2010年10月28日木曜日

よみがえった希望 L.B.カウマン

(「人間をとる漁師にしてあげよう」 フィリンゲン・教会扉より)
悪名高いパリのこじきピエールは、来る日も来る日も、町かどに立って、哀れっぽい声で通行人に小銭をねだっていました。通行人は、ただもうこの忌まわしい社会の落伍者からのがれたいという気持ちから、気前よくピエールにお金をくれてやるのでした。

ピエールの立っている場所から何メートルも離れていない所に、有名な画家の仕事場がありました。画家は一日じゅう、魅せられたようにじっとこじきを見つめていました。とうとう彼は、ピエールをかいてみたいという欲望を押えることができなくなりました。彼は画架とカンバスを窓の近くに持ち出し、熱に浮かされたように夢中でかきだしました。

絵ができ上がって、それに満足すると、画家は窓を強くたたいてピエールの注意をひき、正面の入り口からはいって来るようにと合図しました。彼は無言のまま、ピエールを、掛け布でおおわれた画架の前に案内しました。彼が手で掛け布を払いのけると、掛け布は床に落ち、完成された作品が現れました。

「これはだれですか」。

ピエールは驚いて尋ねましたが、やがて、おぼろげながら、それがだれであるかがわかってきたらしく、あえぎながら、信ぜられないとでもいうように叫びました。

「私ですか」。
「私の見たこじきのピエールです」と画家は答えました。
「もしあなたがそのように見ておられるのなら、私はそのような人間になります」。


(金色の秋 フィリンゲンの池)
聖書には、姦淫の場でつかまえられた女の物語が生き生きと描かれています。彼女はさばかれ、刑を宣告されるために、宮に連れて来られました。彼女が優しいガリラヤの主の御前に立った時、主は彼女の落ち着きのない目を見つめられました。そして、そこに、打ちひしがれ、傷つけられた女を見られたのです。主のその長い注視は、女の内部に深く突き刺さりました。主は、平安(それは生ける救い主を信ずることによってもたらされるものです)を叫び求めている、罪に陥った魂を見られたのです。

イエスは、彼女を訴える者たちを、ひとりまたひとりと見つめられました。ついに彼らは、イエスに注視されて、自分たちの狡猾の罪を自覚し、彼女を非難することをやめて、こっそりと立ち去ってしまいました。

恐れに満ちた沈黙は、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」というイエスの低い声によって破られました。

この主のお言葉は、彼女にとって生涯の大憲章となりました。彼女は、自分をとらえていた罪のきずなから解放されました。いまや彼女は、頭を高く上げて、恥じることなく隣人たちの間を動き回ることができるようになったのです。

私たちの神は、なんと優しく、また親切であられることでしょう!彼は見捨てられた女をさげすむようなことはされませんでした。また、彼女に罪に満ちた過去を思い出させ、彼女を責めるようなこともされませんでした。そうではなく、できる限り優しく、彼女の心に希望をもたらすことばを語られたのです。

私といっしょに、ヨハネによる福音書1章42節の聖句を思い起こして下さい。「そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、『あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする』」。

イエスは私たちを、驚くほどに知っておられます。彼は私たちの心を知り、「あなたは・・・である」と言われます。もしこれが彼のお言葉の全部であるなら、私たちはなんという悲惨な、望みのない敗北の中に置かれることでしょう! しかしイエスは、そのすぐあとに、急いで、「あなたを・・・と・・・する」と付け加えられました。うぬぼれの強いシモンは、ペンテコステにおいて岩の人ペテロとなりました。私たちも、イエスが私たちの未来を形造られる時、喜んでそれにあずかる特権を持っています。イエスが「あなたは・・・である」と言っておられるだけでなく、「あなたを・・・と・・・する」と言っておられることを思い起こして下さい。

(『一握りの穂』松代幸太郎訳36~38頁より引用)

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