がありますようにと祈るばかりである。

2010年10月26日火曜日

第10日 二人して40キロ以上

(フィリンゲンの城壁の塔に描かれた騎士)
子どもたち五人の祈りと愛のささげものによって、はるばるヨーロッパまで来ることのできた、今回のヨーロッパ訪問も、いよいよこの日の「喜びの集い」が最後になった。午前中と夜と二度の集会があったが(後述)、昼間は宿舎から出てフィリンゲンへ繰り出し、それぞれ最後の観光と買い物に時間を費やした。

ところが「ルビー婚」を自他共に認める私にとっては中々この時は苦い時となってしまった。午後の出発時点で私が家内とは別行動を取ってしまったからである。私自身は家内の足が痛んでいるから一緒に行動することを最初から諦めていた。だから、多くの人々の一人として家内がバスで乗り込んだのに、数人の方とフィリンゲンへの徒歩行をともにしたからである。何年か前、家内と家内の高校時代の同級生3人とともに5人でフィリンゲンまで小川を見ながら散策した思い出が忘れられなかったからである。

結局5、6人の方との楽しい散策の後、辿り着いた午後の数時間はフィリンゲン特有の城壁に囲まれた囲域(決して広くない)を歩いているに過ぎず、他の方々とは何回もお会いするのに、なぜかその間家内と一度も会うことがなかった。会うことができたのは観光も終わり近くなって、バス停に人々が集まって来た時であった。家内は別のご婦人と一緒で楽しそうに、それぞれ大きな買い物袋を提げての姿で現われた。その時、家内にすべて買い物を押し付け、その上、重い物をずっと持たせ続けてしまったことを知り、私に初めて悔恨の思いが湧き上がってきた。せめてもの穴埋めとばかり、すぐ走り寄って早速買い物袋を持ち、帰りは一緒にバスに乗って帰ってきた。

(家内と再会した場所に咲いていたバラ)
私たち夫婦は、100人の方々とそれぞれ親しくなりたいと、思っていた。もちろん、それらの方々の多くの人々とは日頃からお交わりをいただき親しくしていただいているが、全く初対面の方も数えてみれば20数名いらっしゃった。だから、夫婦別行動になるのはお互いの間で最初から暗黙の了解であった。そのこと自身には悔いは残らないが、夫として配慮が欠けていたと思わざるを得なかった。

振り返ってみれば、午前中は二人の方がメッセージしてくださったが、その中でイエス様の次のみことばが語られていた。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13:34~35)

その方は、私たちの互いの間にその愛が流れてくるように、私たちは十字架の主イエス様に従い、祈り求めるべきだ。そしてそれが御霊の一致であり、それは決して夢物語でなく、同じ御霊から流れ出てくる主イエス様の具体的な愛の表われであると語られた。そして、そのような愛の体験をさせられる者とは、もう一人の方が引用してくださった次のみことばのように自らの心の貧しさを心底自覚している者ではないだろうか、と思わされた。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ5:3)

集会、観光、食事と様々な場面で、私たち100名の者は互いに、このように自分のありのままの姿をさらけ出しながら、一方で日毎にささげる祈りと日々与えられるみことばを通して一人一人が確実に変えられて行くのがわかったのでないだろうか。最後の夕食となったメニューは今となっては忘れてしまったが、繰り返し訪れてくる食事のたびに各自が皿を持ち、自分の好きなものを乗せ、テーブルに戻っては、口にパンや肉をほおばりながら、食事のたびに組み合わせの変わる方々と交歓を楽しみながら、日々語り合う至福の時であった。

この日、夜に持たれた最後の集会では、この集会に10人余の人が参加された一家族の方々によるメッセージと証が行なわれた。一家の家長である兄弟が引用されたみことばは「主の祈り」のところであった。

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)

家長の方のこの祈りは、ご自分の姉君夫妻やもう一人の姉君の参加になり、一方二人の子どもをかかえる働き盛りの若夫婦の参加となった。それだけでなく、お嬢さんの姑さん、またご友人も参加されたのである。それらの人々を前に正直に、それぞれ両親夫婦、娘夫婦の家族建設に至る蹉跌と主にあるあわれみ祝福がある時は涙を交えて語られた。

長かった私たちの海外旅行第10日目(現地10/11)もこうして終わり、この後、部屋に戻り明日の出発のためにパッキングに入った。。くれぐれも20キロは越えないようにと言われたが、私の方がややオーバーして、何とか2人合わせて40キロに納めた。しかし私たちが受けた祝福は40キロ以上であった。

2010年10月25日月曜日

第9日 聖なる日、日曜日

(アイドリンゲン・ムッターハウスの賛美:photo by K.Aotani)
昨日の日曜日(10/24)は家の近くの幼稚園の体育館で110数名の方たちとともに主イエス様を礼拝する恵みにあずかった。その前の週の日曜日(10/17)は家内の亡父、亡祖母の年忌に出席するため滋賀の生家に帰っていた。さらにその一週間前(10/10)はドイツ、その二週間前(10/3)はスコットランドと、この4週間の間に、私たち夫婦は数千キロを移動したことになる。

私はあなたの御前から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。(詩篇139:7~10)

日曜日は礼拝の日である。イエス・キリストを信ずる前に、私にとって信仰を持つ上で障害の一つになったのは、この日曜の存在であった。それまで日曜は午前中は一週間の労働の疲れを癒すためのくつろぎの時間であり、自由に過ごすことのできる天下御免の日だった。その余暇を音楽を聞いたり、映画を見たり、時には東京まで出かけ美術館などに行く時間にあてていた(その当時は足利に住んでいたが)。ところが日曜午後になるとそろそろ授業のことが心配になり、来るべき週の備えのためにあわてて準備に専念するのが落ちだった。その私の生活パターンは、もし「日曜礼拝」というものを受け入れるなら完全に崩されてしまう。

そんな私に結婚前の家内が熱心に教会への出席を勧めた。愛は強しである。愛はそんな私の思いを打ち壊したからである。逆に教会に行ってみると、そこでは人々が暖かく迎えてくれた。また何よりも礼拝に参加することを通して「いのち」の洗濯ができるような清々しい思いになった。いつの間にか勧めらて行くといういやいやながらの状態から、自ら進んで出かけるように変えられていた。

こうして40年前に結婚してからは二人して日曜日に教会で礼拝を守るということは当たり前になった。もちろん折角の日曜日が礼拝に出席するために、初めの頃は授業の準備が十分できないということも生じた。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(出エジプト20:8)

これが、主イエスを信じようと信じまいと、すべての人間に、生けるまことの神様が私たち一人一人に求めておられるご命令である。そのことに触れてベック兄は『神の聖なる戒め』130頁で次のように書いている。

一生涯における日曜日というものは、その人にとって大変大きな財産であり、そしてまた同時に大きな責任を伴ったものであると言えましょう。たとえば70歳になった人は、それまでの人生において10年間に等しい日曜日を持ったことになるわけです。あなたはおいくつですか。あなたはすでに何年間分の日曜日を持ったことになるのでしょうか。そしてあなたはそれをどのように用いたのでしょうか。誰一人として主の御座の前で言い訳をすることはできません。「私たちはそのための時間がありませんでした。」と言うのが、神のみことばを避けたい現代人の言い訳ですが、それは主の御前に何の言い訳にもなりません。

私たちが海外に出てすでに9日目にあたる日(現地10/10)は私たちがドイツで多くの方々と礼拝を持つ日になった。礼拝の中でイエス・キリストの贖罪を象徴するパンとぶどう液にあずかり、その後の福音集会ではドイツ人の方から「主イエス様の心構えとは」と題して適切なみことばをいただいた。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ2:3~7)

そして100人余りの日本人はさらに午後二時からフィリンゲンから7、80km離れたアイドリンゲンというベックさんを生み出したムッターハウスの地での集会へと参加するためバスで長躯二時間かけて出かけた。

そのバスの中、私は隣席の方とともに、その方が練習のときに録音された音を頼りに今日ご披露する賛美のテナー部分を繰り返し練習した。周りの女性たちもいつの間にかその私たちの熱意に動かされてソプラノやアルトの部分を歌って協力してくれた。調子に乗った私たちはさらに熱心になり、バスの後部座席に陣取った私たちの賛美はにわかにバス全体を支配するまでに至った。その内にいつも合唱をしている女性たちの間から「本番になったら声が出なくなるといけませんから、この辺でやめたほうが良いですよ」と助言をいただく程だった。

(tea time: photo by k.Aotani)
こうして和やかなバスの交わりののち目的地に着いた。早速ベックさんのドイツ語によるメッセージ、そして二人の日本人の方々の通訳つきの証と続く。初めの方は、長年、主に従って来られたが今はみことばのみに頼り、みことばがすべてのすべてだと「みことば」を証された。一方ドバイに駐在している商社マンの方はご自身がどのようにして信仰を持つに至ったかを証し、「ここにいらっしゃるすべての方が主イエス様を信じて、一緒に天国へ行きましょう」と結ばれた。

最後が日本人による賛美二曲だった。ピアノ伴奏による混声四部合唱に青谷友香里さんのヴァイオリンの演奏が加わる。「再び主が来られる時迫る。その日、空は輝き、主を告げる。待ち望むその時よ、われらは空に上げられ、雲の中主とともに御国に上る喜び。」と賛美した。あんなに練習したのに肝心のテナーである自分は全く音が取れずに苦労する。しかし、ヴァイオリンの音色がいやが上にも天を憧れて上るようだった。すべてが終わった後、ムッターハウスの責任者の方から「今、私たちは天国にいるようだ」と最大の賛辞をいただいた。

その後は交わりのためのコーヒータイムだった。それぞれ数テーブルに分かれての、ドイツ人の方を交えての、身振り手振りよろしくカタコト英語で話しかけるお交わりとなった。何度か来ているので顔見知りの方もおられるのだが、ドイツ語が話せず、英語も自由に話せないのはもどかしい。別れがたい交わりもお開きになり、次男夫妻もパリへと帰ってゆく。

宿舎に帰っても、日曜日ともに主を礼拝、賛美できた喜びに満たされていた。そして私たちの間にはより一層の親密感、「天国」の住人とせられている一体感が増し加わった。夕食の交わりはその証で満ちていた。夜、部屋に退いて床に着くときも、賛美で歌った「天国」のメロディーがいつまでも体中をめぐっている。昼間、ドイツ人の方とは中々コミュニケーションが取れず苦労したことを思い起こす。それでも天国では「天国語」で話すと言う。その時、今度は「天国語」がものを言うのだろう。そう言えばあのスコットランドの主にある姉妹も「今度は天国で会いましょう」だった。

日曜日は天の御国を何よりも思う時だと合点する。かくしてわが「ルビー婚」の旅もそろそろフィナーレに近づく。残すは後二日になった。

2010年10月24日日曜日

喜び 

(リーガルベコニア エジンバラにて)
「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」(ヨハネ15:11)

もしだれかが、幸福なクリスチャンになる方法はと尋ねたら、主は簡明にこう答えられるであろう。「わたしがぶどうの木と枝について、これまで話して来たのは、わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしにとどまり、わたしをしてあなたがたにとどまらせることです。それによってあなたがたはわたしの喜びを持つことができます」。すべて健全な生活は喜びに満たされていて美しいものである。枝としてりっぱに生きたいものだ。それによって私たちはキリストの喜びをいっぱいに受けることができるに違いない。

多くのクリスチャンは、キリストに全面的にとどまる生涯は、緊張と苦痛の多い努力の生涯であると考えている。私たちの中にあるキリストのいのちに絶えず服従するならば、そのような緊張と努力をする必要がなくなるということがわからないでいる。このような人には、「わたしはわたしへの完全な服従のほかには枝から何も求めません。わたしは枝のあるべき姿を守り続けることを約束します」という、このたとえ話の最初のことばさえわかっていないのだ。神の愛の中におられるみ子に、絶えず私たちのいのちを支えていただくことを知るのは、絶えざる喜びでなくて何であろうか。

私たちはキリストご自身の喜びを、私たちの喜びとしなければならない。ところでキリストの喜びとは何であろうか。キリストの喜びはただ愛する喜びだけである。愛する喜び以上の喜びはない。それは父の愛を受け、それにとどまる喜びであり、次にこの愛を罪人である私たちの上に注ぐところの喜びである。キリストが私たちと分け合うことを望んでおられるのはこの喜びにほかならない。この喜びはまた私たちが周囲の人々を愛し、その人々のために生きる喜びとなるのである。これはまさにまことの枝になる喜びである。これはつまり、ほかの人のために実を結ぶ目的でキリストの愛の中に私たち自身をゆだねてしまうことである。キリストのいのちを受け入れよ。なぜならキリストの喜びは私たちの喜びであり、キリストのように愛する喜びであり、キリストの愛によって愛する喜びであるからだ。

神だけがすべての喜びの源であることが忘れられがちなのは何と悲しいことではないか。ほんとうに幸福になるただ一つの道は、「わたしの大きな喜びである神」(詩篇43:4)のみこころといつくしみをできるだけ多く自分のものとすることである。

信仰とは、日々の生活の、ことばで言い表すことのできない喜びを意味しているのである。しかし多くの人々がそういう喜びを得ることができないでいると嘆くのはどうしたことであろうか。それはキリストの愛の中にとどまるような喜びがほかにないことを信じないからである。どうかキリストの声がひとりひとりの、特に若いクリスチャンの心を動かし、キリストの喜びがただ一つのまことの喜びであり、その喜びの中に住むただ一つの確かな方法は、キリストの中に枝としてとどまることであると、はっきり信じさせることができますように。私たちが喜びに満たされないのは、私たちが天のぶどうの木をまだ正しく理解しない証拠である。もっと深い喜びを得たいという願いは、私たちにもっと素直に、もっと十分にキリストの愛の中にとどまるようにとしきりに語りかけている。

(ドイツ平原に広がるぶどう畑、バスの中から)
祈り

「『わたしの喜びとあなたの喜び』。ぶどうの木として、また枝として、あなたの喜びは私の中にあり、私の喜びはあなたの中にあります。枝の中にはぶどうの木のすべての喜びがあり、それによって私たちの喜びは満たされます。聖なる主よ。あなたの喜びで私を満たしてください。愛される喜び、愛によって祝福される喜び、愛する喜び、ほかの人々を祝福する喜びで私を満たしてください。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』安部赳夫訳103~107頁より引用。一箇所訳を変えたところがある。)

2010年10月23日土曜日

第8日 キリストをかしらとする神の家族

(集会の合間、談笑する人々 photo by Keiko Aotani)
日が経つにつれ人間の記憶は薄れてゆく。しかし、この日のことは忘れることはないだろう。理由は後で書く。すでに海外旅行に出て第8日目(現地時間10/9Sat)になっていた。この日は一旦パリに帰った次男夫妻が集会に参加するためドイツに来る日だった。すでに前夜にはポーランドで仕事をしている次男と同世代のご夫妻もお子さんを連れてフィリンゲンの宿舎に入り、先に参加されているご両親、弟さん家族と合流しておられた。

ところがこの日は期せずしてその両家族が午前、夜の集会でそれぞれメッセージや証をすることになった。午前中は前夜合流されたご家族がそれぞれ4名で話され、司会はご長男がされた。仕事の関係でドイツにも数年おり、ドイツ喜びの集いの常連の方である。このご家族は全員がキリスト者として導かれている。一家の長であるご主人は昨日のアルプス観光に触れ「山々をも造られた偉大な創造主である主と人間の関係」について語られた。御巣高山の飛行機事故は有名だが同社の客室乗務員として自らもその飛行機の何時間か前に乗っており、死に対する備えのないことを、ベックさんとの交わりを通して悟り、素直に主イエス様に救いを求め、救われたと証される。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(1テモテ2:4)

そのようにして作り上げられたクリスチャン家庭であったが、成長期にあった二人の男の子のしつけ・教育をめぐって母親と息子たちの間にどのようなバトルがあったか親の立場、子どもの立場から語られた。今だから語れる話も多いし、苦しかった当時と違い、今は客観視できる余裕がある。だからお聞きしていて、ほほえましくもあり、家庭の暖かさを思わされた。そして親子関係の葛藤も、聖書がなければ決して解決できなかったことが証される。そして、今や人の親となっているご子息たちは、まずそれぞれ夫婦の関係を築き上げるのに、どのようにして主イエス様に対してへりくだり、整えられつつあるかを証された。

(談話室 photo by Keiko Aotani)
集会のあと明日に控えたアイドリンゲンでの賛美のために特に男性陣は特訓を受ける。けれども何度練習しても音が取れない。練習したという時間が積み重ねられるだけで中味が追いつかない。一案を講じた方が練習の模様をそのまま録音された。その後追い込みにこれがどれだけ武器になったことか。

昼食を終え、午後3時からコーヒータイムがあり、自由な交わりがなされたが、男性陣はまとまってドイツ人の方を囲んでの集いとなった。次男夫妻はまだ姿を現わさない。パリから電車で来るから時間がかかるのはやむをえない。ところが彼らは夜の集会のことは何も知らされていない。やきもきする。それだけでなく、私自身のメッセージが全然まとまらないのだ。これには困った。引用聖句は与えられたのだが、読めば読むほど自分の聖書理解が不十分であることが露呈してきたのだ。とうとうコーヒータイムも出ずして、祈る思いで聖書を繰り返し読む。その内、次男夫妻が到着する。彼らも事の次第を知らされてあわてただろうが、こちらはそれどころでないというパニック状態だった。
(集会場  photo by Keiko Aotani)
とうとう夕食も取らず、部屋にこもる。次男たちも同様だったようだ。そしてあっと言う間に集会の時間になった。次男自身は司会だと思っていたが土壇場で「証」と知らされ、再びギクッとする。司会は会社から褒賞休暇をいただいて来られた方がしてくださった。

トップバッターの私は、しどろもどろそのまま、以下のみことばを中心に語る。

あなたがたは、ある程度は、私たちを理解しているのですから、私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであるということを、さらに十分に理解してくださるよう望むのです。(2コリント1:14)

これはパウロという使徒がコリントの教会の人々との間に持とうとした信頼関係を象徴する大切なみことばだ。集会に参加している私たちひとりひとりもまたこのパウロの言の如く神様の子ども、キリストのからだとして互いに愛し愛される関係でありたいという思いで語った。

話し終えてほっとして席に着くと今度は妻が証をした。子どもたちの子育て(主への悔い改めと主からいただいた祝福)について証をした。次に紙婚を二ヵ月後に迎えるお嫁さんが証した。結婚までのいきさつ、二人の夫婦関係への樹立に対する主のあわれみなどを述べ、みことばを紹介するものだった。最後は夫である次男だった。用意のない彼が何を言うか案じたが、日曜日のエジンバラで私たち四人(ルビー婚の私たちと紙婚の次男たち)で持った礼拝の時に与えられたみことばルツ記2・4、2・12を開き、さらに次のみことばを読んだ。

主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない(箴言10:22)

そして最後に夫婦に関するみことばエペソ5:20~33を朗読した。

妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも自分の妻を愛しなさい。(エペソ5:22,25)

案じていた集会もこうして主が祝福して下さり終わった。終わって司会者の方と次男夫妻はほとんど初対面であったが、互いに仕事の上での共通の知り合いがいることが判明した。その上、今回の休暇は勤めておられる会社のパリ支店開業何十周年かのお祝いが関連していると知らされ、ここにも見えないところで働いている主の導きを思わされた。

私にとっては何よりも長い長い一日だったが、苦労した甲斐のある一日であった。そして両家の証は期せずして主を愛する家族に対する主の大きなあわれみを考えさせられる内容だった。何よりもルビー婚の私たちに対する主からのメッセージでもあった。

2010年10月22日金曜日

第7日 山々も主の御前に喜び歌え

(登山列車の中から。牛は右の方にも一二頭いる)
すでに日本を離れて7日目(現地時間10/8Fri)になる。エジンバラにいた時には、一日も早く日本食が欲しいと思っていたのに、ドイツのフィリンゲンの食事に少しずつ順応し、肉類やたくさんの乳製品、それに豊富な野菜と、バランスに飛んだ食事で、英気を養うように変えられている。不思議なものだ。この日はアルプス行きとなって、早朝まだ明けやらぬうちからそわそわ準備にかかる。

何度経験してもバスに乗って出かけるのは心がはしゃぐものだ。ましてアルプス行きだ。隣の人と会話を楽しみながら窓外の景色を眺めていると夢のような思いがする。ところがそんな思いに反してどうも空の雲行きは怪しかった。雨さえぱらつく気配だ。途中、このままでは今日はアルプス行きは中止で「ベルン観光」に切り替わるかもしれないと内心心配した。ところが国境を越え山国であるスイスに入りアルプス山に近づくと平地のドイツでの天候と打って変わり、嘘のように晴れ渡っていた。万歳!皆の気分も一気に高揚する。

二時間超バスに乗った上、目的地のふもとの登山列車の駅ヴィルダースヴィル(Wilderswill 標高600m)に着きフィリンゲンの宿舎のシュベスターさん達が用意してくださった食事をにわかスタンドをつくり各自昼食になった。10月上旬とは言え、日本を出る時は寒いことを予想して、防寒用のジャンパーを用意してきたのでそれを着こんでのアルプス行きだったが、脱ぎ捨てねばならないほど暖かで戸外の食事も苦にならない。そう言えばエジンバラでも暖かかった。気候異変はヨーロッパでも現われている。地球は一体として病んでいるのだ。

その後、登山列車二両に分散して100名の者が頂上駅のシーニゲプラッテ(Schynige Platte)まで更におよそ50分ほどの行程を満喫した。右に左に曲がりながら眼前に迫るユングフラウはじめアルプスの名峰にそれぞれ息を呑む。自然界の創造のみわざの頂点だ。しかし、今朝読んだ詩篇には次のようにあった。

(アイガー・ミュンヒなど主峰)
新しい歌を主に歌え。
主は、奇しいわざをなさった。
主は御救いを知らしめ、
その義を国々の前に現わされた。
全地よ。主に喜び叫べ。
海と、それに満ちているもの。
世界と、その中に住むものよ。鳴りとどろけ。
もろもろの川よ。手を打ち鳴らせ。
山々も、こぞって主の御前で喜び歌え。
確かに、主は地をさばくために来られる。
主は義をもって世界をさばき、
公正をもって国々の民を、さばかれる。(詩篇98)

「山々も、こぞって主の御前で喜び歌え。」とある。名峰の前に無にも等しい私たち。しかし創造主はこの罪人をご自身の御子イエスの血潮を通して救い、ご自身の義を現わされる。その前に山々も主の御前で喜ぶとあるのだ。

山上で散策しながら、それぞれのところで、各自が好むままに写真に納まる。どの顔も晴れやかである。こんな時には言葉は要らないようだ。互いが大きな自然の中に抱かれているからだろうか。下山の時刻が来て再び登山列車でもと来た道を下る。今度は今まで気づくことの少なかった、ふもとの青い水をたたえたブリエンツ湖(Brienzersee)が山の木立から見え隠れするのや、移牧の牛が草を食む斜面を見ては、歓声を上げる。同じような登山列車が赤色などの車体を鮮やかに見せながら後ろ前と上り下りするのも見える。下山は早い。


再び長時間のバスで帰り道を急ぎながら、宿舎へと戻ったのは6時を過ぎていただろうか。しかし、到着早々間髪をいれず夕食の合図がなる。着替えもそこそこに皆食堂に集まる。今晩はどの人と一緒に食事をしようかな、となるべく今まで触れたことのない人と隣席につくように場所を選ぶ。そうかと思うと逆にいつもじっと離れない人もいる。何もかも自由である。快い疲れで食事もはかどり、互いに打ち解けあい会話も弾む。そういう中で集った人々の間に朝、祈り会をもってはどうかという話が自然と盛り上がってきた。もちろん参加は自由である。かくしていよいよ集いも佳境に入る気配を見せる。第8日目はこうして終わった。

2010年10月21日木曜日

第6日 主はまず夫を救われた

(ドイツ Titisee チチ湖を望み見る)
 いよいよ第6日目(現地10月7日Thu.)である。午前、夜と二つの集会が持たれた。開会に当たる集会ではご夫妻が語られ、それぞれ夫である兄弟がメッセージ、妻である姉妹が証をなさった。夫である兄弟がご友人を通して主イエス様に出会われ救われなさった。妻である姉妹は戸惑いをしばらく覚え苦しまれたが間もなく救われた。しばらくしてその後大きな試練に会われた。思いもかけない方法でお嬢様をなくされたからである。主を信ずる者に、なぜそのような試練が与えられるのか、と普通の人なら考えるところだが、逆に救われていたからこそ、その試練に立ち向かうことができたと兄姉はいつも証してくださっている。

何度、お聞きしてもその件(くだり)に来ると涙なしには語られないことだし、聞く私たちの側でも同じ思いにされる。それだけにそのおり、兄姉が聖書が伝える「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ12:7)というイエス様のおことばにゆだね、いかにお嬢様との天の御国での再会を待ち望んでおられるかを改めて知り、襟を正される思いだった。開会の集会を通して「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)と静かなフィリンゲンの過す一日一日への備えがなされる。

参加者はほぼ百名であった。ご夫婦単位の方もいらっしゃれば、そうでない方もいらっしゃる。それぞれ様々な事情と背景を持つ者が主イエス様をよりよく知り、体験したいという思いで全国から集まられ、遠くドイツまでやって来られたのだ。司会に当たられた方はこの「ドイツ喜びの集い」参加を願いながらもこれまで中々仕事の都合上できなかったが、今回やっと職場の方々の同意も得てここまで来れたかを話してくださった。旅は送り出す方々の暖かい愛と配慮なしには不可能であることを思い、ここで過す一瞬一瞬も無駄にはすまいという覚悟が一同に及ぶ。

集会の終わりには日曜日アイドリンゲンの地でご披露する賛美の練習が行なわれた。もともと男性は20名程度で女性より参加者が少ない。自ずとパートを受け持つ者の責任は重くなる。私はテナーであるが、全く楽譜が読めない、音が取れない、心もとないことと言ったら、これにまさるものはない。しかしドン・キホーテよろしく、とにかく指揮をしてくださる方やピアノ伴奏をしてくださる方に励まされながらの練習となった。そんな覚束ない練習だが、互いに一つのものを作り上げてゆく喜びだけが支えであった。

午後は天候も良いとなって、急遽バス二台を仕立てて、チチ湖へ出かけた。私にとっては初めてではなく、過去、二、三回ほど訪れた湖である。前回などは家内と湖畔を一周した懐かしい思い出の地だ。しかし、すでに足を痛めている家内ゆえ、家内とは離れて行動する。このような観光地をあてどもなく散策しながらお互いを知り合って行けるのがこの「喜びの集い」の魅力であろう。ところが今回私は欲張って少しでもいい景色を撮りたいという思いに捉われてしまっており、上のような事情もあって一人になることが多かった。後で振り返り惜しいことをしてしまったと思った。

宿舎に戻り夕食の後、夜の集会が持たれた。夜の集会は別のご夫妻が当番でそれぞれ午前と同じようにメッセージと証がなされた。夫である兄弟も旅の中でメッセージを依頼されたのであろう。ノートパソコンを覗きながらのユニークなメッセージとなった。引用聖句は「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(ヘブル9:28)であった。奥様である姉妹の証は、救われる前のご主人が若いとき哲学青年であったこと、人の目を直視することができなかったなど内省的な姿が披露され会場に暖かい笑いを誘いながら始まり、その夫より後に救われることになる自らの救い、親族への救いに話が及んだ。夜の司会を受け持たれた方は二人のお姉様をはじめお婿さんやお孫さんもご一緒で総勢10名程度が参加できたことを喜びをもって語られた。一人でも多くの親族友人が救われて欲しいという願いがこの集いを支えている。一日目にしてすでにこの集いのすべての特徴が網羅されていたと今にして思う。

2010年10月19日火曜日

第5日 主のご計画

(エジンバラよさようなら、中央尖塔はエジンバラのシンボル)
いよいよ日本を後にしての海外での第5日目を迎えた。この日は早朝エジンバラを離れ、チューリッヒへと向かう日になった。日の出の遅いエジンバラであるが、空模様を心配した。7時の朝食を済ませ、あわただしく空港へ向かう準備を整えた。ところが外は生憎雨が降り出し、これが本来のエジンバラ天気なのだろうかと思わされた。ほぼ晴天に恵まれたエジンバラ観光だったのに、このため空港へはバスでは行けず、タクシーを呼んでもらった。

雨中、気さくなスコットランド気質の運転手さんにエジンバラを「queen's city」と勝手に造語し誉め、名残惜しそうに郊外の景色を眺めながらタクシーに身を任せた。2、30分で空港に着いた。料金は15.15ポンドであった。日本円にして2200円程度であろうか。大きなタクシーにゆったりと乗ることができ(後で自分たちの体が小さいのだと気づいたが)、重いスーツケースも気軽に運んでもらい、すべて快い思いを抱いてエジンバラを後にすることができたのは感謝であった。

チューリッヒ空港は久しぶりである。エジンバラからは途中ロンドン空港で乗り換えたが飛行会社はBA(イギリス航空)であり、当然日本人乗客は少なく果たして無事に行けるか不安だったが、スムーズに乗り継ぎもでき、空港にはすでに現地に一日早く来ておられたWご夫妻に迎え入れられてほっとした。その上、成田からチューリッヒに飛んだキリスト集会の方々よりは一足早く到着して、逆に一行をお迎えする立場に立った。

(ドイツ上空、アルプス山脈が姿を)
3、40分程度待ったか、お馴染みの方々が三々五々到着ロビーから出て来られて、いよいよ一週間にわたるドイツ・フィリンゲンでの喜びの集いに参加する者が一堂に会し、新たな緊張と喜びに包まれた。(厳密には別便でもっと遅くミュンヘン着でさらにフィリンゲンに急行される方々もおられたのだが)到着客の最後尾にベックさんご夫妻の姿が見えた。いつもよりは心なし足取りが重そうであった。発熱を押してのご旅行になったと後で知った。

一瞬、心に不安がよぎった。一軍の将が病気なのだ。しかし、その後の日々を通して、様々な困難のうちにあった「喜びの集い」が「主の計画」であることを確信せざるを得なかった。その後、日本に帰って、「祈りのハイド」(フランシス・A・マッゴー著 瀬尾要造訳)という作品を読んでいたら、次の箇所に行き当たった。

しかし、ハイド氏の病状は悪化していました。そのうえ、彼のミッションの年会は彼を招いていました。心配なので、私は彼を医者に連れて行きました。翌朝、医者は言いました。『心臓がひどい状態です。これまで、こんな悪い症状を見たことがない。左側にあるはずのものが右側に移動してしまっています。過労と緊張のため、こんなに悪化したのですから、普通の状態に回復するまでには、長期の厳重な安静が必要です。いったいあなたは、何をしてこられたのですか。』親愛なるハイド氏はひとことも語らず、にっこり笑っただけでした。けれども彼を知っている私たちは、その原因が、彼が導いている回心者のため、同労者のため、その友人のため、そしてインドの教会のために多くの涙をもって熱い祈りをささげた、日夜の絶え間ない祈りの生活のゆえであることを知っていました!」(同書63~64頁)

ハイド氏とベックさんを重ね合わさざるを得なかった。かつて、もう10数年以上前、初めてベックさんとともに400名ほどの日本人がドイツに行った時、ベックさんのささげた最初の祈りの言葉を思い出す。それは「主よ。こんなに大挙して日本人が来てくれました」という誇りに満ちたことばでなく、「主イエス様、(私は罪人の一人に過ぎません)あなたをより深く知りとう存じます。この集いでもどうぞよろしくお願いします。」という主へのくだりの祈りであった。

そのベックさんが今回病を押して喜びの集いを計画された。もちろんベックさん一人の計画ではない。日本・ドイツをはじめとする主にある多くの人の祈りが背後にある。何よりも次の主のことばの励ましがあることを、私はそれまでの夫婦だけの旅では決して知りえなかった、「計画」に対する、もっと深い主の導きを体験的に知った。

この確信をもって、私は次のような計画を立てました。・・・この計画を立てた私が、どうして軽率でありえたでしょう。それとも、私の計画は人間の計画であって、私にとっては、「しかり、しかり。」は同時に、「否、否。」なのでしょうか。・・・私たちが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり。」と同時に「否。」であるような方ではありません。この方には「しかり。」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。(2コリント1:15、17、19、20)

かくて我々がフィリンゲンの宿舎の用意された暖かい部屋に退く頃、成田からミュンヘンまでの長時間飛行を経験し、その上5時間のバスを乗り継いで疲れきった後発グループも到着し、後は明日から始まる喜びの集いを待つのみになった。

2010年10月18日月曜日

第4日 I can do without you.

第4日目も晴れていた。しかし家内の足の痛さは相変わらずであった。遠出は諦めて、バスをふんだんに利用してエジンバラ市内へと出かけることに決めた。ところで行き先は再び書店と決めた。前夜、書店主からいただいた証を読んで痛く感動したからである。

(ロイヤルマイル内に位置する書店)
証の文末は「今日も宣教はみことばから離れることなく続けられています。いつまでもこのことは変わることはありません!救いは悔い改めと、主イエス様の忝(かたじけな)くも、流される清い血潮によってきよくせられることを確信することによってのみ可能です。主イエス様こそ唯一の救い主です。主イエス様はすぐに再び来られます」と結ばれていた。日本に帰ってきてこのパンフはネットでも見られることを知った。(くわしくは以下のサイトをご覧いただきたい。)
https://mccallbarbour.co.uk/about/

さらにその本文には昨日お会いした兄と妹がそれぞれ幼い時に救われたことが書いてあった。「兄は5歳、妹はもっと年端も行かない時(直接お聞きしたところによると3歳半とのことであった)」と書いてあった。ますますこの兄妹の方と再び会いたい思いがふつふつと湧き上がり、また昨日、探すことを忘れていた本や、買い残した様々な日めくりのカレンダーのことなどを思い出したからである。

こうして書店の扉を押して二度目の再訪を果たした。今度は本を片っ端から探した。前日見逃していた垂涎の書物が沢山あった。もっと若ければ購入したところだが、諦めた。変わったところでは、三浦綾子の「塩狩峠」の英語版が置かれてあったり、またジェシー・ペン・ルイスやハヴァガルの伝記も見られた。残念ながら、お目当てのAngus I. Kinnearの書いたウオッチマン・ニーの評伝「Against the tide」は見つからなかった。(後日談だが、数日後ドイツ・フィリンゲンでドイツ語訳を見つけた)

再び書店主と会話を楽しみ、日本から「実を結ぶ命」の英語版を送ることを約束して別れた。(のちにドイツで合流したキリスト集会の方々にこの店主との話を紹介したところ、早速一人の姉妹がドイツにまで日本から持参した同書の英語版を譲ってくださった。その姉妹も何のために持って来たか、特別当てはなかったそうだ。お役に立てて嬉しいと言ってくださった。帰国後、早速その本と私が所持していたものを合わせ二冊を航空便でお送りした。今ごろは日本からスコットランド・エジンバラへと向かっているはずだ。)

(右手壇上から語るのはノックス?)
その後、平日はお昼12時を期して行なわれる聖ジャイル教会(St. Giles' Cathedral)のDaily Serviceに出かけた。ジョン・ノックスゆかりの教会である。みことばの朗読が行なわれていたようだ。エペソ書やルカ伝が読まれており、家内も私もルカ10:38~42のように聞いた。その箇所は以下の通りである。

主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41~42)

(堂内のノックス像)
堂内には観光客がちらほら、聞いていたのは私たち夫婦以外には3、4名のみで、淋しかったが、私たちはみことばを聞けたので満足して外に出た。アダム・スミス像、ヒューム像の間を観光客を交えて人々が闊歩する。道路はひっきりなしに、スコットランド特有の二階建てバスが走り去る。オズワルド・チェンバーズの通った教会もあったが、さすがそこまでは手が回らなかった。昼食をプリンセス通りのマグドナルドで済ませた頃には再び家内はダウン。止むを得ず、夫婦別行動を迫られた。明日はエジンバラを離れる。私にはもう一つどうしても訪れたいところがあった。それはDavid McCaslandの次の文章に関わる場所だった。

ある晩秋の夕べ、オズワルドは心を集中することができなくなり、部屋を出て、ホリールード館の保護区にある王室公園に向かって東の方に歩いていた。祈りに夜を徹して過そうと決心して、エジンバラを一望の下に見渡す市内でもっとも高いところ、「アーサーズ シート」以外に独りになるところはないと考えたからである・・・(『Oswald Chambers: Abandoned To God』56頁)

(アーサーズシート)
私はそこがエジンバラのどこであるかを最初から探していて見当はつけていたが、そこにいたるバス路線は中々見つからなかった。何しろエジンバラ市内には二つの運行バス会社がそれぞれ40数路線にいたるバスを走らせているのだが中々コースをつかめなかったからである。滞在わずか三日ではあるが見学の最終日、やっとあたりをつけて35番バスに乗車、ほぼ近くまで行けた。そこからは徒歩であった。家内が一緒だと足手まどいになるが、幸い私一人であった。夕闇迫る中、目的地を目指して歩行を早めた。その場所はまさに樹木一本生えていない草地におおわれたところであった。頂上を極めたかったが、こういう場合は一人のこともあり、心細くなり遠巻きに見ながら帰らざるを得なかった。しかし、この山「アーサーズシート」での「祈り」を通してチェンバーズが大きな主からの声※を聞かされたことを想起し、改めてチェンバーズにより一歩近づいた思いと、もう一方では近づきがたい畏敬の思いを抱かされた。

(鬼気迫るようにそびえる岩山)
※he heard a voice that actually spoke these words, "I want you in My service-but I can do without you."(彼は「わたしはわたしの召しにあなたをつかせたい、しかしわたしはあなたの力なしでことを行なうことができる」と確かに語りかけるみ声を聞いたのだ。前掲書57頁より)

(日本に帰ってきて慶應義塾大学出版会が編集した米欧回覧実記「イギリス編」を調べたらその238頁に明治4年9月12日すなわちチェンバーズの生まれる二年前に特命全権大使一行がこの岩山に登山したことが書いてあった。途中怖くなって尻尾巻いて下山した私に武士の魂はさておき、キリスト者の魂のひとかけらもないことに恥じ入らされた。)

ほとんど道案内もないまま、子どもたちの愛の贈り物を通してここまで導かれた今回のエジンバラ観光だが、一日、一瞬として無駄がなく、それぞれに深い意味があることを感謝した。宿舎に当てたホテルは日本でネットでさぐり、どこかわからないままで予約したが、その場所もまさしく私たちの行動にふさわしい場所であった。都心とも言うべき大きな駅であるウェイヴァリー駅でなく小さなハイマーケット駅が近くにあり、空港には最も近い場所であったことに気づいた。のちにドイツで人間の「計画」についてはるかに深い思いを教えられたが、エジンバラ観光はかくして私たち夫婦が「計画」の意味を知る緒戦の役割を果たしてくれたのである。マリヤのように、なくてならないもの、みことばにじっと耳を傾けることを教わった日々であった。

2010年10月17日日曜日

いかなる時にも クララ

「わが魂はもだしてただ神をまつ。民よいかなる時にも神に信頼せよ!」(詩篇62:1、8)

ある高徳な師が弟子である青年の問いに対して「昼でもない夜でもない時があったら、あなたはそのような本をお読みなさい」と言ったということですが、これは興味ある答です。この言葉は当時まだ年若かった私の心を強く捕えました。なぜなら結局時を大切にする人にとっては、そんな本を読む必要がない、理想を高く持つ者は時の浪費をさけなければ実を結べないと言う事です。

われわれが聖書に帰ります時、更に積極的な生活戦線の指導を発見することです。人々はこの世の凶暴な力に捕えられ、不安につつまれているような環境の下に在りながらも「神により頼む者は失望に終わる事はありません」「神に頼りたのむ者はさいわいです」等と多くの聖徒達が自らの信仰経験を証しているのを見ます。

更に聖書は「いかなる時にも神に信頼せよ」と命じていますが、いかなる時にも、という言葉のうちに含まれていない時がありましょうか。すべての時は神の聖手のうちにあります。悲しみの時も苦難の時も、喜びの日も憂いの日もすべてのものを統べ治めたもう神に信頼せよとは、何と偉大な勧告でしょう。これこそ最高の生活であり、あやまたぬ勝利のコースです。

われわれは世のならわしに頭を下げては失敗します。神への信頼だけがもたらす強力な能力をもって勇者の如く前進しましょう。高い目標は人を安逸の椅子に坐せしめてはおきません。もし絵筆をとるならばミケランゼロを夢み、楽器に向かえばバッハを仰ぎ、ありし日の彼らを努力の目標とし、神の友アブラハムの試練を思い、祈りの人サムエルの深さを理想とし、信仰より信仰へ、恵みより恵みへ、力より力へと、神の賞与を得ようと走りましょう。

世の安価な「やすっぽい」快楽に心をひかれて、ローレライの魔の淵に己が生涯の小舟を沈没させる愚者にならないように、いかなる時もさめて神に信頼する事です。一体人間の能力は限度があり、思いがけぬ逆風に遭遇して漕ぎなやみます時も信仰をもって神に頼りたのみますなら、希望は失望に終わる事がない。これは真実な神の約束です。もしわれわれが天のかなたに思いを馳せる事を怠って、永遠を思う思慮を放棄しますなら必ず見えるものに心をうばわれ、かくされた見えない宝の発見に力を失い、愚かにも悔いて帰らぬ空しい時を過します。

義人は信仰によって生きるとは不変の真理です。もし神を見失いますなら永遠をも見失い、永遠を放棄する時希望は失望に終わります。

主イエスは試練の極度の十字架においてさえも「彼は神に信頼している」との堅固な姿を破られなかったのです。これこそ信仰の極地であり沈黙は光を放ったのです。この混乱のただ中にあって、わが岩、わが避けどころなる主を仰ぎ、ひたすらなる信頼をもってただ神をまちのぞみ、その深き恵みを味わい知りたいと祈るものです!

(文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著10月17日の項より引用。写真の花はエジンバラのluxuriant gardensの一角より撮影。)

2010年10月16日土曜日

第3日 B.McCall Barbour書店

エジンバラに入って三日目。この日は朝から快晴であった。当初の私の思いではチェンバーズの生誕地アバディーンを訪ねるはずだった。ところが生憎、家内は連日の街歩きがこたえたか、これ以上、外には出られない様子で、とても電車でかの地まで出かけるのは無理だった。諦めてエジンバラ市内見学に精を出すことにした。

私は何としてもチェンバーズの足跡をたどりたいと思うし、家内はスコットランドのキリスト教文書を取り扱う書店に行きたいと願っていたようだ。しかし、この場合、主導権はもちろん夫の側にある。いくつかのチェンバーズゆかりの場所を私はすでに頭の中に入れていた。宿はエジンバラの南西にあったので中心街にはバス利用が好ましい。幸いエジンバラは二階建てのバスが何路線も沢山走っていて、四通八達できる。その上一日乗り放題のチケットは三ポンド(日本円にして400円程度か)で購入できた。勢い出かけることにした最初の目的地はエジンバラ大学だった。

エジンバラ大学こそチェンバーズが様々な碩学に出会い、彼が主イエス様からの召しと自己の芸術愛好の狭間の中で葛藤し続けた学の殿堂だ。以前からどうしてもこの大学を一目見たかった。しかし、意外やバスの中から簡単に見つかり、大学近くで下車することができ、やすやすと大学の中の最も古い場所に入れた。しかも構内の中心部は史跡保存のためであろうか柱石などが発掘中で、丁寧に扱われており、このところに学生時代のチェンバーズもいたかと思うと感無量であった。回廊を現在のエジンバラ大学の学生が多数行き交う。若い学徒とともにいることは何となく嬉しい思いがする。厚かましくも、資料館へ行き、ずばり、オズワルド・チェンバーズの資料を持ち出し、説明を求めたら、親切にある場所を教えてくれた。結局辿り着いたのは本部からさらに離れた図書館であったが。

さすがにそれ以上中に入る勇気もなく、チェンバーズの暮らした学生時代の雰囲気を肌身に感ずるだけで良しとした。さらに図書館を離れ、スコットが暮らした場所を見たりしているうちに、家内は歩き疲れて、もうこれ以上歩けない様子であった。疲れた足取りでバス停留所に向かおうとしていた。その時、何気なく通りの店の看板を見上げた。B.McCall Barbour Sound Christian Literatureと読めた。内心飛び上がらんばかりだった。これぞ、昨日路傍伝道していた方が私たちに教えてくれた書店名であった。住所こそ聞いていたが、広いエジンバラで、地図で探せば何とか尋ねあてることは可能と思っていたが、こうして一方的に書店の前に来るとは・・・。私たちにとっては天啓のごときできごとであった。

一階とあったが、一階にはそれらしきものは見当たらない。それもそのはず、一階とは日本で言う二階に当たるのだろう。勇気を出して狭い入り口から階段を上がった。上がり鼻にその書店はあった。足を踏み入れるや、一人の初老の男性が眼鏡越しにこちらを見る。客は私たちだけだった。私たちはすっかり興奮して次から次へと、私は本を、家内はキリスト教グッズ(賛美曲、カードなど)を探しにかかった。私の尊敬する方々の様々な書物を手にすることができた。F.B.マイヤー、スポルジョン、ウオッチマン・ニー、アンドリュー・マーレーなどである。残念ながらチェンバーズの本は「My Utmost for His Highest」しかなかった。余りにも私が様々なことを聞くので初老の男性はさらに別室にいた二人の方を呼んだ。白髪で上品な出でたちのスコットランド紳士であるお兄様とその妹様が現われ応対してくださった。

特に妹さんの方は私たちの訪問を殊のほか喜んでくださり、書店の由来について説明し、帰りがけには書店形成にいたる証のパンフレットまで下さった。お互いに人種を超えて抱きあわんばかりのフレンドリーな交わりを持つことができ、別れ際には「今度は『天国』で会いましょう」とまで言われたほどだった。家内も先ほどまでの足の痛みも忘れたかのように嬉々として姉妹との交わりを喜んだ。私たちは今回の何気なく始まったエジンバラ訪問がこの様な人々との生きた交わりにあったとは旅行前には微塵も想像しなかった。拙い貧しい祈りに主がこんなにも答えてくださることに改めて感謝したことは言うまでもない。

名残惜しい書店を辞し、次にはノックスゆかりの場所も訪れることができ、家内の顔もやっと立てることができた。ところが、その場所からはるか下に港湾が望見できた。私の食指は再び動き出し、港湾行きのバスを見つけ、出かけることにした。ところが、意外や時間はかかり、やっとの思いで港湾に出た。目で見る距離感とは大きな違いであった。それはともかく、そこで見た船舶の一つに、何とアバディーン行きの大型船舶があった。本来、この日に出かける目的地であった「アバディーン」にここで出会うとは。私はこの日アバディーンを訪れることはできなかったが、こうしてこの船舶の特徴ある赤色の胴体を見ることですべてを了解した気分になった。北海に面してエジンバラよりもさらに北東へ200kmほどある漁港の姿をある程度はMcCaslandの第三章A SCOTTISH BOYHOODで読んでいたからである。かくして三日目も主の祝福のうちに終わった。


あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(新約聖書 ガラテヤ3:26、28)

(写真上段はエジンバラ大学の構内、シンボルと思われるドーム型の屋根は画面反対側にあり、中庭を取り囲むような形で各教室が納められている。発掘が進んでいたのはその中庭に当たる部分で、画面の欄干の下の部分である。下段は言うまでもなくフォース湾に停泊中の船。画面を拡大してみていただければアバディーンの文字が読み取れるはずである。この紀行文の最初に掲載した空から見た光景は恐らくこの辺りの上空から見た姿であろう。)

2010年10月15日金曜日

第2日 路傍で出会ったジョージさん

 前回は思わず、フランクフルトからエジンバラへの飛行中のことに話が及んだが、実は成田からフランクフルト間こそ飛行時間12時間近くに及ぶ長時間の機内生活であった。乗客は日本人が圧倒的に多く、フランクフルト・エジンバラ間とは全く客層が異なっていた。その間ずっと私たちの隣に座っておられた方は一人の日本人女性だった。ところがその方と私たちが会話を交わしたのはほとんど終わり近くになってからだった。私たちには珍しいことだった。フランクフルトに降りる際にその方は家内に「お二人は研究者かと思いました」と言われたそうである。

 それには訳があった。スコットランド訪問に対して、事前にほとんど準備らしきものをしなかった私たちは、家内が「ノックスとスコットランド宗教改革」を、私は「Oswald Chambers: Abandoned to God」の一部をコピーして持ち込み、共通本としては図書館で前日借り出した「地球の歩き方 スコットランド&湖水地方」を持ち込んでおり、それらの読書に余念がなかったからである。もともと18切符愛好者にとって12時間弱の飛行時間はそんなに苦にならない。ましてスコットランドについては憧れこそ互いに持ってはいても、無知同然の初訪問であるから、読書にもってこいの時間と考え、隣の人と会話をする時間が惜しかったのである。だから隣席のご婦人がそのように言われても無理からぬことであった。でもキリスト者としては失格であると思った。イエス様のことをその方には伝えなかったからである。

 エジンバラに着いて次男夫妻に伴われるまま、夜間、市内を歩き回った。薄暗い夜間に、大きな石造りの古色蒼然とした建物がたくさんあり、灰色そのままで迫ってくるが、なぜか人の暖かさを感ずるのは私の独りよがりの錯覚であったろうか。次の日は日曜日、再び別の宿を取った次男夫妻と合流してホテルで4人でルツ記を互いに輪読しながら礼拝を持った。その後、本格的なエジンバラ訪問に出かけた。傘をしのばせざるを得ない天気のはっきりしない、しかも風も強い日であった。エジンバラ城に近づき、下ってはアダム・スミス、ヒュームの像の見えるあたりを歩いた。そしてパリへと帰路に着く次男夫妻とはその辺りで昼前に別れざるを得なかった。

 12月23日にやっと紙婚を迎える次男夫妻に別れ、ルビー婚の私たちはいささか心細さを覚えながらも足の向くままプリンセス通りを散策にかかった。ニュータウンとオールドタウンがその通りの両側に広がるが、私たちはまず本屋に入り込んだ。エジンバラのCLC(クリスチャン文書伝道団)の所在を確かめるのが目的であった。ところがこちらの英語力と、店員さんがそんな特殊な本屋さんを知っているはずもないということもあって、結局店頭では、要領を得た答も得られず、空しく外に出た。程ならずしてプリンセス通りのオールドタウン側、ウェイヴァリー駅から人々が上がってくるところに差し掛かる時だった。

 一人のスコットランド人の方が道行く人に何か語りかけては、文書を渡している。何となく惹かれて近づいてみると、様々なトラクト(伝道文書)を渡していたのだ。その上、私たちが日本人であることをすばやく見抜いて、簡単な「日本語聖書」を渡そうとされる。最初は未信者扱いをされていたが、私たちが自分たちの信仰を告白すると、路傍伝道はそっちのけで互いにキリスト者としての交わりになった。

 話してみると、仙台の知人も知っておられ、息子さんが日本人と結婚して北海道におられるという話も聞くことができた。再び家内がCLCの所在をこの方に尋ねる。するとその方はCLCは無いが、キリスト教図書を扱っている本屋が一軒あると言って、本屋の名前(B.McCall Barbour)と住所(28 George Ⅳ Bridge)を教えてくださった。その頃は、午前中の曇り空にも、時折陽が差し込み明るさが出て来るころだった。私たちの心にも、この不思議な、スコットランド人の一キリスト者との出会いを通して希望が湧いて来る思いがした。エジンバラではその後も中国人の観光客こそ見かけたが、日本人にはほとんどお目にかからなかったのに、この人は様々な人々が駅に乗り降りする場所で各国のトラクトを用意していたのだ。ギリシヤ語のものもある、と言う。通りすがりの人々の外見で判断し、とっさに文書を手渡すのだと言う。

 チェンバーズの評伝を書いたDavid McCaslandはその第五章冒頭で次のように書いていた。

ロンドンからの汽車が汽笛を鳴らしながら、プリンセス通りの華やかな庭園を過ぎ、ウェイヴァリー駅に向かって止まった時、オズワルドは「故郷」に戻った気分だった。彼はスコットランドを何よりも愛した。それは彼の生まれた国であった。彼はいつも注意深く自分の国籍はスコットランドであり、決して英国ではないと言い張っていたのであった。エジンバラ!オズワルドはどんなにこの街を愛していたことか。この街は暗く、時折、気分を滅入らせる外見を見せるが、そこには人々と神にとって何よりも偉大な記念建造物があったからである。※

 時移り、チェンバーズの歩いた街を知り、少しでもチェンバーズの歩みを感じたいと思っていた私を招いてくれたのはこの一人のスコットランド人の方であった。そしてその場所がまさしくMcCaslandをとおしてチェンバーズの故郷入りが印象深く描かれたウェイヴァリー駅、プリンセス通りの庭園近くであったことに、この無計画な旅に対する主イエス様による天の配剤を思わざるを得なかった。私たちはお互いに名前を言い合い、祝福を願って別れた。

ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように。」と答えた。(旧約聖書 ルツ記2:4)

(※引用文章は「Oswald Chambers: Abandoned to God」47頁。写真はプリセス通りのluxuriant gardensの一角で見た花園。空は曇っていたのに、この明るさは何なのだろうか。まさしくluxuriantそのものだ。)

2010年10月14日木曜日

第1日 子どもたちの贈り物

子どもたちがそれぞれお金を出してくれ、ヨーロッパの旅に行かせていただいた。結婚40周年を祝してということだった。ちなみに結婚50周年は金婚式として有名であるが、一年目からの紙婚式をはじめとして様々な呼び名があることをこの機会に知った。40年目はルビー婚式と言うそうだ。夫婦の関係が「紙」のようなものから徐々に堅固なものへと変わることを指してつけられている。

ヨーロッパと言えば、いつも「喜びの集い(バイブルキャンプ)」で出かけるドイツや次男のいるパリ・フランスが当然候補に挙げたいところだが、まだ引越ししてリフォーム中とあっては訪ねることも出来ず、果たしてどこがいいかと話し合ったが、夫婦して「スコットランド」に期せずして一致した。

スコットランドは私にとっては経済学の祖であるアダム・スミスの母国としてなじんでおり、最近では日々読んでいる、オズワルド・チェンバーズの母国でもある。家内は「我にスコットランド(の救い)を与えたまえ、しからずば我に死を与えたまえ」と祈ったジョン・ノックスの母国として憧れていたからである。

それ以外何の知識もないまま、先ごろスコットランド・エジンバラ空港に降り立ったが、主なる神様はこのような愚かな私たちの思いにまさるできごとを用意してくださっていた。成田からフランクフルトとを経由してエジンバラへとルフトハンザで飛び立ったが、フランクフルトからエジンバラまでわずか二時間弱の飛行時間の中で一人の女性の方と乗り合わせた。

乗客は多くはなく、空席も目立ち、その上日本人は私たちだけで、多くがヨーロッパ人ばかりであったが、その方は私たちにとって最初から目立った白人女性であった。年の頃は70代であろうか。開放的で私たち新参者にも親しめる雰囲気を持っていた方であった。ところが飛行機に乗ったところ、よりにもよってその方が家内の隣に座られた。ほぼ30分程度はお互いに知らぬ存ぜぬと仏頂面を決め込んでいたが、そのうちにその方が何かとオーラを発してこられた。

あっという間にお互いに身振り手振りで話し込んでしまい、気がついてみたらエジンバラへの着陸態勢に入っていた按配であった。話によると、その方はロシア生まれロシア育ちだが、20年ほど前からスコットランドに来ており、今では大学で英語からロシア語への翻訳の仕事に関わっているということだった。再婚なさり、魅力的なロシア人由来のファーストネームと再婚なさった方の典型的なイギリス人のファミリーネームの組み合わせになるお方であった。私たちがロシア人として尊敬しているドストエフスキーやトルストイ、プーシキンの名を持ち出すと、大いに共感を示され喜ばれる。チャイコスキーの名前を持ち出せば、間髪をいれず「悲愴」を目を閉じながらハミングしてくださる、というご愛嬌ぶりであった。話は進み、ロシアの今の国情を憂え、それに対して、いかにスコットランドが純朴ですばらしいかと比較され、その方がスコットランドを第二の母国としてどんなに愛し親しんでおられるかが伝わってくる内容だった。遠く日本から初めて出かけてゆく私たちに良き道案内をしてくださることになった。(もっとも果たしてこちらが話の内容を正確に理解しているかどうかは心もとないのだが・・・)

着陸寸前、名刺を交換して取るものも取りあえず、その方とは別れ、空港出口へと急いだ。出口には、会社の社員旅行でロンドンに出向き、そのついでにエジンバラに先に着いていた次男夫妻が出迎えてくれた。次男たちの側には私たちの見知らぬお年寄りの女性がいた。すぐ知ったことではあるが、到着を待ち合わせている間にその方とは知り合いになったようだった。ところがその方が迎えに出られたのは私たちの隣席にいた女性であった。こうして私たちは不思議な出会いをあっと言う間にほんの二時間足らずの間に経験させていただいたのだ。

不安だらけの私たちであったが、先立つお方が不思議と何の不安もなく、適切な人をそばに置いてくださったのである。約10日間余りのヨーロッパ滞在の一部始終がこのような主の導きなしには考えられない出来事ばかりであった、このところ休載勝ちであったこのブログもそういうわけでしばらく私の赤ゲットぶりを披瀝するものになりそうだ。ご寛恕をいただきたい。

主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。(詩篇139:1~3)

(空から初めて見るエジンバラ。エジンバラは曇りがちであり、中々いい日和には恵まれないと、旅の道中、ある方からお聞きした。果たしてその通りの初日であった。)

2010年10月3日日曜日

望みの神 クララ

「どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように」(ローマ15:13)

希望は人の心に灯をともし、心の盃にうま酒をあわだたせます。希望の光が一度心の暗を破る時、生活のベルトは勇ましく回転し始めます。希望こそは生活の工場のすみずみまでも震動させるふしぎな動力です。

人はその所有する望みにふさわしく生きるもので、その望みが多種多様なように人の生活も多種多様です。天につける望み、地につける望み、霊の望み、肉の望みなどその人が未来に、また将来にもつ希望がその人の現在の生活の原則となってその生活を形づくるという事は確かな事実です。ですから現在の生活を見てその人の将来への希望を知る事ができるもので、もしその人の希望が永遠の栄光につながれている時は、その生活は永遠にふさわしくこの世において星のように輝くのは当然です。

これに反して希望なき人生は何と惨めでしょう。生きるという事が重荷となって迫り、鉛の靴が足を重くします。よし望みをもっているつもりでも、それが確かなものでないなら人生は失望と違算に終わる事でしょう。

信仰の勇者パウロは「キリストに望みをおき、生ける神に望みをおいた」と記しています。不変の望みはただ神にのみあります。神は歴代の優れた聖徒、信仰の勇者達を通しその生活の事実をもって望みの神を示し「希望は失望に終わることはない」と証させたまいました。

アブラハムの偉大さは、無から有を呼び出される神を信じた事です。「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」とあるように、その希望が神におかれていた所に生活の源泉があり、そこから彼の生活も人格も作り上げられ後世を導く明星となったのではありませんか。偉大な預言者は崩壊の近づく羽音を聞きながらもなおそのかなたに約束された回復の恩寵を信じて、望みを失いませんでした。

御言によって望みをいだいた彼らはこの望みを存在の支柱とし、患難をも喜び、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生み出しました。パウロは自らが苦難を味わい、生きる望みさえ失おうとした時にもなお失望に終わらぬ望みを、事実身をもって証したのです。

ある船が大洋の真中で遭難し多くの者が波間に投込まれ、救助の望みさえない長い時間を過ごし、殆どの者は飢えと寒さに死にました。ところがただ一人不思議に生き永らえて遂に救われました。その理由は、事実は他の人々と同じく波にもまれつつ死に瀕した時、ふと思い出した事は「ああ今頃我家では妻が出産した筈だ、その子のために」と強い希望が胸に湧き上がった時、死を征服して希望が勝ったのです。現代の危機に面している私共も、更にまさった希望の故に勇気を出して生ける神に望みをおき「希望は失望に終わることはない」との御言を信じ、望みにあふれさせて下さる神を生活をもって証しようではありませんか!

(文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著10月3日の項より引用しました。「希望は失望に終わることはない」のみことばは、今から26、7年ほど前一人の女子高校生のうちに成就しました。彼女は自ら招いた死に至る損傷の中で奇跡的に助かり、手術台の上でこのみことばを頭の中で大きく描き、かつ瞑想し、痛みに堪えた、と私に語りました。そして6、7年ほどして、今度はまことの救いを体験しました。今では二児の母親です。げに「望みの神」は、今も生きておられます。写真は季節はずれだが、盛夏のおり見た野いちごです。)

2010年10月1日金曜日

説教者に問われるもの(下)

説教者の一番鋭く、力のある説教は説教者自身に向かってなされなければなりません。説教者の一番困難で精密な、しかも骨の折れる働きは、説教者自身に対する働きでなくてはなりません。十二弟子の訓練は、キリストにとっては実に困難な、忍耐のいる大事業でした。

説教者は説教を作る人ではなく、人を造り聖徒を造るものです。しかしまず、自分みずからを人、また聖徒に仕立て上げた人であって、初めてこの働きに対してよく訓練された人であるということができます。神が必要とされるのは、すぐれた才能をもつ人でもなければ、大学者でもなく、また大説教者でもありません。神が求められるのは、聖潔であり、信仰に富み、愛に富み、忠節に富む大いなる神の人、すなわち常に講壇においては聖い説教により、また講壇外にあっては聖い生涯によって説教している人であります。こういう人こそ、この時代の人を神のために形づくることができるのです。

初代のキリスト教徒は、このように形づくられていました。彼らは勇敢で、また剛直であり、兵士らしく、しかも聖徒らしい人々であって、天の型に従って堅実に形づくられておりました。彼らにとっては説教は克己と自己磔殺(たくさつ)の事業を意味し、また容易でない労苦を伴う殉教的事業でありました。彼らはその時代に影響を与えるように全力を注いで説教し、その説教の中に、やがて神のために生まれるべき時代を構成したのです。説教する人とは祈りの人でなければなりません。祈りは実に説教者にとって最大の武器です。祈りはそれ自体が万能の力をもち、またすべての人に生命と力とを与えるものであります。

真の説教は密室で作られます。人――神の人――は密室において造られるものであります。彼らの生涯と最も深遠な罪の自覚とは、彼らがひそかに神と交わった結果として生まれます。霊魂の重荷と苦悩、ならびにその最も力のある、甘美な説教は、彼らがただひとり、神とともにあったときに得たものです。祈りは人を造り、祈りは説教者を造り、また牧師を造るものであります。

現代の伝道者は祈りが非常に薄弱であります。自分は学問があるという誇りは、祈りという依存的なけんそんに逆らうものであります。今日祈りは伝道者にとって、どんなにしばしば事務的なものであり、おきまり的な奉仕に過ぎないことでしょう。パウロの生涯とパウロの働きにおいて偉大な力をもっていた祈りは現代の伝道者にとっては、ほとんど何らの力にもなっていません。およそ祈りをもって、その生涯と奉仕とにおける有力な原動力としない説教者は神の事業の代理者としては虚弱であって、この世に神の計画を進展させるには無力であります。

(先輩の一言をきっかけに読み直してみた『祈りの力』E・M・バウンズの本の冒頭の一章を(上)(中)(下)の三つに分けてご紹介した。ルカの福音書に「イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。」6:12~13と記されているイエス様の祈りの重要性を改めて思わされる。写真は今年の盛夏、田舎の川縁で望見したもの。滋賀県犬上川でのこと。「炎天下 鷺二羽たむろ 魚求め」 「イエス君 漁どる弟子 任命す みこころ求め 徹夜の祈り」 )