2010年10月14日木曜日

第1日 子どもたちの贈り物

子どもたちがそれぞれお金を出してくれ、ヨーロッパの旅に行かせていただいた。結婚40周年を祝してということだった。ちなみに結婚50周年は金婚式として有名であるが、一年目からの紙婚式をはじめとして様々な呼び名があることをこの機会に知った。40年目はルビー婚式と言うそうだ。夫婦の関係が「紙」のようなものから徐々に堅固なものへと変わることを指してつけられている。

ヨーロッパと言えば、いつも「喜びの集い(バイブルキャンプ)」で出かけるドイツや次男のいるパリ・フランスが当然候補に挙げたいところだが、まだ引越ししてリフォーム中とあっては訪ねることも出来ず、果たしてどこがいいかと話し合ったが、夫婦して「スコットランド」に期せずして一致した。

スコットランドは私にとっては経済学の祖であるアダム・スミスの母国としてなじんでおり、最近では日々読んでいる、オズワルド・チェンバーズの母国でもある。家内は「我にスコットランド(の救い)を与えたまえ、しからずば我に死を与えたまえ」と祈ったジョン・ノックスの母国として憧れていたからである。

それ以外何の知識もないまま、先ごろスコットランド・エジンバラ空港に降り立ったが、主なる神様はこのような愚かな私たちの思いにまさるできごとを用意してくださっていた。成田からフランクフルトとを経由してエジンバラへとルフトハンザで飛び立ったが、フランクフルトからエジンバラまでわずか二時間弱の飛行時間の中で一人の女性の方と乗り合わせた。

乗客は多くはなく、空席も目立ち、その上日本人は私たちだけで、多くがヨーロッパ人ばかりであったが、その方は私たちにとって最初から目立った白人女性であった。年の頃は70代であろうか。開放的で私たち新参者にも親しめる雰囲気を持っていた方であった。ところが飛行機に乗ったところ、よりにもよってその方が家内の隣に座られた。ほぼ30分程度はお互いに知らぬ存ぜぬと仏頂面を決め込んでいたが、そのうちにその方が何かとオーラを発してこられた。

あっという間にお互いに身振り手振りで話し込んでしまい、気がついてみたらエジンバラへの着陸態勢に入っていた按配であった。話によると、その方はロシア生まれロシア育ちだが、20年ほど前からスコットランドに来ており、今では大学で英語からロシア語への翻訳の仕事に関わっているということだった。再婚なさり、魅力的なロシア人由来のファーストネームと再婚なさった方の典型的なイギリス人のファミリーネームの組み合わせになるお方であった。私たちがロシア人として尊敬しているドストエフスキーやトルストイ、プーシキンの名を持ち出すと、大いに共感を示され喜ばれる。チャイコスキーの名前を持ち出せば、間髪をいれず「悲愴」を目を閉じながらハミングしてくださる、というご愛嬌ぶりであった。話は進み、ロシアの今の国情を憂え、それに対して、いかにスコットランドが純朴ですばらしいかと比較され、その方がスコットランドを第二の母国としてどんなに愛し親しんでおられるかが伝わってくる内容だった。遠く日本から初めて出かけてゆく私たちに良き道案内をしてくださることになった。(もっとも果たしてこちらが話の内容を正確に理解しているかどうかは心もとないのだが・・・)

着陸寸前、名刺を交換して取るものも取りあえず、その方とは別れ、空港出口へと急いだ。出口には、会社の社員旅行でロンドンに出向き、そのついでにエジンバラに先に着いていた次男夫妻が出迎えてくれた。次男たちの側には私たちの見知らぬお年寄りの女性がいた。すぐ知ったことではあるが、到着を待ち合わせている間にその方とは知り合いになったようだった。ところがその方が迎えに出られたのは私たちの隣席にいた女性であった。こうして私たちは不思議な出会いをあっと言う間にほんの二時間足らずの間に経験させていただいたのだ。

不安だらけの私たちであったが、先立つお方が不思議と何の不安もなく、適切な人をそばに置いてくださったのである。約10日間余りのヨーロッパ滞在の一部始終がこのような主の導きなしには考えられない出来事ばかりであった、このところ休載勝ちであったこのブログもそういうわけでしばらく私の赤ゲットぶりを披瀝するものになりそうだ。ご寛恕をいただきたい。

主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。(詩篇139:1~3)

(空から初めて見るエジンバラ。エジンバラは曇りがちであり、中々いい日和には恵まれないと、旅の道中、ある方からお聞きした。果たしてその通りの初日であった。)

0 件のコメント:

コメントを投稿