2010年10月24日日曜日

喜び 

(リーガルベコニア エジンバラにて)
「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」(ヨハネ15:11)

もしだれかが、幸福なクリスチャンになる方法はと尋ねたら、主は簡明にこう答えられるであろう。「わたしがぶどうの木と枝について、これまで話して来たのは、わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしにとどまり、わたしをしてあなたがたにとどまらせることです。それによってあなたがたはわたしの喜びを持つことができます」。すべて健全な生活は喜びに満たされていて美しいものである。枝としてりっぱに生きたいものだ。それによって私たちはキリストの喜びをいっぱいに受けることができるに違いない。

多くのクリスチャンは、キリストに全面的にとどまる生涯は、緊張と苦痛の多い努力の生涯であると考えている。私たちの中にあるキリストのいのちに絶えず服従するならば、そのような緊張と努力をする必要がなくなるということがわからないでいる。このような人には、「わたしはわたしへの完全な服従のほかには枝から何も求めません。わたしは枝のあるべき姿を守り続けることを約束します」という、このたとえ話の最初のことばさえわかっていないのだ。神の愛の中におられるみ子に、絶えず私たちのいのちを支えていただくことを知るのは、絶えざる喜びでなくて何であろうか。

私たちはキリストご自身の喜びを、私たちの喜びとしなければならない。ところでキリストの喜びとは何であろうか。キリストの喜びはただ愛する喜びだけである。愛する喜び以上の喜びはない。それは父の愛を受け、それにとどまる喜びであり、次にこの愛を罪人である私たちの上に注ぐところの喜びである。キリストが私たちと分け合うことを望んでおられるのはこの喜びにほかならない。この喜びはまた私たちが周囲の人々を愛し、その人々のために生きる喜びとなるのである。これはまさにまことの枝になる喜びである。これはつまり、ほかの人のために実を結ぶ目的でキリストの愛の中に私たち自身をゆだねてしまうことである。キリストのいのちを受け入れよ。なぜならキリストの喜びは私たちの喜びであり、キリストのように愛する喜びであり、キリストの愛によって愛する喜びであるからだ。

神だけがすべての喜びの源であることが忘れられがちなのは何と悲しいことではないか。ほんとうに幸福になるただ一つの道は、「わたしの大きな喜びである神」(詩篇43:4)のみこころといつくしみをできるだけ多く自分のものとすることである。

信仰とは、日々の生活の、ことばで言い表すことのできない喜びを意味しているのである。しかし多くの人々がそういう喜びを得ることができないでいると嘆くのはどうしたことであろうか。それはキリストの愛の中にとどまるような喜びがほかにないことを信じないからである。どうかキリストの声がひとりひとりの、特に若いクリスチャンの心を動かし、キリストの喜びがただ一つのまことの喜びであり、その喜びの中に住むただ一つの確かな方法は、キリストの中に枝としてとどまることであると、はっきり信じさせることができますように。私たちが喜びに満たされないのは、私たちが天のぶどうの木をまだ正しく理解しない証拠である。もっと深い喜びを得たいという願いは、私たちにもっと素直に、もっと十分にキリストの愛の中にとどまるようにとしきりに語りかけている。

(ドイツ平原に広がるぶどう畑、バスの中から)
祈り

「『わたしの喜びとあなたの喜び』。ぶどうの木として、また枝として、あなたの喜びは私の中にあり、私の喜びはあなたの中にあります。枝の中にはぶどうの木のすべての喜びがあり、それによって私たちの喜びは満たされます。聖なる主よ。あなたの喜びで私を満たしてください。愛される喜び、愛によって祝福される喜び、愛する喜び、ほかの人々を祝福する喜びで私を満たしてください。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』安部赳夫訳103~107頁より引用。一箇所訳を変えたところがある。)

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