2010年10月21日木曜日

第6日 主はまず夫を救われた

(ドイツ Titisee チチ湖を望み見る)
 いよいよ第6日目(現地10月7日Thu.)である。午前、夜と二つの集会が持たれた。開会に当たる集会ではご夫妻が語られ、それぞれ夫である兄弟がメッセージ、妻である姉妹が証をなさった。夫である兄弟がご友人を通して主イエス様に出会われ救われなさった。妻である姉妹は戸惑いをしばらく覚え苦しまれたが間もなく救われた。しばらくしてその後大きな試練に会われた。思いもかけない方法でお嬢様をなくされたからである。主を信ずる者に、なぜそのような試練が与えられるのか、と普通の人なら考えるところだが、逆に救われていたからこそ、その試練に立ち向かうことができたと兄姉はいつも証してくださっている。

何度、お聞きしてもその件(くだり)に来ると涙なしには語られないことだし、聞く私たちの側でも同じ思いにされる。それだけにそのおり、兄姉が聖書が伝える「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ12:7)というイエス様のおことばにゆだね、いかにお嬢様との天の御国での再会を待ち望んでおられるかを改めて知り、襟を正される思いだった。開会の集会を通して「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)と静かなフィリンゲンの過す一日一日への備えがなされる。

参加者はほぼ百名であった。ご夫婦単位の方もいらっしゃれば、そうでない方もいらっしゃる。それぞれ様々な事情と背景を持つ者が主イエス様をよりよく知り、体験したいという思いで全国から集まられ、遠くドイツまでやって来られたのだ。司会に当たられた方はこの「ドイツ喜びの集い」参加を願いながらもこれまで中々仕事の都合上できなかったが、今回やっと職場の方々の同意も得てここまで来れたかを話してくださった。旅は送り出す方々の暖かい愛と配慮なしには不可能であることを思い、ここで過す一瞬一瞬も無駄にはすまいという覚悟が一同に及ぶ。

集会の終わりには日曜日アイドリンゲンの地でご披露する賛美の練習が行なわれた。もともと男性は20名程度で女性より参加者が少ない。自ずとパートを受け持つ者の責任は重くなる。私はテナーであるが、全く楽譜が読めない、音が取れない、心もとないことと言ったら、これにまさるものはない。しかしドン・キホーテよろしく、とにかく指揮をしてくださる方やピアノ伴奏をしてくださる方に励まされながらの練習となった。そんな覚束ない練習だが、互いに一つのものを作り上げてゆく喜びだけが支えであった。

午後は天候も良いとなって、急遽バス二台を仕立てて、チチ湖へ出かけた。私にとっては初めてではなく、過去、二、三回ほど訪れた湖である。前回などは家内と湖畔を一周した懐かしい思い出の地だ。しかし、すでに足を痛めている家内ゆえ、家内とは離れて行動する。このような観光地をあてどもなく散策しながらお互いを知り合って行けるのがこの「喜びの集い」の魅力であろう。ところが今回私は欲張って少しでもいい景色を撮りたいという思いに捉われてしまっており、上のような事情もあって一人になることが多かった。後で振り返り惜しいことをしてしまったと思った。

宿舎に戻り夕食の後、夜の集会が持たれた。夜の集会は別のご夫妻が当番でそれぞれ午前と同じようにメッセージと証がなされた。夫である兄弟も旅の中でメッセージを依頼されたのであろう。ノートパソコンを覗きながらのユニークなメッセージとなった。引用聖句は「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(ヘブル9:28)であった。奥様である姉妹の証は、救われる前のご主人が若いとき哲学青年であったこと、人の目を直視することができなかったなど内省的な姿が披露され会場に暖かい笑いを誘いながら始まり、その夫より後に救われることになる自らの救い、親族への救いに話が及んだ。夜の司会を受け持たれた方は二人のお姉様をはじめお婿さんやお孫さんもご一緒で総勢10名程度が参加できたことを喜びをもって語られた。一人でも多くの親族友人が救われて欲しいという願いがこの集いを支えている。一日目にしてすでにこの集いのすべての特徴が網羅されていたと今にして思う。

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